四国遍路の旅記録  平成26年春  その4

槇谷から岩屋寺へ

今日は槇谷からの道を通って45番岩屋寺に参り、千本峠で西明神に出て、時間があれば三坂峠に至る旧土佐街道も探りたいと思います。
久万の街を抜けて、上野尻から県道153号に入ります。
最初の目標は林業技術センター。山際の曲がりくねった道を行きますが、下を見ると新道が伸びて、もう完成している様子。これなら、越ノ峠までは新道を通った方が良さそうです、(新道は旧土佐街道の上を走っています。)
中野村で河合に通じる道を分岐、有江川を昭和橋で渡ります。
馬頭観音や「中ノ年女」の祈願石が置かれた地蔵を見たりします。「左 へんろみち」の自然石の道標もあります。
有江川の支流に沿って山あいに分け入る槇谷への道は、まるで隠れ里への入口のようです。


 槇谷への道の畔

荒れた田圃、藁ボッチの向こうに墓。
6年前の記憶と寸分違わぬ風景は、むしろ驚き。
文政二年と刻まれた地蔵の横の槇谷林道改築記念の道案内碑も懐かしい。
昭和18年竣工中野村から槇谷神社まで延長3.2km、工費参万壹阡圓とあります。
ほんとに、人の生活と神仏とが、今よりづっと近かった時代なのでしょうね。

 槇谷の田畑

林道改築記念碑

久万町立久万小学校槇谷分校の廃校の校庭で休ませていただきます。
この学校、明治15年七鳥村七霊小学校の分校として開校。幾度か校名は変遷し、平成2年3月廃校となります。(この七鳥(ななとり)という地名は、今も字名として、この辺りに広く残っていて、岩屋寺の所在地の字名でもあるのですが、岩屋山に棲むと伝える七霊鳥(仏法僧、慈悲鳥、鈴鳥、三光鳥、のしこふ鳥、かつぽう鳥、杜鵑(ほととぎす))に由来します。)
こんな美しく、尊い名を持ちながら、今は何と寂しい姿になったことでしょう。


 久万小学校槇谷分校(廃校)


 久万小学校槇谷分校(廃校)


 久万小学校槇谷分校(廃校)

廃校の周りだけではありません。この集落の家の間を歩いていても、人の気配を感じることがありません。やがて、この村も草木の中に埋もれてゆくのでしょうか。(江戸時代、元禄二年の記録では、槇之谷 19軒、128人とあります。)
日本の山村の多くは何処でもそのようです。私が四国の山村を歩いてきて一番感じたこともこのことです。 こういう所には住んでゆけない、日本はそんな国になってしまったのでしょうか・・
公会堂の庭に嘉永四年「いわやへ二十二丁 左へんろみち」の標石があります。
素鵞神社の傍から山道に入ります。
道傍に「へんろみち」と刻まれた地蔵があります。
一番上の家(廃屋)の傍に、岩屋寺までの案内板が置かれています。その家の方の名で「山へんろ道、道険しく足元を十分注意してお参り下さい」と。
神社から上の家は5軒。そのうち4軒が「・・跡」と記されています。
昔から岩屋寺への遍路道に住んできたという誇りと、この地を去らねばならないという複雑な思いと、そんなものを感ぜずにはおれません。
6年前は伐採作業で破壊されていた遍路道は復旧されていました。
水峠(みずのとう)標高770mまでが急坂。峠に地蔵があります。そこからは路肩の薄いトラバースルートで八丁坂(標高730m)に出ます。

