感動との出会いをもとめて・・、白いあごひげおじさん(もう、完全なじじいだな・・)の四国遍路の写真日記です・・
枯雑草の巡礼日記
四国遍路の旅記録 三巡目 第8回 その2
金毘羅街道(伊予・土佐街道)を行く (平成23年10月2日)
「金毘羅さん」金毘羅大権現への信仰は、平安時代にまで遡ると言われますが、その拠点は江戸や大坂にも点在しており、この讃岐の金毘羅社が全国的な支配権を得るのは、江戸時代中期の宝暦3年(1753)、朝廷より「日本一社」の綸旨(ろんじ)を受けたことに始まるとされています。
これによって全国から参詣者が金毘羅を目指す、いわゆる「金毘羅参り」が始まるのです。
金毘羅参りに利用された主な道は、「高松街道」、「丸亀街道」、「多度津街道」、「阿波街道」、「伊予・土佐街道」の五つで、金毘羅五街道と通称されています。
私が歩いてみようと思い立ったのは、「伊予・土佐街道」の内、讃岐に入る国境の余木崎から金毘羅まで、35kmくらいでしょうか。できるだけ忠実に旧道(金毘羅街道)を辿るつもり。
昔の金毘羅街道の名残りである石燈籠、丁石、道標も多く残っているといいます。どれだけ見ることができるでしょうか。
街道の名前について一言。これまで書いてきたように、同じ道が「金毘羅街道」と「伊予・土佐街道」というように二つの名前を持っていますね。実際に歩いてみて道標を見ると、はたと判ることになるのですが、同じ道でも金毘羅に向う方を「金毘羅道」、逆方向を「いよ道」などと呼ぶ・・なかなか合理的な呼び方ですよね。
余木崎を振り返る
さて、余木崎を出発です。
現在の鉄道は、県境の小さなトンネルをくぐりますが、歩き道は小さな切り通し。ほどなく箕浦(みのうら)の港に。
港近くの空き地で、中高年のおじさん、おばさんが掃除の最中。そうか、今日は日曜日の朝であったか・・石燈籠と丁石の在りかについて聞いてみます。(下調べでは、この辺りに七里丁石があると・・)
「うーん、丁石は前には見たが、道拡げてこないなしんなったのー。燈籠はあっちの石垣の上にあるけど、ありゃーあたらしいものやろー・・」
港の石垣の上にやっと見付けた石燈籠、弘化四年(1847)、金毘羅大権現の文字も。目指す金毘羅燈籠です。
箕浦の港と金毘羅燈籠(弘化4年)
豊浜町関谷の街
関谷の石燈籠(明治12年)
古い家も残る関谷の街を抜けて、七福神社の境内。ここもお掃除大会。
「こんぴら燈籠?ワシは60年も住んどるけど、しらんなー・・おー○○ちゃんよーあんたの家にあるのはありゃなんじゃ・・」と埒があかない。
境内を探すと、自然石の石燈籠(慶応2年、1866)、札納(長方形の立石の中央に金毘羅さんのお札を納めたもの、明治38年)がありました。
その先の道、常夜燈、東組と彫られた彫られた石燈籠(明治12年)、金毘羅夜燈と彫られた寛政10年(1798)の石燈籠。
豊浜町和田浜の海岸
道標(安政6年)と六里丁石
姫浜の石燈籠(文政10年)
豊浜町の中心街に近い和田浜に「右こんぴら道・左琴弾山かはくち」の道標(安政6年、1859)。 ここは観音寺へ行く道の分岐点です。
この道標と並んで「こんぴら大門より六里」の丁石。「予州松山浮穴郡東方大内屋伊太郎」と施主の名もあります。予想通り伊予の人です。
姫浜には「金毘羅大権現・正八幡宮・いよ道・くわんおんじ道」と彫られた石燈籠(文政10年、1828)。並んで「右あハ道・左古んひら道」の道標。
豊浜の街を離れると、道は北から北東に進路を変え、ほぼ現在の国道377号に沿った道になります。(もちろん、国道377号の方が金毘羅街道を短絡して造られた道なのでしょうが・・)
鉄道を越えた所で一筋道を間違えました。
暫く行くと「うんへんじ道」の道標。軽トラのおじさんに聞きます。「雲辺寺行くなら、この道でいいんだ・・」、金毘羅街道に戻る道を教えてもらいます。
中姫の石燈籠(寛政8年)、札納、五里丁石
中姫の街路と道標(天保4年)
中姫の廃屋
柏原の石燈籠(寛政元年)と札納
柏原の石燈籠(寛政8年)と札納
大野原町大鞘に正八幡宮の石燈籠(寛政12年)と札納が並びます。そのすぐ先の中姫にも石燈籠(寛政8年、1796)、札納、それに「こんぴら大門より五里」の丁石の三つが並んでいます。丁石には「予州松山浮穴郡南方村有志」の文字。
