(前回からのつづき)
心中もののヒロインはいわゆる遊郭という悪場所に生きていた女性が多かったようです。
遊郭はまた“苦界”とも言われて、男にお金と引き換えに身請けをしてもらう幸運に恵まれなければ、
死ぬまでそこを抜け出していくことはできないと言われた場所でした。
“苦界”という言葉は江戸期から使われるようになったとのことです。
徳川氏が江戸に幕府を開いて世の中が落ち着いてくると、商業活動が盛んになり、
市中の整備も進んでいって、遊郭や芝居小屋などの遊興のエリアが特定の場所に囲われていきました。
身分制も定着していって、遊興のエリアで生存活動を営む人たちは士農工商からもはずれた、
世間の最底辺あたりに位置づけられるような存在と見なされるようになります。
「理が立たなければ死ぬしかない」という元禄時代頃の女性たちの追い詰められた意識は、この時代の社会状況により余儀なくされていたということでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/cd/fdb04d9d3f6c18b799e9f5dce7fb2327.jpg)
“苦界”という言葉は中世の“公界(くかい)”が江戸期に入って変化したものと言われているようですが、
民衆史家の網野善彦の『無縁・公界・楽』によりますと、公界は世俗的な縁から切り離された“無縁”の人々が寄り集まってくる場所の呼び名で、
「(戦国時代には)俗権力も介入できず、諸役は免許、自由な通行が保証され、私的隷属や貸借関係から、自由、世俗の争い・戦争に関わりなく、平和で相互に平等な場」
として「寺院だけでなく、社会のいたるところに存在し、活動していた」とされています。
しかし
「こうした積極性は、織豊期から江戸期に入るとともに、これらの言葉自体から急速に失われていく。(中略)「公界」は「苦界」に転化し、「無縁」は「無縁仏」のように淋しく暗い世界にふさわしい言葉になっていく。」
『無縁・公界・楽』ではさらに女性の“無縁”性に考察を及ぼして、「女性の「性」そのものの「無縁性」「聖」的な特質」を指摘しています。
そしてこの女性の“無縁”性が、
「時代とともに並行して衰弱していく。それは、まさしく「女性の世界史的敗北」の過程の一環にほかならない。」
そのような認識を、網野氏は導き出しています。
してみれば、おはつ・徳兵衛が心中へと到るプロセスは、「女性の世界史的敗北」の過程という、
近世から近代にかけての家父長制度下の差別のまなざしの中で、
女性が追い込まれていった境遇の一つの点景として捉えられるということになります。
これはまさに、徳川幕府樹立後100年ほどして上方の苦界を中心に心中事件が頻発したことの歴史的な意味と言えるでしょう。
おはつ・徳兵衛の心中場面の描写はとてもリアルで、筆者などは正視するのがちょっと辛いようなところがあります。
そのリアルな描写は近松のほとんどの心中ものに共通していますが、
人間の死にゆく姿を冷徹に描いていくことによって、成仏の契機を、魂の救済を見い出していこうとするかのようです。
場面は夜の(あるいは明け方の)暗い陰惨な空気感の立ち込める中で、
時代が強制してくる宿命に抗う術を知らぬ若い男女二人の至純の愛の炎が、そこで一挙に立ち昇っていくのです。
心中もののヒロインはいわゆる遊郭という悪場所に生きていた女性が多かったようです。
遊郭はまた“苦界”とも言われて、男にお金と引き換えに身請けをしてもらう幸運に恵まれなければ、
死ぬまでそこを抜け出していくことはできないと言われた場所でした。
“苦界”という言葉は江戸期から使われるようになったとのことです。
徳川氏が江戸に幕府を開いて世の中が落ち着いてくると、商業活動が盛んになり、
市中の整備も進んでいって、遊郭や芝居小屋などの遊興のエリアが特定の場所に囲われていきました。
身分制も定着していって、遊興のエリアで生存活動を営む人たちは士農工商からもはずれた、
世間の最底辺あたりに位置づけられるような存在と見なされるようになります。
「理が立たなければ死ぬしかない」という元禄時代頃の女性たちの追い詰められた意識は、この時代の社会状況により余儀なくされていたということでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/cd/fdb04d9d3f6c18b799e9f5dce7fb2327.jpg)
“苦界”という言葉は中世の“公界(くかい)”が江戸期に入って変化したものと言われているようですが、
民衆史家の網野善彦の『無縁・公界・楽』によりますと、公界は世俗的な縁から切り離された“無縁”の人々が寄り集まってくる場所の呼び名で、
「(戦国時代には)俗権力も介入できず、諸役は免許、自由な通行が保証され、私的隷属や貸借関係から、自由、世俗の争い・戦争に関わりなく、平和で相互に平等な場」
として「寺院だけでなく、社会のいたるところに存在し、活動していた」とされています。
しかし
「こうした積極性は、織豊期から江戸期に入るとともに、これらの言葉自体から急速に失われていく。(中略)「公界」は「苦界」に転化し、「無縁」は「無縁仏」のように淋しく暗い世界にふさわしい言葉になっていく。」
『無縁・公界・楽』ではさらに女性の“無縁”性に考察を及ぼして、「女性の「性」そのものの「無縁性」「聖」的な特質」を指摘しています。
そしてこの女性の“無縁”性が、
「時代とともに並行して衰弱していく。それは、まさしく「女性の世界史的敗北」の過程の一環にほかならない。」
そのような認識を、網野氏は導き出しています。
してみれば、おはつ・徳兵衛が心中へと到るプロセスは、「女性の世界史的敗北」の過程という、
近世から近代にかけての家父長制度下の差別のまなざしの中で、
女性が追い込まれていった境遇の一つの点景として捉えられるということになります。
これはまさに、徳川幕府樹立後100年ほどして上方の苦界を中心に心中事件が頻発したことの歴史的な意味と言えるでしょう。
おはつ・徳兵衛の心中場面の描写はとてもリアルで、筆者などは正視するのがちょっと辛いようなところがあります。
そのリアルな描写は近松のほとんどの心中ものに共通していますが、
人間の死にゆく姿を冷徹に描いていくことによって、成仏の契機を、魂の救済を見い出していこうとするかのようです。
場面は夜の(あるいは明け方の)暗い陰惨な空気感の立ち込める中で、
時代が強制してくる宿命に抗う術を知らぬ若い男女二人の至純の愛の炎が、そこで一挙に立ち昇っていくのです。