(追記) 過疎の果てに・・
遍路道(またはその周辺の道)を歩いて、私の心に突き刺さり離れなかったことは、過疎の果てに招来した・・限界集落、消滅集落の存在でした。昭和30年代、日本の国の急激な変化のなかで、日本国中で生じていることと聞くことが多かったことではありますが、実際にその様を見ることは衝撃の経験でした。
この久万高原町、槙谷での見聞もその一つでしたが、私はこの後、石鎚山北麓の山村のおける、更に大規模な消滅集落を見ることになります。(平成26年秋 その4-1、4-2)
久万高原町においても槙谷の南東、高知県に接する旧美川村、旧柳谷村における過疎集落の諸相について、すでに昭和59年3月の愛媛県史(地誌Ⅱ中予)に提示されています。それを参考に「過疎の果てに・・」の様相のあらましを追ってみたいと思います。
(旧美川村は、明治初頭には、仕出、東川、七鳥日野村、中黒谷、上黒谷、大川、有枝、久主、黒藤川(つづらがわ)、沢渡の11の村よりなっていたが、昭和30年、弘形村、仕七川村、中津村の半分を併せる。昭和34年、七鳥の一部、久万町などを併合して久万町として併合。美川の村名は消滅します。)
美川村の人口の動向は、昭和35年8300人、昭和45年5400人、昭和55年3700人、平成16年の合併時に2500人と減少の一途を辿ります。
地図「猿楽石付近」を見ましょう。旧土佐街道の南側に、旧美川村の長崎、信木、ウツギョウ、ヨラキレの集落が見られます。これらの集落は、明治末から大正にかけて高知県から焼畑耕作のため入植、主にミツマタ、他にとうもろこし、大豆、小豆、ヒエなどを生産していました。ミツマタは昭和になって衰退、その後集落は廃村への道を辿っています。地図上には各集落ともに数軒の家屋が見られますが、長崎の数軒を除き他の集落はすべて廃屋または倒屋と見られます。
同様の集落は、旧美川村丸山(旧美川村の東端、二箆山(ふたつのやま)の北側斜面標高950m前後、昭和21年入植、昭和46年廃村)さらに隣接した旧柳谷村の小黒川、中久保にも見られます。(柳谷村は明治初頭、久主、黒藤川、柳井川、西谷の大字があった。平成16年久万高原町に合併。小黒川は明治26年11戸、昭和55年廃村、小黒川、中久保ともに高知県堺、地芳峠に近い愛媛県最奥の集落。柳谷村は今は地図上に名前さえ見られません。管轄町支所である柳谷は柳井川にあります。私は後に「長州大工の心と技」で訪ねることになる早虎神社は、この近くの地です。)                             (令和4年6月追記)


 遍路道の地蔵

 水峠

 八丁坂上

 岩屋寺への道

八丁坂上には、「南無遍照金剛、延享五年(1748)」と刻まれた3mほどの石碑、明治36年の京都独鈷組の標石、3基の舟形丁石地蔵が並んでいます。
ここから1.9k、細かな上下を繰り返す尾根道を岩屋寺へ。その道は多くの丁石地蔵を見る道です。
下りの道が続くと逼割行場の前。
私は理由は言いませんが、こういう行場は遠慮することにしていますが、進んで(あるいは、好んで)参られる方も多いようです。
名所図会には、詳しい記述があります。今と同じなのでしょうか。
「逼部(せりわり)岩、道ノ左の大岩なり、傍ニ大師堂、鳥井、是より大岩の間を取付上ル、葛禅定、今ハかねのくさりにて取付上る也、二十一梯、葛禅定より上リ是を上る、白山権現社、梯の上に有、此所壱間半四方の地也、小社なり、高祖大権現、梯を下リ西ノ方少し上る、岩ニ取付別山大権現社、くさりを下リ左の方へ岩木ノ根ニ取付上ル也、是よりせり割下る」
(追記:入った方の話によると、今もこの通りだそうです。葛は「かずら」と同意でしょうか。「二十一梯」は開山の法華仙人の歳だとか。)

