ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

桜の宇部護国神社

2018年03月30日 | 俳句

 昨日の吟行会の続き…

 宇部護国神社の桜はほぼ満開でした。この日は金曜日でしたので、でも花見に来ている人もちらほら…ああ、そうです。保育園児たちが保母さんに…いや、保父さんもいましたね、散歩に来ていました。

 次に「宇部護国神社」のホームページがありましたので、転載しますね。

 「宇部護国神社」といえば市内では桜の名所として有名で、四月には境内全域は桜花一彩に映え、ボンボリもさげられ、多くの花見客に 親しまれております。主祭神は、福原越後公で、創祀・創建は、慶応元年(1865年)5月16日、越後公の招魂祭を、琴崎八幡宮で斎行したのが創祀で宇部護国神社の原点です。翌慶応二年(1866年)11月19日に崩し山、現在の維新山に社殿を建立落成し、翌慶応三年(1867年)12月5日遷座祭を斎行し現在に至ります。ご祭神は福原越後公を主祭神とし、その家臣、また、日清日露、大東亜戦争で国のために散華されたご英霊です。主祭神の越後公は、第一次長州征伐回避の為、禁門の変の責任をとらされ切腹された長州藩三家老の一人で、この長州三家老の切腹により、長州藩が存続し、高杉晋作の功山寺での挙兵、それから、倒幕へと時代は流れ明治の代になったのです。もし、長州征伐が回避されていなかったら、高杉晋作の挙兵もなく明治維新もなく時代は大きく変わっていて、今の時代はないでしょう。
 神社の紋には、福原家の家紋の「かたばみ」が用いられました。初めは、崩山の地名から「崩し招魂社」通称「御霊社」とも云われていましたが、後、維新招魂社と称されるようになりました。、山続きの西端には福原翁の墓所宗隣寺があり、中尾には維新館もあって明治維新とは縁の深 い土地柄であります。また弾にも縁深く現在は『願掛け弾』や『願い玉』が有名で、願掛けや願成就のパワースポットとなっております。また、龍にも縁があり、越後公が切腹されたお寺が、岩国の龍護寺というお寺で、現在は、日本唯一人の指絵画家濱田珠鳳先生作の『昇運龍神之図』二曲一隻屏風が奉納され、参拝者に昇運をもたらすと喜ばれております。

 ここには水琴窟があり、大きな筆塚もあります。また人形供養でも有名なので人形塚がありました。桜を堪能して、また畦道を歩いて宗隣寺まで戻り、そこから車でいつもの句会場に行って句会をしました。

 この教室は4月に開講したばかりで、一年の区切りとしての初めての吟行でした。それで、ちょっと無理かなと思って、投句は5句までだが、出来ない人は最低3句は出すようにと告げていました。それなのに、蓋を開けてみるとナント52句あったんですよ。ほとんどの人が5句出していたということです。最初は5句と言ったときは、エエッ!無理、無理と言っていたんですが、みんなやれば出来るんですね。嬉しいこと!

 それでは、皆さんの吟行句を一句ずつお見せしましょう。多少の手直しはしましたが、いかがです?初心者らしくとても素直な句が多いでしょう。そう、これでいいんですよ。ハイ!

 〈花の道一句浮かびて立ち止まり〉〈幾年を越えて古刹の桜かな〉〈名刹の往時を留め桜花〉〈蒲公英の絮を吹きつつ行きにけり〉〈本堂の甍を凌ぐ桜かな〉〈吟行に合せしやうに桜咲く〉〈一尺に足らぬ地蔵や花の下〉〈石段をのぼり水飲む朝桜〉〈園児らのオレンジ帽や花の門〉〈園児らと桜の下のハイタッチ

 

 

 

 

 

 

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