日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

だから世の中おもしろい0

2018年06月27日 | Weblog
          淫行も均等で、二五歳の女性送検

 二五歳の女性が一八歳の少年に、性的交渉を迫り、その少年を追いかけ回して警察に捕まり送検されたと言う夢の様な事件が起こった。
蛙が蛇を飲み込んだ類いで面白い。時として人間社会では面白い事が起こる。
私は何故こんなことが起こるのか、神様にお願い方々聞いてみることにした。
「神様。女が男を追いかけ回して性交渉を強要するという、面白い事件が起こりました。神様が人間に授けなさった性エネルギーの発現形態が違っているから、男は能動的で
女は受け身だとばかり思って参りました。が、これをみる限り、男女平等です。
神様。よくぞ、このことを今度の事件でお示しくださいました。何でも平等平等と言う御時世、それも結構でございます。
 そして願わくは、たとえ十年間だけでも、結構でございます。性エネルギーの発現形態を逆にひっくりかえして、つまり、女が能動、男が受動と言う形にはしてもらえますまいか
そうすると世の中の有り様が様変わりするのではないかと思います。
我々男には手出しができると言う特権がありますが、時としてそれは手負い傷となって心はうずきます。能動的に、積極的にモウションをかけると言うのも気分の良いこと
ばかりではありません。特に小生の様な、この面にかけてはドジな男は、自分で手だしするよりも、むしろ先方から、モーションを掛けられる方が気が楽です。気にいれば
うけりゃいいし、気に入らなきゃノーサインをだせば良いと言うのは気楽なもんですぜ。 それに自分のモテ具合が分かるのも自分自身を客観的に眺め、評価する上で必要な事
だと思います。
それよりも神さん。なんでっせ。現代の社会は男と女の現状に合わせてフィックスされているから、逆の行動パターンになると、いろんなところでチグハグがでて来て面白いじゃないですか。
何ですか。お前は暇人じゃと。仰せの通りです。
齢も五十を越えると、普通ならば第一線を退かなきゃならん年代。どちらを向いても
楽しい事などありゃしませんよ。金をかけた子供は巣立つわ、住宅ローンの支払い
はまだ残っているわ、それにくわえて自分たちの人生に向けて、なにがしかの準備
をせにゃならんわ、それはそれはほとほと疲れます。その上、心ときめく様な事が、
日常生活の上に起こってくるかと言えばそんな事一つもおこりっこない。せめて世の
中をひっくりかえしてみて、何か面白いものはないかと探すぐらいがオチです。
立場が逆になると言うのは逆転の発想にもなり、新鮮な気分にもなること必定、
中々面白いとはおもいませんか
 神様は私と違って、この位のことをするのは朝飯前の筈。一度いたずらにやってみられたら如何です


93・5・1・

ソノ後について

23年9月から大阪府の調査によるとある女性は性的衝動を抑えきれずに性交にに及んだという。いつの世でもおもろいことが起こるものだ。怒りよりも笑っちゃう方が先立つ。

平成30年6月25日









自由に生きる0

2018年06月27日 | Weblog
自由に生きる

ゲタをはいて着物を着た人が、大山澄太、その人だとは私は知らなかった。中々上品な風貌で知性が漂っていた。とても80歳を越えた人には見えない。
「お宅も作曲したりして自由人ですな。」
「いやいや、これでなかなか苦しいんですよ。」
「延命十句観音経が合唱曲になるなんて、びっくりしましたよ。なかなかやるじゃないですか。」
「ありがとうございます。この娘たちは今日もコーラスで延命十句観音経を歌いますが、いま手元にこの娘たちが吹き込んだテープがありますので、差し上げたいと思いますが、どうか貰っていただけませんか。」
「それはどうもありがとう。松山に帰ったら、山頭火の本を送りますよ。お礼に。」
「それはそれは、ありがとうございます。どうかよろしくお願い致します。」
間もなく松山の消印ご押された小荷物が私の手元に届いた。茶色の紙に紐を掛けた包みをほどくと、本が2冊出てきた。その本のページには、便せんにひょうひょうとした文字で、本を贈る旨が書かれていた。
多少とも仏教と芸術に関心を寄せている私ではあるが、山頭火は失念していた。緑色の表紙には、黒い文字で山頭火と表記されている。

山頭火。漂白の俳人。頭蛇袋を首から下げて日本全国を放浪し、心に去来する想いを自由律の俳句に託した徹底人。その生きざまは西行にも似て、一種のあこがれさへも感じさせてくれる。自分の人生、時空を含めて、自分の欲するままに生きた人。生涯は貧しさと引き換えに、いつも心の自由を確保していたことだろう。大山澄太も彼にあこがれて著作したのだろうが、私も同じく彼の心の自由さにあこがれている。生き方をよく考えて人生をすごさくちゃ、とつくづく思った。
山頭火は私に良い見本を見せてくれている。大山さんも良いことを教えてくれたものだ。
そういえば、かって、山田耕作先生は
「歌詞といえば詩人はすぐ定型に当てはめて作ろうとするが、付曲する側、つまり作曲家は定型に縛られてたまるものか。メロディの流れには、それ自体に必然性があり定型よりは自由律の方がよい場合だっていくらもある。」といわれたのを思い出して、大山さんの「山頭火」を大変ありがたく思った。