感動との出会いをもとめて・・、白いあごひげおじさん(もう、完全なじじいだな・・)の四国遍路の写真日記です・・
枯雑草の巡礼日記
四国遍路の旅記録 平成26年春 その2
笠置街道、峠での思い
今日は朝から寄り道です。八幡浜への古い道、笠置(かさぎ)街道を歩いてみようと思っているのです。
霧の道を行く(宇和町清沢付近)
宿を出たその朝は霧が深く、道を間違え、宇和町清沢辺りと思われる田圃の中の道を彷徨していたのですが、笠置峠への本来の分岐は、下松葉にある明治40年の道標の辺りと思われます。
「(手印)遍ん路みち、八幡浜新道/左 八幡浜旧道 津布理道」と刻まれ、この「左 八幡浜旧道」がこれに当ると思われます。(「津布理道」は三瓶町津布理への道)
ここから、ほぼ今のJR予讃線に沿ったルートに旧道があったのではないでしょうか。
宇和町小原の山際の集落の中の道がそれに続きます。
右手に端山禅寺を見てその道を行き、宇和町岩木の溜池の北側をまわると、笠置峠への道の始まりです。
上り口の左手に三瓶(みかめ)神社の鳥居。この神社はここより西方の港町、三瓶町の三瓶宮より勧請されたと伝えられます。
神社の高みから南方を見渡すと、広大な田園が拡がっています。ここは昔、沼地で明治中期以降開墾された地といいます。
享保17年(1732)の大飢饉(これから今治まで歩く途中数ヶ所でその惨状の記憶をみることになる・・)のため、この地方の人の大方は死に、その後に九州から菊池姓を名乗る一族が移り住んだと伝えます。その祖は、河内院様と崇められ、今も年に一度の菊池祭りが伝承されているとか。
宇和町岩木の田園地帯
安養寺大師堂
少し坂を上った右手が安養寺。
臨済宗の寺ですが、古色の大師堂があり、その前に六地蔵。堂内には、遍路の納め札が多数貼られていたといいます。
ちょっとおもしろい話を聞きましたので余談ながら・・
安養寺の山号は「霊岩山」といいます。寺の裏山にある数基の古墳の石棺に使われていた緑泥片岩が寺の石段として使われているそうです。そしてその緑泥片岩は八幡浜、西宇和地方から笠置峠を越えて運ばれてきたと想像されているのです。
笠置峠の古墳遠望
笠置越えの旧道 の始まりです。
今は峠まで林道も開通していますが、林道をショートカットするように昔からの道も保存されています。ありがたいことです。
やがて、清水が流れる傍に清水地蔵。寛政8年の銘があります。その隣には小さな馬頭観音。
峠近くには、多くの遍路墓が集められています。自然石の墓石に混じる石塔には九州、松山、遠く金沢、佐渡の地名を見ます。
笠置越えの道の始まり
清水地蔵
石畳の道
遍路墓
峠には立派な地蔵があります。
嘗ては、峠一帯は笠置松と呼ばれる名物松の並木もありました。今はその根の残骸を見るのみです。
地蔵は、八幡浜側に下った所、釜倉の和気吉蔵が寛政6年(1794)に祀ったものと伝えます。
地蔵の台座には「是より北いつし江五リ」 「やわたはま江二リ」 「これより南あけいし江二リ十丁」と刻まれています。(「いづし」は金山出石寺)
台座の両側には二基の頭の無い欠けた地蔵があります。今見る地蔵は三代目ということなのでしょうか。
今の地蔵も目、鼻が欠けた顔なし地蔵です。それは、皮膚病引いては梅毒の治癒祈願のため削がれたものといわれます。
今は休憩所が建てられている辺りでしょうか、昭和二十年代まで、茶屋があったそうです。
峠の茶屋に嫁ぎ、やがて誰も通ることの無くなった峠を去って数十年の後、卯之町の孫の家で終りを迎えた
立花イシさんは、「ワシの体の半分下は笠置で、半分上は釜倉じゃ」と何度も呟いたと言われます。
笠置峠の地蔵
地蔵台座
それほどに、人の心に思いを残す峠道とは・・
九州地方から八幡浜に上陸した多くの人が、この笠置峠を越えたことでしょう。
それらの人のなかから、小説に描かれたシーボルトの娘、お稲さんの姿を追ってみましょう。(「ふぉん・しいほるとの娘」吉村 昭(講談社文庫)より)
天保十一年(1840)3月7日、長崎を出て、卯之町の二宮敬作を訪ねるお稲の旅。
八幡浜から敬作の雇人、太吉に付き添われて笠置峠を越えているのです。八幡浜から徳雲坊、川舞、若山を過ぎ、その間、遍路姿の男女とすれ違ったと作者は記しています。
「・・山はけわしく、しばらく進むと渓流が左右にわかれて谷間に消えた。その付近から路の傾斜は一層激しくなり、釜の倉という地をすぎると笠置峠への急坂にかかった。・・お稲は胸が息苦しく、しばしば足をとめて息をととのえた。・・杖にすがるようにして山路をのぼった。・・ようやく峠の頂きに近づいた。茶屋が見えた。お稲は茶屋の前に一人の男が立っているのに気づいた。男は二、三歩こちらに歩きかけたが、足をとめると、お稲に眼を向けたまま身じらぎもしない。・・」
