日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

ドンチャン騒ぎ

2008年09月10日 | Weblog
ドンチャン騒ぎの無礼講

日ごろ人間を分けているところの垣根を、すべて取り払い,貴賎,,上下の区別が一切なくドンチャン騒ぎをすることである.。
ドンチャン騒ぎをして一体何になるのか,。
考えないわけではないが,しいていえば、このばかばかしい振る舞いは,ガス抜きの一種であり,社会的には
大きな役割を果たしているのだろう。

昔と違って,いろいろな娯楽が繁盛する現在においても,祭という名を借りて,そこにたまっている社会的なガス抜きをしているのは、それなりに意味のあることである。

ところが騒ぎすぎて事故が起こり、死者が出る。そういうことになると、このガス抜きのイベントが果たしてよいのかどうか考えざるを得ない.。

1年に2,3回の贅沢な楽しみではなくて、現代では娯楽はいくらもあるし、しようと思えばガス抜きは個人的にできるはずである。にもかかわらず集団でガス抜きをするというのは、一方ではいかがなものかと思う人もいるだろう。

それも一理ある。しかし時代がどのように変わろうとも、この世で不満なく生きている人は、ほとんどいないのである。表面はともかくも、心のうちには、うつうつとした欲求不満があり、それを解消するために、やはりスケールの大きい無礼講の中に、己が抱えるストレスをすべてはきだして処理したいというのは、時代の問題ではなくて
基本的には人間の命が続く限りつきまとうものである。

とすれば、花見の宴は人間の命にまとわりついたものであって、それがドンチャン騒ぎという形をとって表面化したものである。

ドンチャン騒ぎによって迷惑を被る人々は、現に何回かのこの種のお祭りに、もう少し柔軟な態度を見せるべきだ、という考えが僕の考えだ。

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口画伯

2008年09月10日 | Weblog
口画伯


図書館でかりた本は、順教尼・即ち堀江の6人殺傷事件の生き残り、両腕をなくした大石よね自身が書いたものだから、当時の様子や彼女が心に受けた傷やその癒しについて記述したものとしてはこれが一番正確なものであろう。

大阪の堀江新地でおきた6人斬り事件の概要はこうである
海梅楼で養女になっていた大石よねが17才の時、養父である中川万次郎の狂気乱心の為に両腕を切り落とされた。他の家人5人は凶刃に倒れ、皆命を失うという事件が堀江で起きた。

犯人万次郎は自首して死刑になったが、原因は万次郎の妻が男を作って出奔してそれに逆上した狂気のあげくの殺傷事件だった。
 
此の実話はそのストーリーだけでも十分興味をそそるが、それよりもすごいのは、順教尼の生き方が並はずれて立派で、真面目に生きる者に勇気と示唆に富んだ人生の教えを与えていることである。

両腕を失いながら彼女は口に筆をくわえて絵を描く画伯だと言うことである。画才のない私から見れば、口に筆をくわえて、これほど上手な絵が描けるのかと感嘆してしまう。

絵は手を使って書くものだというのが常識だから口でなんて言ったところでピンとこない。この種の話は雪舟がオツトメを忘れて、絵ばかり描くのに業を煮やした和尚が彼を柱にくくりつけた。後になって和尚は彼が本堂の床に零した涙で足を使ってネズミの絵を描いて、びっくりさせたという逸話ぐらいしかしらない。

不条理だとは思うが、神は時として人を選んでハンデキャップを与え、それを乗り越える智慧や力と勇気、聡明さなどを与えて、人間の可能性を目の前に示されることがある


現代ではこのような話も風化してしまって、人の口にのぼることはない。
だけれども彼女はなにがあろうとまったく意に介さないで生前のあの、レベルの高い崇高な精神状態を保ちながら この高野山の、奥の院墓地で静かに眠っている。

ものが豊かになり心がやせ細った現代の人々は家のある所の生き方から何か生き方を学んだら良いと思う。

塩と砂糖

2008年09月10日 | Weblog
あれから何回も、あなたの写真を見ましたよ。
とにかくあなたは幸せです。 満面に微笑をたたえて命の花を咲かせている
そうだ。人生は喜びが多い方がいいに決まっている。

ところで
お釈迦様は人生の真実を、苦だと悟った。生老病死のほかに4苦があるあわせて八苦だと説いた。

満面に微笑ををたたいている、あなただってその内面には、苦があるに違いない。

当たり前だ。幸せだけしかないというような、人生はあり得ないのだ。
砂糖ばかりなめている人に、砂糖の甘さはわからない。

甘さはその対極にある塩のからさを知ってわかるのだ。

人生は苦と楽がコインの表裏のをようになっている。そこはしっかり押さえて現実を見ることが大切だ。