心敬は正徹の高弟の一人とされ、正徹の歌風を受け継いで室町期を代表する歌人として活動しますが、
後半は連歌師としても名を成した人で、連歌史上最大の歌人である宗祇を育てた人でもあります。
連歌は、数人の人間が俳句のように短い詩文を次々と連ねていって、百句ぐらいで一つのまとまった作品とする形式の言語表現メディアで、平安末期あたりから始まっているそうです。
連ねていく一つ一つの句はいわば言語イメージのユニットのようなもので、今風に言えば、“言葉のオブジェ(但し、有意味な)”のようなものと言えるでしょうか。
心敬がその活動期の後半は連歌師としても名を残しているということは、言語イメージの和歌的表現からオブジェ化された言語表現への移り行きを示していると見れなくもありません。
この移り行きは、ある意味で心敬において決定付けられました。
心敬が遺した有名な言葉に、「氷ばかり艶なるはなし」というのがあります。
中世期に次第に高まってきた「わび・さび」の情趣への傾倒は、“しほれた”、“痩せた”“枯れた”、“冷えた”といった言葉で表現されてきましたが、ついに心敬において、凍てついた“氷”のイメージにまで突き詰められています。
特に留意すべきは、歌境の理想が氷という物質のイメージでもって具体的に提示されていることです。
“氷”は“花”や“もみじ”や“雲”よりもより物質的な感触を伴っていて、イメージの物質化ということに関心が向けられ始めていることが感じられるのです。
前回の当ブログの最後に紹介した正徹の超前衛的和歌
「ぬししらぬ入江の夕(ゆうべ)人なくて蓑と竿とぞ舟に残れる」
の気分が、どこかで受け継がれようとしていることが感じられませんか?
(ただし「氷ばかり艶なるはなし」には、“艶”という王朝的雅びの感覚がほのかに残されてはいますが。)
心敬の和歌や連歌の句の特徴を、「景から物象へ」という言い方で捉えることもできるかと思います。
ここでは詳述できませんが、自然詠の範囲内で言えば、王朝和歌は叙景を極めていく方向で展開し、玉葉・風雅において景の微細なディテールに踏み込んでいき、そこに物象が発見されていきます。
心敬においては逆に、景が物象の中に浸潤していくといった趣きを帯びはじめてきます。
いわば、「物象の中に景を見出していく」という気分です。
もっと言えば、「ものを景として観る」ということです。ルーツに「見立て」の文化ということがあります。
ここに、のちの茶の湯の観照方法の原点が見出せないでしょうか?
茶の湯の道具の見立てには、「物の中に景を観る」ということが基調としてあると思います。