四国遍路の旅記録  平成27年春  その1

関ノ戸から伊予三島まで

その終りの日は石鎚山に上ったりしたものですから、ちょっと混乱しそうですが、昨年秋の区切り打ちで88ヶ所遍路道としては、西条まで歩いてきておりました。西条から次の札所、65番三角寺その麓の三島の街まで35k。歩くとすればたっぷり1日の行程です。
前神寺の門前に、三島までの汽車利用を勧める標石があったことをわざわざ思い出したり、この区間は国道に併行する旧道が遍路道であることが多く、上り下りは殆ど無いものの狭くて、車の往来もけっこうあって気が抜けない道であること、などを論って、後の行程を考えて半日行程とすることにしたのです。
四国中央市(土居町)に入るまでバスを利用してワープします。
関ノ戸の緩やかな峠を下る所から歩行開始です。
なお、今回の区切り打ちは、1週間ほどで88番まで行き、4回目の結願を目指します。(但し78番から82番までは4巡目を終了していますので飛ばします。)できるだけ寄り道の癖を排し、日記の記述も御託を避けた簡易なものにしたいと願ってはおります。

中将庵跡から国道を外れ関川を渡ると、緩やかに上り土居町の田園を見渡す道となります。心光寺前に茂兵衛標石(100度目、明治22年)があります。
道は下って木ノ川地区へ。年に三度実を結ぶという大師伝説を伝える三度栗大師堂の前。ここは大師堂と呼ばれますが、祀られているのは地蔵菩薩。
下畑野の民家の塀に挟まれた徳右衛門標石「是より三角寺迄四里」。
番外札所延命寺もすぐです。嘗ては「いざり松」(正しくは誓(ちかい)松)と呼ばれる松の大木が人気を博したそうですが、今はその枯れた幹が屋根の下に置かれ、寂しそう。
「昔はこの松の周囲に接待所があってのー・・」と地元のお年寄り。
宿屋も何軒かあったようで、小林一茶が泊ったという嶋屋跡の石碑も見ます。寺の前に「従是西西條領」の領界石。向いの四ツ角に「こんぴら大門へ十二里」の金毘羅道標。

 延命寺(写真は変!)

 路傍の地蔵

歩いている道は遍路道ですが、金毘羅街道(讃岐街道)でもあります。いやいや、金毘羅街道を遍路も歩いているといった方は正しいでしょうか。この土居町の辺り自然石の常夜燈をよく見掛けます。旧街道の証しでしょう。
西大道に「右金刀比羅大門迄十一里 三角寺迄三里 是ヨリ松山へ二十二里/明治四十四年三月」の道標と、台座に「三角寺へ三里 奥野院へ四里/寛政八丙辰七月と刻された地蔵が並んでいます。道標は「こんぴら」ではなく「金刀比羅」とあるように明治の末に新たに建立されたもので、伊予、讃岐に広くある金毘羅道標とはその形式が異なります。
村山神社の入口に徳右衛門標石「これより三角寺へ三里」。面白(つらじろ)川の橋の袂に「「三角寺へ三り」と刻された地蔵。松山自動車道のICの道路をくぐり大地川を渡った所に「金刀比羅大門迄十一里 三角寺迄三り 前神寺迄八里/明治四十一年八月」の道標。これは西大道の道標と同形式であり里程も重腹しています。距離の感じからすると二つの道標の中間辺りが十一里のような気がするのですが。
寒川町に入り、西浜に三つの標石が並んでいます。右側のものが「こんぴら大門より十里」の本来の金毘羅道標の復刻版。中央のものは「これより三角寺・・」上部のみが残る徳右衛門標石。左側は初瀬観音を案内する標石のようです。
1k足らず行った大倉の変電所の北側に、新しい形式の金刀比羅十里石があります。この石には丑年女、酉年女、辰年女と名前を出さない寄進者が刻まれています。どういう事情があったのでしょうか。それは兎も角、こんぴらさんと金刀比羅神社の諍いは道標にも及んでいたことが覗えます。