中姫から柏原の住宅地内の細い道にも多くの道標(天保4年、1833など)石燈籠(明治17年、寛政元年、1789)、札納がみられます。
柏原の家の前の石燈籠に見る寛政元年の年号は私が見た中では最も古いもの。諸文献の示すところでも、おそらくこの街道最古の年号と思われます。こういうものは、金毘羅・伊予街道の成立を推定する有力な物証となるということです。
柏原には、さらにもう一組、石燈籠と札納のセットが並んでいます。これは寛政8年(1796)のもの。
粟井の道標(安政4年)
観音寺市新田、教善寺前庭の四里丁石
山本町辻の石燈籠(明治41年)、札納(大正14年)
粟井には、道標「直こんぴら道・うんぺんじみち・まるがめみち」(安政4年、1857)があります。
そして観音寺市に入り新田の教善寺(真宗興正派、浄土真宗の一派ですが讃岐に多い派といいます)の前庭に「こんぴら大門より四里 いよ松山南方村・・」の丁石。
この辺り、67番大興寺から観音寺への遍路道が交錯する場所。中務茂兵衛の標石や遍路シールなども見られ妙に懐かしく感じられたりするのです。不思議なものです。ワシはやっぱり、どっちかと言うと遍路かのー。なお、茂兵衛の標石は、遍路道だけでなく「左いよ道」と金毘羅道まで標示しているのには、ちょっと驚き。
山本町辻には、石燈籠(文久3年、1863)、「かんおんじ道・いよみち・こんぴら・はしくら道」の道標(元治元年、1864)、自然石の石燈籠(明治41年)と丸箸と丸金のマークのある札納(大正14年)などがあります。丸箸は当然、箸蔵寺。この時代の丸金には金毘羅大権現はおられないはず・・ちょっと不可解な札納に思えます。
遠くの神輿
財田川畔の道標
ここから財田川を渡るまで、金毘羅道は今の国道377号とはかなり離れたところを通ります。
家々の間の曲がりくねった道。今が秋祭りの季節であることを想い起こさせます。遠くから近くから神輿(讃岐では「ちょうさ」と呼ぶらしいですね)の掛け声や太鼓やお囃子の音が響いてくるのです。
財田川の畔の静かな道で、おばあさんがにっこりと「ごくろうさまです・・きをつけてなー・・」
この道、遍路姿が通ること、殆どないでしょうに・・
今は長瀬橋が架っている所、昔は渡しがあったそうです。石に覆われて、水量の少ない今の川姿からはちょっと想像できませんが。
渡し場跡の近くに石燈籠、「左こんひら道 右はしく(ら?)道」とあります。ここより財田川に沿えば、砥石観音を経て箸蔵街道に繋がる道でもあります。
橋を渡ると家々もぐっと少なくなり、石燈籠なども見掛けなくなってきます。
山本町砂古に寛政11年(1799)の石燈籠一つ。
稲田と彼岸花、白い煙
稲田と彼岸花
川畔の金毘羅街道
伊与見峠の一里丁石
国道377号の傍を右に左に渡っていた金毘羅街道も、三ノ宮神社を過ぎる頃から次第に怪しくなってきます。辺りは黄金の稲田、彼岸花が深紅に混じります。田圃で焼く白い煙。
小川の畔の金毘羅街道。畑にいる人に聞きます。
「この先、草で埋まっとるんで、通らん方がええで・・」
やがて伊予見峠。
峠の頂上に「こんぴら大門より一里」の丁石(弘化4年、1847)。予州松山浮穴郡上埜村○○の字とともに、反面に松山城下湊町二丁目云々・・と現代的な町名も見えます。丁石自体、新しいものに見えます。あるいは復刻版か・・
峠を下って仲南町佐文の小さな道標「左いよみち・右○○」を過ぎると、金毘羅の入口「牛屋口」は直です。
牛屋口、寛政6年の鳥居
牛屋口の古家、ここで夢を・・
牛屋口の石燈籠、「土州」の字が見える
牛屋口には、土佐や伊与の人の寄進による鳥居や石燈籠が並んでいます。それらの多くに寛政6、7年の年号を見ます。
20年ほど前に建てられたという坂本龍馬像は、ここには何とも不釣り合いな感じですがね・・
昔は魚市や飲食店、宿屋まであったそうです。大正の終わり頃までは、石燈籠にも火が入っていたとか・・その名残りでしょうか、一角に茅葺屋根の古屋が残っています。
今は、この道を通って金毘羅に参る人は殆どいませんから、当然と言えばそうですが寂しさだけが居座っている。そんな牛屋口です。
