やっと文庫化された。これが読みたかったが文庫になるまでの間、北方謙三の「道誉なり」を読もうと思っていたが、書店になく「楠木正成」で繋いだが、これが面白くなかった。
後醍醐天皇の乱が活発になる最中、楠木正成に挙兵の動きが見える。それを未然の阻止するため、これをとらえようと秘かに、佐々木道誉は動いていた。楠木側にスパイを送り込み、九品寺で決起することを探らせた。そしていよいよ捕らえる段になり、佐々木道誉は楠木正成の策略により見事に失敗する。佐々木道誉側の糟谷宗秋は早期に楠木正成によって乗っ取られ、以後は楠木が糟谷の振りをして六波羅探題からの情報を得ていたのだった。初めから佐々木道誉は一杯食わされていたのだった。
元冦に備え兵員と船の確保。そのためには守護、地頭、後家人に軍役の責任を果たさせなければならない。しかし彼らは困窮している。対策として楠木正成のような商業的武士が買い集めた土地を没収し、幕府に属するものたちに返そうとした。これを徳政令という。しかし単に没収するのでは不条理のそしりを受ける。そのため寺社に夷狄の調伏を依頼して霊験があらわれた場合には寺社がかつて持っていた荘園を恩賞として与えることにした。楠木はそれに反発して自力で所領や船を守ろうとした。すると幕府は神仏に反するとして「悪党」と呼んだ。
道誉との戦いに勝った正成だが、孫六と共に吉野山の奥に向かう。そこに控えていたのは大塔宮だ。今回の戦いの采配を振ったのは大塔宮だった。
道誉によって兵糧攻めに会う正成。そんな時、大塔宮の令旨によって動き始めた赤松円心、そして伊予の河野氏が長門探題を破り動き出す。伊予の河野氏とは今まで知らなかったが名家のようだ。子孫には伊藤博文がいる。
籠城する正成にさらにピンチが。食糧が減っていること、そして幕府側に井楼を建てられ、城内が丸見えな上に火矢を打ち付けられる。その時女に身を変えた大塔宮が陣中に忍んでくる。村上義光、義隆父子が身をもって金峰山寺から脱出させたとのこと。そこから高野山へ逃れ、紀ノ川を下り和歌の浦に出て、船で播磨に渡り赤松円心と対面。円心は伯耆の名和長年と連絡を取り、後醍醐天皇を隠岐から脱出させる段取りをつけている。後醍醐天皇は伯耆の船上山で兵を挙げる手はずとなっている。
後醍醐天皇が旗をたてる前に和睦しようと正成のもとを訪れる道誉だったが、実は正成は全て知っており、逆にこちらの陣に入るよう説得される。商業的武士の時代を作っていこうと言うわけだ。それには後醍醐天皇の治世になる必要がある。一緒に作っていこうではないか。なびく道誉。
後醍醐天皇の御代となる。楠木正成が仕える大塔宮から約束されていた北近畿の商業圏であるが、後醍醐帝と大塔宮の距離が大きくなり、それがかなえられることはなかった。道誉はそれよりも、かつての仲間である長崎四郎佐衛門と阿曽時治を処刑せねばならなかったことが心に引っかかる。切腹ではなく斬首である。後醍醐天皇と大塔宮の距離を大きく仕向け殿が足利尊氏、いや実際は弟の直義によるものであった。そのことが気になって仕方がない弱気な尊氏であった。
大塔宮は後醍醐天皇の宴に招かれるが罠であり捕らえられてしまう。そして鎌倉へ流罪となった。土牢に捕らえられていた宮。それを知った道誉は、足利直義の部下を叱責する。