(追記) 岩屋寺逼部(せりわり)
セリワリ正安元年(1299)の「一遍聖絵」に描かれた寺と逼部(せりわり)を見てみましょう。

絵図の右端に不動堂が見えます。堂内で向かい合っているのは一遍と聖戒(一遍の弟子、息子とも弟あるいは甥とも)と言われます。不動堂の左、三つの岩峰が聳えます。一番右、白山権現社、梯子を登っているのは前が聖戒、後が一遍と見られています。梯子の下で合掌する白装束の集団。その左の岩峰がおそらく高祖権現社。堂前に白装束の行者が見えます。その左がおそらく別山社。赤い花の咲く長閑な風景、絵図からはそんな雰囲気も伺える「せりわり」です。
次に「四国偏礼霊場記」(元禄2年(1689))の海岸山岩屋寺を見ましょう。
岩屋寺図の右図。記文概要「・・本堂不動明王石像、大師の御作、大師堂へ廊をかけて通ぜり。堂の上特起せる岩あり、高さ三丈許、堂の縁より十六のはしごをかけのぼる。・・岩上に仙人堂を立、(法華仙人堂)。・・其上に屏風のやうなる岩ほの押入たる所に率都婆あり。・・」この後、絵図の仙人堂の上の岩窟に「アミダ」と記されたやや不思議な阿弥陀仏像についての説明に移ります。(別記のため省略)図でその左に見える「仙人窟」については記文は触れていません。その他、図中、橋に続く参道に「寺マデ三町上る」の書き込み。大師堂横に高野社他二つの神祠。その上一ノ王子、二ノ王子。山門(後の仁王門の位置)先に「生木ソトバ」など雄弁です。
左図(せりわり)。「最初の岩峰、高さ三十間ほど、その上に三十尺ほどの岩上に白山権現の社鉄にて作れり。其右の岩頭に別山社、次の岩頭に高祖権現社。」 その他、山道に沿って勝手、子守、金峰、大那智などの神祠。


一遍聖絵 岩屋寺



四国偏礼霊場記 岩屋寺


山門から入って直ぐが大師堂。後に聳える岩山にも劣らぬ壮大さに、改めて見入ります。
参道は標高差200m、バスや自家用車の遍路が息せききって上ってくる道です。道傍の奉納地蔵群も荘厳な風情です。
純白の衣の遍路さんが列をつくって上ってきます。
「こんにちは・・ごくろうさん、ごくろうさん・・」

 岩屋寺大師堂

参道の奉納地蔵

 参道の奉納地蔵


 岩屋寺に参る遍路


 岩屋寺に参る遍路

岩屋寺に参る遍路


 本堂横の岩窟

ここで岩屋寺についてこれまで書いてこなかったこと二つを追記しておきましょう。

(追記) 岩窟の阿弥陀像、大師堂
一つは本堂の横、16段の梯子で上がる仙人窟の更に上にある阿弥陀像のことです。

それは垂直に切り立つ岩壁上の巨大な顔の右目の窪みとも見える岩窟の中に置かれています。真下からは見ることはできませんし、かなり離れた所から目の良い人であれば微かにそれと・・
澄禅「四国遍路日記」には「其ノ洞ノ内ニ阿弥陀ノ立像在リ、イ物ノ様に見へタリ・・」と。「名所図会」には「洞の阿弥陀、仙人堂の上にあり洞の中にあみだ尊有り」と紹介。
また、寂本の「四国遍礼霊場記」には「不動堂の上の岩窟をのづから厨子のやうにみゆる所に仏像あり、長四尺あまり、銅像なり、手に征鼔を持、是を阿弥陀といふ。」とあり、その像容から阿弥陀というを「あやしむ人あり」としてそれを是認した書きよう。「いつの比か飛来るがゆえに飛来の仏といふ」とも。
鉦鼓を持つ像といえば、この寺にも縁の深い「踊り念仏」で知られる一遍上人を思い浮かべてしまうのは早計でしょうか・・
しかし、最近の超望遠カメラやバルーンを用いた撮影画像を見ると、像の手は来迎印を結んで鉦鼓は持たぬように見え、全容も阿弥陀に相応しいように思えます。果たして江戸初期に見られた像とは違うものなのでしょうか・・あやしみます。