それが二宮敬作との再会でした。
茶屋で休み、昼食をとって、急坂を下り、池の水の輝きを見て、石崎、永長、下松葉を経て卯之町についているのです。
作者、吉村 昭の調査は周到です。ただ、笠置峠には、置かれて50年を経ない地蔵や、お稲を驚かせたであろう大松の記述がないのは残念ですが・・
「娘巡礼記」の高群逸枝は、大正8年(1919)、大分から八幡浜に上陸、四十三番明石山に行くに 大分で知り合った「お爺さん」を道連れに、大窪越えをしたと記しています。
「・・意気地なくも七十三のお爺さんに助けられて道々山百合を折ってもらったりしながらやっとの事で頂に達した・・」(「娘巡礼記」岩波文庫より)
大窪越えは、八幡浜若山から宇和町伊延へ通ずる山越えの道(鳥越峠の北)であったようです。(地図参照)
当時は笠置峠に茶屋もあったと伝えます。なぜ笠置峠を通らず、この厳しい山越えの道を選んだのか、不思議でなりません。
峠からの急坂を釜倉に下ります。
途中、所々に石畳を見ます。下り切った釜倉出店には、多くの地蔵、遍路墓、道標が残されています。
釜倉
ここから宇和町の大洲に向う今の遍路道に復帰するため、鳥越峠の道を行きます。
宇和町大江に165度目、明治31年11月の茂兵衛標石がありますが、そこには「左 八幡浜」と刻まれています。釜倉から鳥越峠を経て、大江に至る道も古くからの道なのです。
釜倉から峠を越える現在の道(2車線の車道)は、谷底から100mも上った斜面につくられています。
旧道は、川の反対側にある、もっと谷底に近い道だと思われますが、通る人もいない今、通じていない恐れもあります。釜倉から急斜面の道を車道まで上って、その道を行きました。
鳥越峠には、「大窪山不動尊、観世音4km」の標示があります。高群逸枝たちが越えた峠の近くでしょうか。
宇和町伊延の道で「おへんろさーん・・」の声。奥様が小走りで来て、手造りのお饅頭のお接待。
「わたしらーも来月へんろに行くんよー・・」
この道、遍路姿を見ることは殆どないでしょう。奥様の心の躍動が伝わってきます。
宇和町信里の徳右衛門標石
領界石「従是南宇和嶋領」
鳥坂峠付近から見た宇和の平野
宇和町東多田で、今の遍路道に復帰。鳥坂峠を越えて大洲まで行きます。
これまで3度歩いた道。とりたてて記すこともありません。例によって遍路標石の覚えでも記しておきましょうか。
宇和町信里に徳右衛門標石「是より菅生山迠十八里」。その先の墓地前に「従是南宇和嶋領」の領界石。これは元々、少し手前、東多田番所跡に立てられていたといいます。
鳥坂峠は、木材の伐採搬出のためでしょうか、作業道が強引につくられていて、道を間違えぬよう注意が必要です。
峠を過ぎ、日天社前の地蔵台座に「是よりアゲイシサン三里 スガワサン十七里」と刻まれます。
三本松に徳右衛門標石「是より菅生山迠拾七里、こんや作兵衛、天明四年甲辰年」が二つの舟形地蔵、一基の墓と並びます。地蔵は天明四年銘とともに「是より十丁下り常せったい所」と刻まれています。その「せったい所」は今もレストランやラーメン屋さんがかたまって建っているところですね。
大洲城
おはなはん通り
レトロな看板
ポコペン通り
赤レンガ館
大洲に入り、袖木に徳右衛門標石によく似た形式で(大師像)「是より す川山十六里」と刻む石があります。ちょっと気になる石です。
大洲の街は、のんびりとして楽しさが溢れるような町です。
お城の桜も見事。おはなはん通りや、ポコペン通り、赤レンガ館などゆっくり見て歩くのも楽しいものです。
笠置峠付近の地図 東多田付近の地図 鳥坂峠付近の地図 大洲付近の地図を追加しておきます。
(3月28日)
大洲から内子まで
今日は半日歩き・・(半日分って、午前中しか歩かないってことです。)
大洲の街を出て、暫く国道56号を行き、遍路シールに従って県道に入り川を渡ると、新谷の街が
見えてきます。
おっとその前に、十夜ヶ橋永徳寺と橋の下で、ちょっと部厚すぎるふとんでお休みのお大師さんにお参りしたことを書いておかなくてはなりませんね。それから、若宮下の観音堂前の茂兵衛標石、217度目、明治40年9月、永徳寺境内の徳右衛門標石「是より菅生山迄拾弐里」も記しておきましょう。
