ホテル・ド・パリ
バラナシにつくと、カントン駅の表玄関と反対方向、つまり北側の一番端のプラットフオームに行ってから線路へ飛び降りた。
破れた金網をくぐり抜け、細い路地のような道を通り抜けて広場に出た。 このほうが今から行こうとしているシッダルタ・ホテルへ行くのに近道が出来るようだし、うるさく付きまとう、リキシャ、ワーラーに煩わされる事もないように思ったからである。だが実際はバラナシ市内なら、どこでもそうであるように、広場にたむろしているリキシャワーラーが、僕を見るなりわっと押し寄せて来た。 仕方がないので、そのなかから人の良さそうな五十代のワーラーにシッダルダ・ホテルにいってくれと言って乗った。ワーラーは調子よく
ヘイ、分かりましたという顔をして軽やかにペダルをこぎ出した。
ところが先程から、彼が行く方向が気になる。地図で見る限り、逆の方向に走っているように思えてならないのである。僕は何回もシッダルダ・ホテルへ行ってくれと繰り返した。やがて広い道を左折して奥まった所で、
リキシャは止ったが、そこは新しくできたゲストハウスであった。
またか。カルカッタでの、あのいやな気分が頭を横切った。
建物から人が飛び出して来て、そのゲストハウスへ引きずりこむように部屋を案内した。
僕は「ここは違う。シッダルダ・ホテルへ行ってくれ、」と語気をあらげた。 しつこい勧誘を振り切って、表路へ出ると、リキシャはどこをどう通ったのか知らないが、大きな庭のある瀟洒な白い建物が立ち並ぶ、閑静なホテルの前を通った。入り口にはホテル・ド・パリと書いてある。
ははーん。これが有名なホテル・ド・パリか。
僕はしばらく見とれていた。大きな木の陰で、ワーラーといっしょに休みながら、なめ回すように、僕はこのホテルの様子や、たたずまいを観察して
脳裏に焼き付けた。
インドにあっても、このホテルは西洋の香りを漂わせている。ホテルの雰囲気にマッチするかのように、庭内を散策する人も西洋人らしい人達ばかりで、ここだけは喧噪もなく、バラナシで別世界を構成していた。金持ちによる租界か。 下町がインドならここはヨーロッパだ。そう思ったが、僕は今インドに来ているのだと自分に言い聞かせた。ヨーロッパには用はない。
さあ、行こう。僕はワーラーをせきたてた。彼は相変わらず行き先が分からないのか、ぐずぐずしている。インドで短気は禁物だといわれたアドバイスを思い出しながら、忍耐はしたが、これじゃ日が暮れる。
僕は適当な所で降りて、リキシャを乗り換えることにした。
乗り換えたリキシャに揺られながら、僕は先程のリキシャについて考えた。
そういえばあのワーラーは、にこにこ笑みは絶やさなかったが、ひょっとしたらインド人ではないのではないか。ネパールかどこからか流れ込んで自分の言葉以外には何も理解できなかったから、変なゲストハウスへ連れ込んで、ここが宿だと思い込んでいたのではないか。そういえば、あのゲスト
ハウスのマネージャーが話していた言葉も、理解出来なかったようだった。
成る程。言葉に関しては文盲だったんだ。僕は勝手にそう決め込んだ。
そうしたら心の中にあった、もやもやが少し晴れた。怒鳴ったり、露骨にいやな顔をしなくてよかった。よしんば僕が不機嫌をあらわにしても、彼はただ
にこにこしていただけだろう。やっぱりインドでは、短気では暮らして行けない。僕はたったこれだけのことだったが、なにか大切なことを学んで、得をしたような気になった。
立場は違うが、これと似たような経験をしたことがある。
僕がまだ進駐軍のキャンプで働いていた時の事である。
特別寒い冬のある夜、僕は玄関のドアーを半開きにして、友達と立ち話をしていた。そこへこのクラブの総支配人であるジョン・シャネシーが通りかかった。