もう一つは大師堂のこと。
仁王門を過ぎてすぐ大師堂の前に立つとその独特の威容に圧倒される思いがします。
宝形造、銅板葺き、向拝部の角柱を二本組とし柱身に膨らみ(エンタシス)、柱頭部をバラの組紐状の装飾を付けられています。また、内部の円柱頭部の挿肘木を輪で繋ぐ構成など随所に西洋建築の手法を採り入れたものといわれます。大正9年、大蔵省の技手であった河口庄一の設計、2007年国重文に指定されたもの。
写真も追加。

 大師堂

阿弥陀の写真も追加します。普通カメラだからこの程度。トイレの所からです。(h29.10)




久万方面への帰り道は、参道を下り、直瀬川の橋の手前を左折するのが遍路道。
川に沿った崖の道で維持は大変のようです。今も崩壊箇所があるようで、一旦県道に出た所(古岩屋トンネルの入口)以降が通行止となっています。
古岩屋荘の先から左、山道に入ります。この道から見る「古岩屋」も壮大なもの。
八丁坂上り口を経て、なだらかな上下を繰り返す道を行きます。
この道で、60過ぎと思われる女性と会いました。
話をしていると「広島じゃがー・・」
小さな自家用車に車中泊りしながら札所をまわっているとか。当然、山道は歩きとなります。いろいろな形の巡礼があるものです。
一旦、県道に出ますが、その後も狩場まで県道を通らず、畑中の道を行くことができます。丁石もいくつか残っています。
河合の四国のみちの休憩所の傍に、嘉永6年の「是より岩やちへ六十丁、うちもどり/是より志ようるりちへ四里八丁」の標石、栗田修三の八十八度目の石など4基が集められています。

休憩後、千本峠(せんぼとうげ)を上ります。
峠の近く、左に「右へんろ道」の標石。その向いに寛政七卯十二月、右へんろ道と刻した大師像があります。
切り通しの峠を下って50mほどの所、元々の道はここから高野の集落に通じていたようですが、凝灰岩の崩落により道が無くなり、今は下って上り返す道となります。峠下は昔の崩落を思わせる大岩が散乱しています。
この度は峠から0.5kほどの地点、最近、道が崩れたようで、更に下る迂回路が示されています。
以前と違い、四国のみちの道標は確実に増えていますが、この道の維持は大変のようです。
高野の休憩所からの展望はなかなかのもの。
ここからは舗装道と地道を繰り返し菅生の採石工場の傍まで下ります。新旧の道標が豊富ですから、それを見落とさなければ、迷うことはないでしょう。

 千本峠の大師像

 千本峠

 千本峠を下って

ここから、お約束の通り、すぐ近くの高殿神社にお参りし、三坂峠近くの樅ノ木あたりまで旧土佐街道(もちろん、松山方向に進む道は「松山道」と呼ばれていたでしょう。)を探りました。
三坂峠から久万に至る旧土佐街道は、大まかに言えば現在の国道33号に沿っていたのですが、正確には重なった所の方が少ないというほどなのです。昔の遍路は当然ながら旧土佐街道を歩いたわけですから、古道好きとしてはやはり気になります。
古い街道であった証しは、里程石、遍路道標、常夜灯、石仏、遍路墓などの石造物ですが、こういうものを確認し手に触れて歩くのも楽しいものです。