ちょっとおもしろいのは、「名所図会」に載せられた十夜橋の絵図。粗末な橋、大師堂の前に尻付けをして荷行李を背負った旅の人(阿波の人らしい)。草原の向こうは大洲の城が見える。車が引っ切り無しの今の状況と比べると、隔世の感を深くしますね。
「名所図会」十夜嬌、大師堂の図
(追記)遍路笠の文字について
「四国遍礼名所図会」の十夜橋、大師堂の図に描かれた遍路の笠に「阿州(旧字体)」と書かれています。気になります。真念の「四国遍路道指南」には笠の文字については触れられておらず、これは江戸期の四国出身の遍路特有の慣わしであったかと思われます。遍路笠の文字について、佐藤久光「巡拝記による四国遍路」(2014)、アルフレート・ボーナー(1931昭和6)佐藤久光、米田俊秀・共訳、を参考に追記しておきましょう。
佐藤によると、昭和11年、愛媛県新居浜から遍路にでた女性の笠に○に「予」と書いたといいます。他県は「阿」、「土」、「讃」と。ボーナーは、○に「よ」、「あ」、「と」、「さ」と書くと紹介されています。(この書は訳本ですから、「よ」:「予」、「あ」:「阿」、「と」:「土」、「さ」:「讃」の意であるのかもしれません。)かな書きの図例としては、阿波、田井の浜での「田井婦人の会の接待風景」に見られます。(この絵図の作成年代は不明ですが、雰囲気からすると明治以降であるような・・ちょっと「?」と思わせる絵図かも)江戸時代から続く慣習が昭和の代になっても踏襲されていたことに、興味を覚えます。
田井婦人の会の接待風景
母と娘たちの遍路装束 北海道から来た男性遍路の写真
また、ボ-ナーの本には昭和初期当時の写真が掲載されています。特に「母と娘たちの遍路装束」、「北海道から来た男性遍路の写真」には、何事とも言い難い感動を覚えます。(思わずここにコピーしました。不都合であれば削除します。)
これらの遍路が被る菅笠には、「迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何処有南北」あるいは「同行二人」と書かれているように思えます。(「迷故三界城・・・」以下の文言は禅宗の「小叢林清規(しょうそうりんしんぎ)」や真言宗の教えにも見られるもの。一般に葬式で導師が棺や骨壺に書くものとされる。)遍路の着る白衣とともに、昭和になってから次第に普及し、現在の遍路に通ずる慣習と思われます。
(令和5年6月改追記)
新谷の街
新谷の地蔵
徳右衛門標石
さて、新谷の街。江戸時代は加藤氏の城があった所で、「道指南」には「○にゐやの町、調物よし、はたご屋も有。」とあります。(よく出てくるこの「調物」という言葉、物の調達即ち買物というほどの意味でしょうか。)
今は新しい家も混在する街並ですが、往時の面影を残してはいます。
帝京大学第5高校の前に立派な地蔵。台座には寛政12年の文字が見えます。その前に徳右衛門標石「これより菅生山へ十リ」。美しい標石です。
旧道は高校の校庭を斜めに横切り南東に、矢落川を渡っていたといいます。
ちょっと探ってみました。
名所図会に「高柳橋、町はなれ土ばし也」と記された橋、今は歩行者用の小さな鉄橋として残っています。地蔵前の徳右衛門標石も元々はこの橋の袂にあったそうです。
この春の盛り、菜の花の咲く美しい道として現れていました。(追加した地図に細赤点線で示した道です。)
新谷の旧道と高柳橋
五十崎町黒内坊の三差路に徳右衛門標石「是より菅生山迄九里。(正面左側に彫られた「左へんろちかみち」は後刻のようです。)
左の道は、棚田や雑木林が続くすばらしい山村の道です。
ここで同行した遍路さんは、私に草花の名を語りながら、熱心に写真を撮っていました。
五十崎のへんろ道
五十崎のへんろ道
思案堂と地蔵
運動公園を過ぎ、駄馬池の傍に思案堂と呼ばれる大師堂。その周りには、六地蔵や馬頭観音、遍路標石、金毘羅道標などを見ます。この地で金比羅道標を見るのも珍しいこと。
向かいの池の土手にも多くの地蔵があります。
実は、ちょっと所用が出来て、今日は電車で松山まで行って泊ります。
今日の歩きは15kくらいでしょうか。
それにしてもまだ時間が余りますから、内子の街をゆっくり見てまわります。
内子座、商いと暮らし博物館、上芳我邸などを見ます。何といっても、街並と建物の立派な維持、保全、そして、様々な見せるための工夫には感心させられます。
見学のため置かせていただいた私の柿渋笠を見て、受付の女性は「きれい・・」と言います。
老遍路には何処でも親切です。楽しく、いい時間でした。
内子の街
内子座
内子の店
上芳我邸
上芳我邸
上芳我邸
五十崎付近の地図を追加しておきます。
(3月29日)