赤鬼のような顔をした、この大男は僕を見るなり
「ガッテメ、ゲラルヒヤー」、
と語気をあらげて怒鳴りつけた。そのすさまじい勢いに、僕はどうしたらよいか分からないで、咄嗟に、にこっと愛想笑いをした。彼は顔を真っ赤にして
僕の腕をつかみ、部屋の中に引きずり込んだ。彼は大きな声で二言、みこと、怒鳴った。僕は怖じけついているうえに、英語はからっきしわからない、ぽっと出の田舎者である。ただ彼の顔をじっと見つめる外はなかった。最後に背中を突き放すようにして、うしろからジャブと言葉を浴びせられた。
言葉が分からないというのは、ある意味では幸せなことである。何を言われているのか、全く分からないから反論のしようもないし、腹も立たない。
ただ暖房をがんがん焚いて暖めている部屋のドアーを閉めるために
雇われている僕が、半開きにしているのだから、怒られるのは当たり前の話である、と僕は自分の非を認めて納得した。
後日僕は英語の分かる友人に、ガッテメ、ゲラルヒヤーとジャブの意味をたずねた。友人が言うことを、僕なりに解釈して言い換えると
「この野郎。馬鹿もんめ、そんなところで何やってんだ。とっとと出て行け。
こんちくしょう。日本人野郎めが。」
かなりきつい軽蔑と差別を含んだ言葉だ。後で聞いた言葉に僕は腹が立って来た。もう何十年の昔のことだけど、未だにはっきり覚えている。
今だったら、しっかり言い返してやる。
そのことがこんな場面で急浮上したのだ。よかった。嫌みの一つも言わなくて良かった。言ったところでどうなる事でもない。
ほどなくしてリキシャはシッタルダホテルに到着した。
やれやれこんなに時間がかかるのなら、初から正面の中央コンコースを通って、リキシャのたまり場へ行けば、よっぽど早かったかも知れない。
インドでは急がばまわれか、僕は計算違いに苦笑した。
バラナシにつくと、カントン駅の表玄関と反対方向、つまり北側の一番端のプラットフオームに行ってから線路へ飛び降りた。
破れた金網をくぐり抜け、細い路地のような道を通り抜けて広場に出た。 このほうが今から行こうとしているシッダルタ・ホテルへ行くのに近道が出来るようだし、うるさく付きまとう、リキシャ、ワーラーに煩わされる事もないように思ったからである。だが実際はバラナシ市内なら、どこでもそうであるように、広場にたむろしているリキシャワーラーが、僕を見るなりわっと押し寄せて来た。 仕方がないので、そのなかから人の良さそうな五十代のワーラーにシッダルダ・ホテルにいってくれと言って乗った。ワーラーは調子よく
ヘイ、分かりましたという顔をして軽やかにペダルをこぎ出した。
ところが先程から、彼が行く方向が気になる。地図で見る限り、逆の方向に走っているように思えてならないのである。僕は何回もシッダルダ・ホテルへ行ってくれと繰り返した。やがて広い道を左折して奥まった所で、
リキシャは止ったが、そこは新しくできたゲストハウスであった。
またか。カルカッタでの、あのいやな気分が頭を横切った。
建物から人が飛び出して来て、そのゲストハウスへ引きずりこむように部屋を案内した。
僕は「ここは違う。シッダルダ・ホテルへ行ってくれ、」と語気をあらげた。 しつこい勧誘を振り切って、表路へ出ると、リキシャはどこをどう通ったのか知らないが、大きな庭のある瀟洒な白い建物が立ち並ぶ、閑静なホテルの前を通った。入り口にはホテル・ド・パリと書いてある。
ははーん。これが有名なホテル・ド・パリか。
僕はしばらく見とれていた。大きな木の陰で、ワーラーといっしょに休みながら、なめ回すように、僕はこのホテルの様子や、たたずまいを観察して
脳裏に焼き付けた。