三坂峠を上ってきた旧土佐街道は、国道のやや南を通っていたようですが、東明神野地付近は国道を大きく外れ、久万川の東岸近くを走っていました。この付近、街道の名残りと思われる独特の地形が確認できる所もありますが、六里石は残念ながら見落としました。(後の機会に確認。)
旧街道はその南で国道と交差し、高殿神社の裏を通って久万の街中、旧国道を右左します。
この辺りには、7里石や多くの遍路道標が残されています。
(追記)入野の民宿でんこの細い裏道、旧土佐街道を南へ行くと、ちょっと気になる道標があります。ここに追記しておきましょう。
蒲鉾型で上部に大師像、その下に「是より・・」と刻字、下部欠損。三坂峠南の徳右衛門標石に酷似した道標があります。直前に馬頭観音も。気になる道標です。
その南、県道を越えると民宿一里木の前に土佐街道の案内板とともに七里石。
さて、上記に関連してひとつ考え過ぎ(妄想かも)をやらかしましょう。
久万から八坂寺のかけての道では街道と遍路道が重なっています。この道では、徳右衛門標石の設置位置は土佐街道の里塚石の位置に微妙な配慮がなされている、という気がするのです。(勿論、現在の標石の位置は変化していますから当初の位置を想像しながら・・) 
現在確定されていない久万町街区及び明神の徳右衛門標石と七里石、六里石。三坂の徳右衛門標石と五里石(森松町須我神社に移設されたもの)。 浄瑠璃寺の徳右衛門標石と四里石。 八坂寺門前の徳右衛門標石と三里石(現レプリカ)。夫々徳右衛門標石と街道里塚石は「着かず離れず・・」微妙な位置関係にあると思えます。
この妄想からしても、入野の道標は徳右衛門のものと見たいのは正直なところ・・

 

 土佐街道七里石

それからの旧街道は、この朝通った槇谷への道の途中、越ノ峠から山の中に入り、土佐国境の黒滝峠を越えていたのです。


 土佐街道の名残り(野地付近)


 土佐街道の名残り(宮ノ前付近)

もう夕暮れとなりました。ちょっと疲れました。久万の宿に戻ります。

 久万付近の地図 岩屋寺付近の地図を追加しておきます。

                                           (4月1日)


三坂を下り松山へ、浄瑠璃寺、八坂寺、西林寺、浄土寺、繁多寺

昨日、かなりの部分を歩きましたが、また久万から三坂峠まで国道33号を歩き直しです。
東明神の旧街道との合流地点に自然石の標石「浄るりじ道 三リ四丁半/いわやじ道 三リ/明治三十年」。三坂峠まで1kの地点に徳右衛門標石「是より浄るり寺へ二里」。国道から四国のみちに入った所に、宝永元年の年号のあるものを含み3基の遍路墓があります。

 三坂の徳右衛門標石

 三坂の遍路墓

 松山方面の展望

 雪割一華

三坂を下る道、この旧土佐街道(松山道)でもある道は、江戸初期、久万の山之内彦左衛門光実(晩年仰西と称した)によって拓かれたと伝えます。(この仰西という名前、千本峠を下った道が土佐街道(国道33号)に合する場所に残る土木遺産「仰西渠」によっても知られます。)

峠を下って少々、春霞、茫としていますが松山方面の展望絶佳。

ちょっとワルサに・・「名所図会」に描かれた江戸時代の見坂峠の展望図を載せておきましょう。
「三ツノハマ」や「イヨノフジ」(興居島の小冨士か?)、遠くに藝州、周防、長門の書込み。それより、近くの茶店の賑わい、旅人の楽しげな様子が何とも羨ましいですね。
(追記)「道指南の三坂よりの風景」
真念は「四国辺路道指南」で 「・・此峠より眺望すれバ 千歳寿く松山の城堂々とし、ねがひハ三津浜浩々乎たり。碧浪沙洋、中にによ川と伊予の浜、小富士駿河の山のごとし。ごゝ島、しま島、山島、かずかずの出船つり船、やれやれ扨先たばこ一ぶく。くだり坂半過、桜休場の茶屋。大師堂、是堂ハ此村の長右衛門こんりうして宿をほどこす。・・」と記す。
最後の茶屋、宿は数軒あったと伝えられる。その一つは今に残る「坂本屋」であろうかな・・(令和5年2月追記)



見坂峠(名所図会)

