また春である。
いつだって春である。
坂道や振り向くための峡の花
もはやすべてが春である。
そう決めたのである。
時々揺らぐ春の花である。
『放送大学日本史学論叢』も第6号である。
皆様お若い。
迸る情熱。
小生もウカウカしてはいられない、と思うのである。
投稿しても一年以上ナシのツブテの某誌のことなど、かまってはいられないのである。
どうやらそんなことはフツーのことであるらしい。Iさんもしょっちゅうであるとのこと。
久しぶりにお会いした五味先生もお若い。
今や中世史家というより、その射程は完全に近世に及び、御存じの通りの健筆ぶり。
先生を見ているとまさに老年の理想を見る思いがする。
快活で明晰。
当方のすっかりの草臥れぶりが恥ずかしい。
元気で若いといえば、清水哲男の復活も。
『換気扇の下の小さな椅子で』
何年ぶりだろう、あの、詩を読む喜びを。
老いた、と自嘲する、けれども半世紀前の瑞々しくくきやかに後退する清水哲男が復活するなんて。
どこでもいい、どれでもいい、ここにあるのは森羅万象、日々日常、それらを一刀両断に叙情する屹立する詩精神なのであります。
どこでもいい。
どこかでセミが抜け殻を残して鳴きはじめ
どこかでバッタが水鏡に見入っている
玩具店の日除けのかげでは
売れない鉛の兵隊が整列しはじめ
実家の玄関先では
亡き母が見送りの手を振っている
清水哲男「酷暑抄」抄
また、夏が来るのだろうか。
では、また、必ず。
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