西大道の金刀比羅道標と地蔵


村山神社前の徳右衛門標石


寒川町の金毘羅道標と徳右衛門標石

やがて中之庄町に入り「へんろわかれ」。
ここで讃岐街道は左に曲がり、三角寺または箸蔵寺へ行く「へんろ道」は直進するのです。
このへんろわかれ周囲の道の状況は国道11号バイパスが延びてきたため、以前とは様相を一変しました。歩道上に置かれた堂々とした茂兵衛標石(198度目、明治36年)「前神寺九里、三角寺五十丁、奥ノ院百八丁」の他に「金光山奥乃院は毎夜御自作厄除弘法大師尊像の御開帳阿リ四国巡拝の砌に盤参詣して御縁を結び現当ニ世乃利益を受く遍し」と刻す。
ここにはへんろ小屋も置かれています。しかし、この広大な交差点にこれら遍路のものを置くと、それが何と不釣り合いに映ることか・・ 
三角寺への遍路道は、その先で右折して石床大師堂の前に向います。道の拡張に伴って、行き場を失った地蔵(大師像か)と墓が道から一段高い隅地に押し込められている様子を見ます。これもまた心痛む風景です。


「へんろわかれ」の茂兵衛標石。へんろ小屋も見える。

道傍の石仏と墓

へんろ道を世界遺産に・・という運動は、県も支援して続いているようです。歩く人の心は様々とは言え、遍路というものが現に存在しているのですから、それと関わりを持つ(というより遍路という行為の一部というべきか・・)遍路道の地蔵や大師像や道標や墓や・・そんな事象を遺物としてではなく、遍路にまた生活のなかに生きる形で残す方法(工夫)は
考えられないだろうか・・ 
変わり果てた「へんろわかれ」周囲の状況を見ながら、そんなことを考え、また願っていました。

(釈明) こうやって日記を書き進めて行くと、いつの間にか、標石等の紹介日記の体を呈するようになってきました。同じ道を3度、4度と歩きを重ねてくると、古からこの道を歩き様々な思いを秘かに刻んできたそれらの石に惹かれるようになってきた・・その所為とご容赦戴きたい。 一つの道で記すと、他の道でも記さないと気がすまなくなるものです。これからも続くでしょう。 なお、刻まれた文面について、歩くなかでその総てを記録したり写真に収めたりすることは不可能でした。主として、善通寺のMさん(別名「ハットリさん」とも)の膨大なサイト「空海の里」、それに「愛媛県、伊予の遍路道」を参考にさせて戴きました。併せて感謝します。
                                             (3月28日)


三角寺、奥の院仙龍寺往還の道

三島の街から65番三角寺の山道に至る間には、江戸時代中後期を中心とした地蔵、道標、墓などの石造物が多くあります。四国の遍路道のなかでこれほど集中している場所は他にはないのではないかと私は思います。江戸時代、この地の遍路に対する情熱を感じないわけにはいきません。
道標については既に3巡目の日記(三巡目第7回その3)でかなり載せてきましたので、写真の重複はできるだけ避け、今回私が確認したものを紹介したいと思います。
「へんろわかれ」を過ぎ、県道を右折する角に ・「右へんろ道/天保三辰」 ・「右へんろミち/明治十六乙酉」の2基(写真)。
石床大師堂の前に ・茂兵衛標石(198度目、明治37年)。大師堂境内に ・地蔵、台座に「宝暦五乙亥(1755) 三角寺へ四十七丁」の刻字。 ・「より○角寺へ一里」上部が欠落していますが徳右衛門標石 (以上2基写真)。 中曽根町生吉の道角に ・茂兵衛標石(160度目、明治31年)。その隣に・「へんろミち」とだけ刻まれた道標。中曽根町六塚に ・「(手指し)左へんろみち/天明八申三月」上部のみが残る(写真)。