足利直義と新田義貞が対立する。直義は千種忠顕を動かして新田義貞を追討の勅命を得ようとする。対して新田義貞は足利兄弟に反逆の疑いありと朝廷に訴えた。足利直義があまりに強硬なため天皇は新田義貞を大将軍として足利討伐を命じた。この混乱に乗じて大塔宮を救出しようと正成は千種忠顕に頼み、忠顕から尊良親皇への使いとして、兵を連れて鎌倉に向かう。この時点では足利尊氏は戦を拒否して寺に籠ってしまっている。なので直義は上杉、細川、佐々木の軍勢を引き連れて出陣する。ただ直義には武将としての才覚が無いため、高師直は道誉に軍監として面倒を見てくれと頼む。東征軍8万に対し足利軍は3万。道誉の作戦に反抗して藁科川で決戦しようとした。これを優位に戦った直義は守りに徹すれば勝ちとみた道誉にまたも反抗し最終決戦に持ち込もうとする。ここで風向きが代わり東征軍の奇襲に会い、全軍総崩れとなる。敗走するなか、道誉の弟の貞満が討死した。
大塔宮からの密書が正成の元に届く。無事であるということなのだろうか?中には、尊氏が寺に引きこもったのは東征軍をおびき寄せる罠だという。関東に攻め込むと見るや、箱根の直義とによって挟み撃ちに会うとあった。
安藤新九郎季兼という十三湊の若者が宮を救出したという噂を聞く。
道誉は今や、足利兄弟、高師直の陣営にいる。新田義貞らの東征軍を竹下の戦で破り、三島から敗走させたことで、天皇の新政に不満を持つ諸国の武士が一斉に挙兵した。
足利に属する道誉と、天皇側の正成との戦が始まる。それぞれ作戦を凝らして戦う。結果は足利が引くことで収拾する。戦後、正成は天皇に謁見する。天皇から疑われていたため会うのをはばかられていたが、天皇はおお許しになった。
天皇と足利の反目は続く。道誉はこれを鎮めようと、後伏見法皇の院宣を頼る。交渉に向かう。許可は得たが、これによって後醍醐天皇が怒り、身に危険が及ぶ可能性がある。なので道誉が責任をもって守るという条件で院宣を得たのだ。しかし直後に法皇がみまかる。毒殺の疑いがある。道誉は衝撃を受ける。この展開には驚愕した。後で調べたが、毒殺されたなどという事実は残っていない。この辺りは著者の創作だと思われる。
この混乱をおさめるには後醍醐天皇が比叡山に下がり、足利には征夷大将軍の職を与えることが必要と考える。正成と道誉は相まみえ、正成は後醍醐天皇を、道誉は足利尊氏を説得しようとする。
正成は後醍醐天皇とまみえ考えを伝えるが、受け入れられることはなかった。そんなことより新田義貞を助け、すぐに兵庫へ行くべしと。
天皇から言われればそれに従うしかない正成は、少人数だけ連れて兵庫へ向かい、足利勢と戦おうとする。
それを知った道誉は正成を助けたいと思うが、立場上そういかない。友人として惜しいところではあるが、後世に正成のことを伝えることで報いようとする。そんなとき大塔の宮は生きていたという知らせが道誉の元に伝わる。そのことを知った道誉はそれを正成に知らせるため、正成の元に向かう。一応立場上対立しているわけだから、簡単に会えるものではない。(裏切ったと思われないよう)策を弄して会おうとする。
楠木正成と佐々木道誉を商業的武士と描いたところは今までにない。商売で思い出すのは北方謙三の「楠木正成」だ。さてどちらが先に書いたのか?
隼人(大塔宮の犬)に託された手紙によって楠木正成は無事であることを知ることができた。しかし、直義の軍によって討たれてしまうのだった。直義でなく尊氏や師直ならば、道誉はある程度口がきき正成を守ることができたのだが、直前に大塔の宮の扱いに関して道誉は直義を一喝して、関係が悪くなっていたからそれはできないのであった。
安部遼太郎らしく、ボリュームの割には読みやすい。友情や義などは北方謙三風にも感じる(が、北方ほどくどくはない)、そして、しっかり歴史を踏まえているところは司馬遼太郎風ではある。
この安部太平記はこれが第1巻であり、第2巻として新田義貞、第3巻は十三湊を舞台にしたものが出版されている。そしてあと10冊は書けるとのことなので楽しみである。
20200113読み始め
20200202読了