街道の石畳が現れ、鍋割坂の標示。嘗て、行商の金物屋が鍋を石畳に落として割ったことによる命名であるらしい。
道傍に遍路墓を見ます。ふと足元に目をやると、一面の雪割一華。以前にも見ました。この坂は知られた群生地なのかもしれません。
坂道を下ると満開の桜のお出迎え。坂本屋の前を通り下った所も桜という所。
坂本屋では土日に「門前の小僧」さん達がお接待をやっておられるとか。遍路にとってありがたく、尊といことだと思います。今日は水曜日、残念です。
窪野で網掛石を見、土佐街道の四里石を見て、46番浄瑠璃寺へ。

 桜のお迎え

 窪野の古い墓

 土佐街道4里石

石段前の子規の句碑「永き日や衛門三郎浄るり寺」に迎えられます。
本堂正面の「薬師如来」の扁額の上。宝塔を手にした仏さんと、その下に猿のような顔が覗いている。不思議な図柄。M先達さんにお教えいただき初めて気がつきました。
境内には徳右衛門標石「これより八坂寺迄五丁」。徳右衛門標石が境内に置かれるのは珍しいこと。

 浄瑠璃寺


浄瑠璃寺本堂

(追記)浄瑠璃寺の縁起は不明
この寺は、江戸期の日記等でその由緒、状況について語られることが極端に少ない。興廃した寺という様であろうか。
四国遍礼霊場記では「当寺本尊薬師如来、日・月光、十二神が囲っている。・・」と極めて簡単に記したあと「門さきに川横たわる。水は昼も夜も変わらず流れている。されば水は常に入れ替わっているのだ。世の中もまた絶えず動いており人も変わっている。昔のことは消え去り伝わらない所以である。 此寺の興廃についても分からない。惜しむべきことだ。」(口語訳風に改めた)と書かれている。
言い訳のように川水の道理が持ち出される・・何か理由があるのであろうか。江戸前記には札所の根拠は失われていたとも・・
四国遍路の札所がほぼ確定するのは、江戸初期と言われているが、実質的にはさらに遡るのではないかとも思わせられる。
                                (令和5年10月追記)

47番八坂寺までは1k足らず、すぐ着きます。
八坂寺の門前に徳右衛門標石「これより西林寺迄三十五丁」。



八坂寺の山門(正面は本堂)               「四国遍礼霊場記」の八坂寺図

(追記)「八坂寺の変遷」
熊野山妙見院八坂寺。寺伝によると役行者の開基、本尊阿弥陀如来、恵心僧都の作と伝えます。その後、熊野権現を勧進し十二社権現ととに祀り修験道の根本道場として栄えたと。
「四国遍礼霊場記」の絵図には、現在参道正面にある本堂の位置に「鎮守」十二社熊野社が描かれています。同図には「本堂」「本坊」「浄瑠璃寺道」「西林寺道」さらには長閑な田園を想像させる「田家」の表示もあり興味深いもの。
霊場記には「今大師の遺裂きこゆることなし」(大師の事績は残っていない)とも記されます。江戸時代初期、寺は荒廃して何も残されていないという状態であったのかもしれません。
江戸中期以降、修験の寺から四国巡礼の寺(弘法大師と衛門三郎を祀る寺として・・後に衛門三郎の本拠は石手寺に移る)に変わって行きますが、堂宇は江戸後期に本堂の位置に大師堂が建てられた以外大きな変化は無かったと言われます。昭和も後期になり、鎮守の位置に大規模な本堂が建てられ寺容の大きな変化が見られ、現在に至っているようです。
なお、現在はここよりかなり離れた砥部町高尾田にある真念石は、喜代吉榮徳氏により八坂寺参道にあったと特定されたもの。その標石には「正めんちん志/右へん路/左ふ多志よ」と彫られる。(ちん志:鎮守、ふ多志よ:札所) まさに絵図のとおりの状況が再現されています。
また、寺の後ろの山にある「鉢久保」について「四国遍礼名所図会」に「衛門三郎大師の御鉢を砕きし所」との説明があります。
                                (令和5年11月改追記)

   