 天保3年と明治16年の道標


宝暦5年の地蔵と徳右衛門標石


天保8年の道標

国道11号バイパス沿いに二基の地蔵、一基には天保六未七月の銘(写真)。
中曽根町下秋則、・茂兵衛標石(253度目、大正3年)民家のブロック塀に挟まれる。施主に北海道函館の人の名。
その先、・茂兵衛標石(207度目、明治38年)。そのすぐ先、三基の道標が並ぶ。 ・「(手指し)右へんろ道 三角寺三十○丁/文化十四丁丑」 ・「左三角寺三十○丁」 ・「(手指し)右さんかく寺道 左はし久ら寺道/明治十五年」。
この辺りから分かれる箸蔵寺への道は三角寺に寄らず、境目から箸蔵寺に向う道ですが、近年のこの付近の区画整理により辿れなくなっているようです。
少し先、・地蔵、台座に「左三角寺江 三十五丁」の刻字(写真)。中曽根町中田井 ・「左遍んろミち 三角寺三十四丁/文化五戊辰三月吉日」(写真)。すぐ先 ・「(手指し)此方遍んろミち 三角寺三十三丁/文政八年乙酉」。・「(手指し)此方遍路道 三角寺迄三十二丁/(大師像)文化十五年戊寅(大師像写真)。 
すぐ先 ・「(大師像)此方へんろみち 是より三角寺三十一丁/寛政三辛亥」。・立派な地蔵墓、慶長七壬寅年(1602)、江戸時代に入る前の年(写真)。 


天保6年の地蔵


中曽根町上秋間の地蔵


中曽根町中田井の文化5年の道標


中曽根町中田井の文化15年の道標


慶長7年の地蔵墓

松山自動車道の下をくぐると、向いに笠を付けた道標が見えてきます。・「(大師像)(手指し)遍ん路道 是ヨリ三角寺 三十丁 奥之院八十八丁/是ヨリ前神寺九里廿丁/安政三丙辰孟秋吉良日 施主 當所観音講女連中・・」(写真)。
山麓の墓地群の一角に真念石。真念のものとしては劣化の少ない美しい石です。(写真) その先に二つの茂兵衛標石(160度目、明治31年)(151度目、明治29年)。
変電所の南に ・「(大師像)(手指し)此方へんろ道 三角寺廿二丁/元治元申了二月吉日/右石神寺九里」。 
銅山川疎水公園の前 ・「へんろみち(大師像)光明真言二百万遍為/天保十二丑年より弘化四未年迄唱・・」(7年間!)。

安政3年の道標

 真念石

山際の地蔵と墓

相当くどくなりました。この辺で止めておきましょう。
これから三角寺までは、三巡目の日記に記した通りです。ただ、私は今回どういう訳か道に迷って、鳶畑(とびはた)の集落を経由して三角寺に至る市道を歩いてしまい、遍路道は通りませんでした。
三角寺にお参りし、奥の院仙龍寺に向います。
本堂の横に徳右衛門標石「是より奥院迄五十八丁」があります。その向いの茂兵衛標石(176度目、明治33年)には「毎夜御自作厄除大師尊像乃御開帳阿り霊場巡拝の輩ハ参詣して御縁越結び現世の利益を受く遍し」と刻されています。ここが奥の院への道の出発点です。

