日々雑感

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会員制デートクラブ0

2018年06月05日 | Weblog

   会員制デートクラブ

姫路市内のデートクラブが兵庫県警によって摘発された。原始古代の昔から未来永劫にわたってこの種の問題は起こるから、とりわけ注目に値するものではないが、会員制のこのクラブは六十才以上の老人が三割を占めていたというところがわたしの関心を引いた。 検挙された経営者は若いサービスガールに、老人は金と時間があり、大人しいから特にサービスするように、と訓示していたという。
地位があり財産がある老人は恐らくこれらを活用して、簡単に女を手に入れることが可能だろうから、多分デートクラブなど利用することはないだろう。しかしそこらそんじょの庶民の老人はこういうクラブを利用する以外、シルバーセックスのはけ口がないから、俺たちの楽しみを奪う余計な事をしやがってと恐らく内心では警察を恨んだことだろう。 六十才過ぎの老人に性欲なしと決めてかかる世間の誤解はいうに及ばず、高齢化社会が急速に近づいてくる我が国の現状からすると、老人は性欲なしで涸れるべし、年よりの癖にいやらしいと偏見を持つ社会も恐ろしい。 このような社会的な禁忌がある為に、老人の性は抑圧されており、追い詰められている。

生命有る限り性欲があるというのが生きている証しでもある訳だから、今一度この問題を考えてみなくてはならない。
性欲なんてものは全く個人的なもので年齢的な側面から論じられるものではない。本来死ぬまであると考えるのが自然であろう。
さて老人の現状だが、基本的に老人は人生の夕暮れにいる訳で、夕日が沈むがごとく、やがてこの世をさる日がくることを本能的に直感している。そこから浮かびあがってくるのはどうしようもない寂しさである。また第一線からは引退させられることによって自分は社会とは直接かかわりを持たないという疎外感もある。
また一歩ひるがえって自分の家庭をみると、巣立った子供達はそれぞれの家庭中心に生活を回し、そこに老人が安らげる場所などはない。子供においてすら付き合いが薄れて行く現代の風潮からして、若い女の子と付き合うチャンスなどは絶無である。
こうなると老人にとっては毎日まいにちが淋しい時間の連続でしかない。これが俺の人生か。これが俺の人生のたそがれか。ため息が聞こえて来そうである。

そういう心境にある老人が、体内にくすぶる生命の余燼、己の性欲をいかに処理するか。デートクラブの存在は恐らく日だまりに集まった老人たちの茶飲み話を通じて急速に広がったに違いない。そのクラブを通じて老人は沈みかけている己の人生に青春の息吹を吹き込もうとしたのかどうかは知らないが、この世に有る限り、自分の生命を存分に楽しもうとしたことはごく自然なことである。
建前や、体裁にこだわって静かに死を待つという生き方は人生の冒涜と言ったほうがよいのかも知れない。
世間的にみっともないと言って自分の体裁をかまう子供たちが、本当にどこまで老人の立場を理解しているか、老人の心理と生理を、どれほど実態に即して眺めているのか。
また老人についてなにがしかの事を思うのなら、老人をもっと暖かく迎えいれる気遣いや配慮があるのか。
老人が相方に若い女性を求めるのは自然の理にかなっている。というのはこれがいわゆる正常な人間の生命現象でそれが即ち自然の意思だから。言い換えればいやらしいという感じを飛び越えて、自然の摂理、神の思し召しと心得るべきである。
ところで私も会員になる資格があるが、最後の最後まで生命を燃やして生きなければと思うこのごろである。