インドにあっても、このホテルは西洋の香りを漂わせている。ホテルの雰囲気にマッチするかのように、庭内を散策する人も西洋人らしい人達ばかりで、ここだけは喧噪もなく、バラナシで別世界を構成していた。金持ちによる租界か。 下町がインドならここはヨーロッパだ。そう思ったが、僕は今インドに来ているのだと自分に言い聞かせた。ヨーロッパには用はない。
さあ、行こう。僕はワーラーをせきたてた。彼は相変わらず行き先が分からないのか、ぐずぐずしている。インドで短気は禁物だといわれたアドバイスを思い出しながら、忍耐はしたが、これじゃ日が暮れる。
僕は適当な所で降りて、リキシャを乗り換えることにした。
乗り換えたリキシャに揺られながら、僕は先程のリキシャについて考えた。
そういえばあのワーラーは、にこにこ笑みは絶やさなかったが、ひょっとしたらインド人ではないのではないか。ネパールかどこからか流れ込んで自分の言葉以外には何も理解できなかったから、変なゲストハウスへ連れ込んで、ここが宿だと思い込んでいたのではないか。そういえば、あのゲスト
ハウスのマネージャーが話していた言葉も、理解出来なかったようだった。
成る程。言葉に関しては文盲だったんだ。僕は勝手にそう決め込んだ。
そうしたら心の中にあった、もやもやが少し晴れた。怒鳴ったり、露骨にいやな顔をしなくてよかった。よしんば僕が不機嫌をあらわにしても、彼はただ
にこにこしていただけだろう。やっぱりインドでは、短気では暮らして行けない。僕はたったこれだけのことだったが、なにか大切なことを学んで、得をしたような気になった。
立場は違うが、これと似たような経験をしたことがある。
僕がまだ進駐軍のキャンプで働いていた時の事である。
特別寒い冬のある夜、僕は玄関のドアーを半開きにして、友達と立ち話をしていた。そこへこのクラブの総支配人であるジョン・シャネシーが通りかかった。
赤鬼のような顔をした、この大男は僕を見るなり
「ガッテメ、ゲラルヒヤー」、
と語気をあらげて怒鳴りつけた。そのすさまじい勢いに、僕はどうしたらよいか分からないで、咄嗟に、にこっと愛想笑いをした。彼は顔を真っ赤にして
僕の腕をつかみ、部屋の中に引きずり込んだ。彼は大きな声で二言、みこと、怒鳴った。僕は怖じけついているうえに、英語はからっきしわからない、ぽっと出の田舎者である。ただ彼の顔をじっと見つめる外はなかった。最後に背中を突き放すようにして、うしろからジャブと言葉を浴びせられた。
言葉が分からないというのは、ある意味では幸せなことである。何を言われているのか、全く分からないから反論のしようもないし、腹も立たない。
ただ暖房をがんがん焚いて暖めている部屋のドアーを閉めるために
雇われている僕が、半開きにしているのだから、怒られるのは当たり前の話である、と僕は自分の非を認めて納得した。
後日僕は英語の分かる友人に、ガッテメ、ゲラルヒヤーとジャブの意味をたずねた。友人が言うことを、僕なりに解釈して言い換えると
「この野郎。馬鹿もんめ、そんなところで何やってんだ。とっとと出て行け。
こんちくしょう。日本人野郎めが。」
かなりきつい軽蔑と差別を含んだ言葉だ。後で聞いた言葉に僕は腹が立って来た。もう何十年の昔のことだけど、未だにはっきり覚えている。
今だったら、しっかり言い返してやる。
そのことがこんな場面で急浮上したのだ。よかった。嫌みの一つも言わなくて良かった。言ったところでどうなる事でもない。
ほどなくしてリキシャはシッタルダホテルに到着した。
やれやれこんなに時間がかかるのなら、初から正面の中央コンコースを通って、リキシャのたまり場へ行けば、よっぽど早かったかも知れない。
インドでは急がばまわれか、僕は計算違いに苦笑した。