 三角寺山門

 三角寺の茂兵衛標石

私はこの日、奥の院に参ってから江戸時代以来の遍路道を辿って平山へ、そこから旧土佐街道(土佐北街道)を探りながら川之江まで行く積り。
仙龍寺は古くは三角寺の奥の院で、八十八ヶ寺外とはいえ特別の寺であったのでしょう。江戸時代の案内書や日記でもその道中が触れられているのです。まず、真念の「道指南」を確認しましょう。
「三角寺より奥院まで五十八丁坂道、おくの院八丁前に大久保家二三軒有、荷物をきてよし、但おくの院一しゅくの時は荷物持行、奥院本尊大師御影、御自作。・・・おくの院より荷物置たる所へもどり、雲辺寺へ行。大くぼ過て一昼村(市仲)それより平山村へ出る。奥院よりこれ迄山路。」とあります。
「四国偏礼名所図会」には次の如し。
「是より奥院迄五拾八町なり、弁才社のわきより行、三十丁登る。河の上町見ゆる。大久保村家少しあり、是より仙竜寺迄八町、樹木生茂り、高山岩端けはしき所を下る。難所、筆紙に記しがたし、・・・・」 又寺よりの帰り道について。 「・・岩ニ取付八丁の間を登る。大久保村、是迄戻る、是より右へ行、山道行、半田村此所ニて支度・・」と「道指南」と同様の道筋ながら、記述は詳しい・・。
澄禅は「四国遍路日記」のなかで、奥の院から雲辺寺に向う道筋について「・・件ノ坂ヲ山ノ半腹ヨリ東ニ向キテ恐シキ山ノカケヲ往ク。所々霜消テ足ノ踏所モ無キ細道ヲ廿余町往テ、少シ平成野中ニ出ヅ。夫ヨリ阿波ト伊予トノ境ナリ・・」と記し、これと雲辺寺が「三角寺ヨリモ奥院ヨリモ五里也。」との記述から、掘切峠から尾根道を通り呉石高原を経て境目に下ったと推定される研究者がおられます。私は以前、境目峠から呉石高原へ行く道を少し歩き、上ってくる四駆の車にも出会っています。(三巡目第7回その4) 実際、昔からこの尾根道を歩いた遍路もいたようです。しかし、三角寺から雲辺寺の距離は、金川の旧道経由だと今の道で22kほど。また、奥の院から平山を経由して雲辺寺までの道は20kほど。いずれも5里と言いうる行程であって、澄禅が敢えて尾根道を通行したとする推定に疑問を持っておりました。しかし、考えなおしてみると、「少シ平成野中・・」が大窪(上記江戸期の書には大久保と記す)から28丁ほどに当る掘切峠付近とすれば、尾根道通行説も首肯できるのでは・・とも思います。
さて、今回の日記の最初に述べた決意にもかかわらず、御託の世界に入りこんだようです。いい加減にしておきましょう。
三角寺から地蔵峠に向います。
毎日この道歩いているという人に会います。80歳といいますが随分若々しい。歩きの効用でしょうか。
地蔵峠には以前の日記にも記したように、首の無い大師像、佛海の地蔵、2基の丁石地蔵が並んでいます。その向いには、奥の院での修行を案内する石碑。

 地蔵峠への道

 地蔵峠の仏海の地蔵

 地蔵峠の丁石地蔵

峠を下って桜の馬場の手前、道の整備に余念のない一人の男性に会います。以前にもこの道でお会いしたことのあるYさん(HNはHさんですが)。近く、奥の院まで歩くイベントがあるとかで、すぐ下の車道まで車で来て道の整備を行っておられる。
へんろ話に花が咲き、かなりの時間が経ったのも忘れるほどでした。馬場の桜はまだ蕾でしたが・・
桜の馬場から下るとすぐ車道に出ます。この車道は一般の地図には出ていない道で左に少し上ると行き止まり。市仲には行けません。遍路道はこの道を横切り、急坂を下って市仲へ通じている車道へ、さらに遍路道を下って不動堂へと・・ 寺からの帰りには注意が必要です。


不動堂から寺までについては、以前の日記(三巡目第7回その4)に委ねて省略します。
現状について一つ加えておきましょうか。仙龍寺の境内から新四国仏が祀られた道があり、51番石仏と「奥の院四丁 右清瀧道」の丁石で寺に向う遍路道に出会います。52番以降の石仏は遍路道に祀られています。これは清瀧新四国と呼ばれ、大正3年に開設されたものと言われます。素晴らしい石仏の姿、表情に魅せられます。ただし、新四国の往路(清瀧を通らない道)には、やや危険な個所があります。通行には要注意です。(途中に、なぜか一部で「じぇじぇじぇの道」と呼ばれる箇所あり、通らないほうがいいですね・・)

仙龍寺からの帰り道について書いておきましょう。
不動堂(この辺りが大窪と呼ばれる所)から急坂を上って市仲に通ずる車道へ。
しばらく車道を行くと道の左に上部が折れた真念石。そこを直進して、前回は通れなかった旧遍路道に入ります。最初に十五丁の丁石地蔵。十七丁・十八丁地蔵と続き、「是より奥之院江十八丁/享保十四年酉正月」(1729)と刻された道標。この先でも丁石2基を見ました。
大嶽神社の鳥居を過ぎると、道は細く山道となります。しかし、荒れた道ではありません。汚れてはいますが「へんろ道」札が立っているのを見ました。昔からの遍路道は立派に守られているのです。