八坂寺を出て、えばら湖(土用部池)の土手下に、年号が記されているものでは、伊予最古と道標があります。「(手印)右遍ん路道 貞享二乙丑三月吉日 法房」。貞享二年は1685年。
ここから北へ田圃の中の道を進み文殊院へ。
途中、旧土佐街道が分岐し、三里石のレプリカがあるのですが、これは後ほど・・

 伊予最古の道標

 八坂寺門前の徳右衛門標石

私は、荏原城址の前を通って東、渡部家住宅(国重文)に向います。
荏原城は戦国時代の城、東西130m、南北120m、四周に濠をめぐらせ、なかなか立派な城構えを想像させます。河野氏の家臣、平間氏の居城であった時、豊臣秀吉の四国征伐により落城・・桜咲く、夢の跡でした。
松山市東方町の渡部家住宅。
この建物は渡部家の三男が、藩主の命により入り庄屋としてこの地に入り、万延元年(1860)に着工、慶応2年(1866)に上棟した住宅。二階建表門(長屋門)、東に白壁造りの倉、西に座敷庭を配し周囲を土塁で囲っています。主屋は本瓦葺ですが、主屋根の一部に茅葺の越屋根を配して、農家であることを示したと言われます。主屋内は、北側を内向き部屋とする典型的な農家の配置を踏襲していますが、随所に武家屋敷としての仕掛けと造りが取り込まれています。土間部分から見上げる大梁の材の大きさは大庄屋の力をものと言われます。
質実剛健といった印象を持たされる気持ちの良い住宅でした。
この住宅、本来は土、日にしか公開されていないのですが、たまたまボランティアの方々が清掃に入っておられました。教授風の方もおられ、解説付で見学させていただくことができました。
老遍路姿の余禄でしょうか。ありがとうございました。

見学させてただいた時は知らなかったことですが、渡部家住宅を建てた大工について後に知ることがあったので追記しておきます。

(追記) 渡部家住宅の大工
渡部家住宅の主屋に関する棟札が二枚あり、その一枚に「棟梁 村 徳次郎 同脇 大三島 宗次郎・・八代 安右衛門、多七、平五郎、市太郎、宮太郎・・」とあるということです。八代は八代嶋のこと(屋代島とも書かれる)、今の周防大島。江戸後期から大正に至る時代、伊予・愛媛、土佐奥地の社寺建築で活動した「長州大工」がこの住宅建築にも参加していたのですね。興味をそそられることですのでここに記しておきます。



 渡部家住宅長屋門


 渡部家住宅主屋


 渡部家住宅主屋


渡部家住宅座敷

さて、ここからまた恵原町の主遍路道に戻ります。上野町にある茂兵衛、88度目、明治19年3月「(手印)道後 西林寺/左八坂寺/左松山道」。この標石はいわば「へんろ分れ」。「左松山道」は松山から見れば土佐街道。

松山札の辻から始まる旧土佐街道は、ここまで遍路道とは別のルートで進んできていました。この「へんろ分れ」からは、遍路道が八坂寺に寄る区間を除いて、旧土佐街道と遍路道は重なります。旧街道は文殊院近くの三里石、窪野町榎の四里石を経て三坂を上るのです。
さて、大分余談が続きました。(えっ、元々余談だろうって・・まあ、まあ)
「へんろ分れ」の茂兵衛標石の先を右折して札始大師堂へ。
県道40号に合流する所に茂兵衛標石、133度目、明治26年。
重信川に架る久谷大橋を渡ります。
重信川に橋が出来たのは、太平洋戦争後であったようで、それまでは川の水に浸かって渡河していたのでしょう。(旧土佐街道の渡河地点は、ここから西に約2k、そこに橋が出来たのは明治37年といいます。いずれにしても明治の中程まで、重信川は徒河が常識であったようです。)
昭和の始め頃は、川の両側には遍路宿や接待所もあり、また河原では多くの遍路が野宿して煮炊きをしていたと言います。
橋を渡って西へ20mほど、昔の渡河地点に続く道の両側には、茂兵衛標石、121度目、明治24年7月(手印は西林寺方向を示していますが、刻文は「是レヨリ金刀比羅ヘ二十九里余」)と「へんろ道 西林寺 三丁/金毘羅大門江廿九里」と刻した明治27年標石があります。
そのすぐ先、民家の塀の陰に遍路墓が5基。その先にも20基ほどの遍路墓。ここは最近建てられたと思われる供養塔と地蔵が並んでいます。
これらの標石や墓は、県道を行く遍路は見ることはないでしょうが。