ふと、金毘羅街道の途中、財田川の畔で声を掛けていただいたおばあさんのことを思い出していました。そうか、おばあさんは私を遍路じゃなくて、金毘羅参りの人と見ていただいたのかもしれない・・今夜はここでうまい魚と酒でもいただく夢を見て、明日は金毘羅さんにお参りすることにしましょう。
ここから樹林に囲まれた道を下れば、金刀比羅宮の参道100段のところに出ます。今夜は琴平の街に泊まります。
(追記)付録「江戸時代における讃岐の主要道の状況」
他の三つの国(県)とは異なり、讃岐国(香川県)の主要道はやや複雑な状況を呈しているように思えます。ここで整理しておきましょう。
藩政時代の主要な交通路の呼び方として、街道、往還道、大道、〇〇道、〇〇越などが用いられていたようですが、これらは必ずしも厳密な定義のもとでなされたものではなく、またその時代によっても異なり、慣用的な名付けが為されてきたものもあったようです。特に四国においては、幕末期以前に「街道」の名称で呼ばれた道は無かったとも言われます。
代表的な主要道を図に示します。
東の大坂越から西の箕浦を貫く背骨の如く、「中筋大道」とも呼ばれる讃岐国往還道が讃岐の基幹道となっています。この道は古代の南海道をベースとしたもので、東の阿波国でもまた西の伊予国でも「讃岐街道」と呼ばれる道に繋がっています。それに政治、商業の中心としての高松から東に伸びる長尾道、志度道、西に伸びる丸亀街道、南へ伸びる仏生山街道。
そして宗教的要としての金毘羅宮を中心とした5つの金毘羅街道(高松道、宇多津道、丸亀道、多度津道、伊予土佐街道、阿波街道、ただし宇多津道は途中で高松道に合流するため5道には含めない)。 これらの道が絡み合い讃岐の主要道を形成しているのです。
讃岐の四国八十八霊場はその多くが山中に存します。上記の主要道から分かれこれら山の寺への参詣道として遍路道が存在しています。
讃岐の主要道(クリックすると拡大します
(令和4年12月追記)
金毘羅から四国の道を通って本山寺へ (平成23年10月3日)
朝、金毘羅さんにお参りして、昨日通った牛屋口から「四国の道」を辿って70番本山寺の先まで行きます。3日目にしてやっと本来の遍路道に戻ることになります。けっこう長い寄り道でした。
池の面の秋の空
朝日山、傾山を見て下る道
彼岸花の道
讃岐二宮、大水上神社
牛屋口の先の「四国の道」は、山の中の道と集落の中の道が混在したような・・そう、四国の何処にでもあるような道で、村の生活中を歩かせていただいているような感覚を覚えます。いい道です。
やはり溜池が多い。池の面に映る秋の空には、時に溜息がもれるほどです。所々の彼岸花の紅にも・・
上麻を下る山の道からは、お椀を伏せたような二つの山、朝日山、傾山が見られます。
ほぼ1時間歩いた毎に神社があるのも嬉しいものです。高瀬町上麻の梅之神社、同じく上麻の麻部神社、高瀬町羽方の長峰神社、そして中間点の同じく羽方、大水上神社です。ただし、梅之神社だけはその参道の坂道がきつい、パスした方がよかったかも。
三豊市西森で一旦街に出て、学校の傍を通ります。ここから大水上神社までは、なだらかな山の道。この四国の道は「茶摘みのみち」というニックネームを持っているように、この辺りで茶畑を多く見た気もします。
大水上神社は、讃岐二宮、延喜式内社。鬱蒼とした常緑樹林に囲まれた立派な神社です。
瀬丸池への道
黄金の稲田
溜池
宮川の畔
大水上神社から本山寺までは、財田川の支流宮川に沿った部分の多い、どちらかというと街の道です。
宮川は蛍の棲息地だといいますが、川の砂の中に捨てられた空き缶が目立つのが難。
宮川の注ぐ瀬丸池畔は、著名な横帯紋銅鐸、銅剣の出土地で、説明板もあります。ただ、出土地は今ゴルフ場の中になっているんだって・・
高都神社の前の溜池をまわって、高松自動車道の下をくぐり、瀬丸池から流れ出た宮川の土手を歩けば、本山寺も直ぐ。遠くからでも五重塔の上層が見えます。
本山寺本堂、屋根が美しい
本山寺は広々とした境内の心落ち着く、いいお寺ですね。私の好きなお寺の一つです。
本堂も・・特にその屋根の形が・・八脚門の仁王門も立派で風格がありますね。
本山寺から歩いて5.5k、今日の宿に入ります。