市仲の真念石と遍路道の入口

 17丁地蔵

 享保14年の道標

 21丁地蔵

 へんろ道

市仲から2kほどでしょうか、掘切峠の車道に出ます。遍路道は向いの山道に繋がり、すぐ峰の地蔵堂。地蔵は享和二年四月の建立。コンクリートもお堂に祀られています。


堀切峠の車道を横切る。(左から右の森の中へ)

 峰の地蔵堂

水が峰に通じる車道を越えて旧土佐街道に入ります。
合流点は「松の木の休場跡」と呼ばれる所。右に行けば土佐藩主の参勤交代での「お茶屋跡」を経て、藩主の歌碑も残る横峰峠です。
左に入った旧土佐街道は、殿様一行も通った掘割状の道ですが、今は下るに従って浮石の多い歩き難い道となります。
以前は倒れていた天保二年の立派な道標、コンクリートの台の上に立っていました。「(手指し)此方於くのいん道 此方うんへん寺道 南無阿弥陀仏 日本廻国供養/願主貞昌尼/水ヶ峰十三丁/左 土佐道 阿波道 上山道/天保二卯八月吉日」。文面からは遍路道標ではないと思えますが、上部には大師像が彫られています。
平山に近い山道の左に茂兵衛標石(131度目、明治26年)があります。平山の車道に出ます。
そこは嶋屋という宿屋があったという所。「右へんろみち」と刻された四十八丁地蔵丁石、徳右衛門標石を改刻したという茂兵衛標石、それに新しい「土佐街道」の標石が並びます。

旧土佐街道の道


旧土佐街道、天保2年の道標


旧土佐街道、茂兵衛道標


嶋屋跡、48丁地蔵

私はここから旧土佐街道を探りながらその終点、川之江まで行くつもりでした。
嶋屋跡から斜めの道を県道5号に下りるまでは良かったのですが、県道を廻って途中から金川へ下る道は見付けられませんでした。
(追記)平山の旧土佐街道分岐箇所について
その後、ある人のブログによると、この先の旧土佐街道の道は嵩上げされた新しい県道5号の下を小さいトンネルで北西に抜けているようです。反対側からならともかく、ちょっと発見できない道です。添付の地図にはその先の道を青破線で示しています。(この道は金川を経る旧遍路道の一部でもあります。)
なお、この分岐から県道5号を西へ400mほど行ったところ(西方バス停前)にある道標「箸蔵寺へ七里 雲辺寺へ五里/奥の院五十八丁 大正四年」。ここから北西へ下る道があり東金川の茂兵衛道標「(手印)三角寺(手印)雲遍寺/(手印)奥の院」(165度目、明治31年)の地点に通じています。また大正四年の道標の奥の院の手指しは南の森中の急坂を指しています。(道筋は堀切峠まで通じていたようです。)この道、旧土佐街道の枝道かと疑いますが、「愛媛の記憶」によると明治時代に楮(こうぞ)、三椏(みつまた)などを運搬する道として開かれた道で遍路の利用もあったようですが、その後大部分は廃道化したということのよう・・ 道標だけは空しく残っています。(添付地図に道筋、道標の位置を示しています。)



菜の花畑で遊ぶ遍路

菜の花畑で遊び、結局東金川の三角寺からの旧遍路道の近くを通り、家から声が掛り大きなみかんを二つももらって、川之江への道を聞いて歩いただけでした。
新しい道が土佐北街道という名で呼ばれています。そのことに関係してかどうか、旧土佐街道の道はいたるところで寸断され、その面影は失われつつあるようです。
明治以降の新道開設は旧道を保存する形で進められてきたが、最近のそれは旧道を完全に消し去る方向で進めらている・・そんな気がします。
川之江の市街に入ると、旧土佐街道の道筋は比較的明確となりますが、私はそれを辿る気力を失っていました。今晩は川之江の街で泊ります。

地図を貼っておきます。  仙龍寺往還道

                                                (3月29日)


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