モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

小堀遠州と寛永の視覚

2019年07月01日 | 「‶見ること″の優位」

江戸時代初期の寛永年間(1624-45)は、徳川政権下では三代家光が将軍を勤めていた時代で、文化的にもひとつの盛り上がりを見せていました。
工芸・美術分野では、本阿弥光悦、野々村仁清(陶芸)、狩野山楽・山雪(日本画)、岩佐又兵衛(日本画)、久隅守景(日本画)、千宗旦(茶道千家三代目)、小堀遠州、といったあたりがよく知られているところかと思います。

この時期は戦国時代の下克上の世相も過去のものとなって、世の中が少し落ち着いてきだしたころで、京都の天皇家では後水尾天皇が譲位して後水尾院となり、寛永文化の華開かせる活動に精力を傾注していった時代です。
その特徴を言うならば、公家、武家、商家、諸学問、臨済系仏門、茶数寄といった諸領域の人々が行き来して醸成していった総合的な文化所産、というところにあるかと思います。
この意味では、美術とか文学とか茶道とか宗教文化など特定の分野のものが突出的に豊穣なる果実を創出したということではなく、様々な分野で盛り上がりを見せたり、あるいは新風が吹き込まれていったりしたことに特徴が認められます。
そういった総合性を象徴的に表しているのが、桂離宮や修学院離宮に遺された庭園と建造物といえるでしょう。

寛永文化の総合性を醸成していったのは、主として京都に居住する文化人を核とする大小の文化サロンであり、そのネットワークの中枢をなしたのが後水尾院とその正妻の東福門院であったわけですが、総合プロデューサー的な役割を担った人としては小堀遠州が挙げられます。
遠州は徳川幕府下にあっては大名であり、また城や御所などの建造物を改修する作事奉行を勤めたりしてます。さらに茶人、作庭家、書家などマルチタレント性を発揮し、生け花や諸工芸にも影響を及ぼしました。



遠州の事蹟を挙げていくときりがないように思われるほどですが、そこには一貫した美意識が伺われます。
それを後世の人は“きれいさび”と称し、現代にまで言い伝えられてきています。
“きれいさび”は寛永文化の造形物のビジュアルな特徴としても云いえるカテゴリーで、
そのために、遠州の影響力が広範囲に及んでいるようなイメージが定着してきたようです。
たとえば、桂離宮は小堀遠州が設計したと思い込んでいる人は特に年配者には多いのではないでしょうか。(実際は、遠州のアドバイスを受けているかもしれないが、設計・造営は別な人によるものとされています。)

茶道文化の研究者 熊倉功夫は著書『後水尾天皇』の中で“きれいさび”について、「遠州個人の独創的な好み(というよりは)宮廷文化と遠州の茶の美との共通性であり、時代の好みのそれぞれの表現であった」とし、さらに次のように説いています。
「茶の点前に使う茶巾の扱い方を記した文章で茶巾の使い方が「なるほどきれいだ」と嘆声をあげ、さらに、茶巾をたたむとき輪のようにふくらませて置いたところが「いかにも伊達なり」というわけだ。このような点前の繊細な箇所にまで鑑賞の眼が届くようになるのもこの時代の特徴で、「きれい」とか近世独特の「ダテ」という言葉で表現される美こそ遠州の“きれいさび”であった。」

サロン的ネットワークの中で醸成された「点前の繊細な箇所にまで」届いていく“鑑賞の目”こそが寛永文化の総合性を生み出したのであると、私は思っています。



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