 
重信川の渡河地点、橋の横20mほど

 重信川畔の遍路墓


この夥しい墓の集合

更にその少し先、夥しい数の古い墓石の集合に驚かされます。
これは遍路墓ではないと思われます。この墓の由来はすぐに明かされることになります。・・もちろん私なりにですが。
県道を越えて西林寺に続く道に茂兵衛標石、133度目、年号なし。その先、右側に「當郷餓死萬霊塔」を見ます。
「享保17年(1732)は西日本一帯が大凶作で大飢饉となった。中でも松山藩は餓死者が最も多く5705人に及び、牛馬も三千頭が死んだと伝えられる。この高井村は約半数の人々が餓死したとも伝えられる・・」とあります。
そうか・・ここから県道を隔ててあった夥しい墓石の集合の理由がわかったような気がしました。
それと同時に、この慰霊塔がここから近い寺に置かれていないことに、何か割り切れなく情けない気持ちを持ったものでした。
今回の旅ではもう一度、松山市の堀江地区で享保の大飢饉の供養塔と追遠之碑を見ることになります。

48番西林寺の門前に徳右衛門標石「これより浄土寺迄廿五丁」。
西林寺から51番石手寺まで、その道中特に記すことはありません。余談のみを一括させていただきます。
西林寺から浄土寺、繁多寺、石手寺の間は夫々2~3kで、バス遍路と歩きの時間差は殆ど無いようです。各札所で同じ団体の人と顔を合わせます。
「早いなー・・」「いえ、いえ、ワシは遅い方で・・」。
浄土寺の本堂は、何度見ても、地味だけど素晴らしい建物だと思わせられます。ただ、いつも輪違い(あれ、この時は折敷に波三文字)の寺紋を染めた幔幕に覆われているように思えます。
美しいお姿なのですから、たまには幔幕を脱いだお姿を見たいものです。
門前民家の塀沿いに、徳右衛門標石「是より者んだ寺迄十八丁」。
52番繁多寺は桜が美しい。
門前のアイスクリン屋さん、懐かしい・・今度も買ってしまいます。
51番石手寺参道口に徳右衛門標石「是より太山寺迄弐里」。その横に衛門三郎が居て、拝むひとがけっこういます。

 西林寺

 浄土寺

 浄土寺

 繁多寺


 石手寺参道口の徳右衛門標石、右奥に衛門三郎像


 石手寺

久万の道で声を掛けたベルギーの若者に再会しました。
随分真面目な人で、88ヶ所をまわった後は、ヒロシマに慰霊に行くと言っています。
「私はヒロシマで・・」と言うととても驚いていました。
ヒロシマのことも少し話しましたが・・何しろ私は英語がダメだし、ベルギー人の英語も分かり難いし・・話は殆ど進みません。
浄瑠璃寺で見掛けた女子高校生にも会いました。
「写真部で、遍路の写真を撮っていて・・」 「歩くの早いねー・・」 「自転車ですから・・」 
「あっそうか・・」。

今日は、道後温泉近くの宿です。

道後温泉


東明神付近の地図 三坂峠付近の地図 八坂寺付近の地図 西林寺付近の地図を追加しておきます。 
なお、この辺りの地図には遍路道とは別に旧街道(土佐街道、讃岐街道など)をピンク点線で示しています。お間違いのないようご注意ください。


                                       (4月2日)


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