ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

〝きらら俳句教室〟第2回目を忘れていました!

2023年06月30日 | 俳句

 とうとう今日で6月が終ります。これで半年が終ったということですよね。あの歌の文句じゃないですが〝後の半年ゃ…〟どうして暮らしましょう!また何もしないままあっと言う間に過ぎていくんじゃないかしら。ああ、時の流れがコワイ!

 さて、せっかく立てたブログの目標も果たせないまま7月を迎えますが、今度は何とかしてガンバリマスから許して下さいね。それでは今日は抜けていた前回の〝きらら俳句教室〟第2回目の報告をして6月を締めくくることにしましょうか。

 5月20日の土曜日、いつものように9時30分から開始。この日は9名の参加で、雨は降らないもののどんよりとした蒸し暑い日でした。外に出てみると、下の写真のようにビジターセンターの入口付近に燕の巣がありました。しかし、この1ヶ月の間に卵や雛がカラスなどに狙われて、今年は一羽も巣立っていないんだそうです。カワイソウ!そういえば去年繁殖して巣立っていったトイレの巣も見に行きましたら、やはり壊されていました。自然界もこのところ住みにくくなって子育てするのも大変なんですね。でも、どんなに大変でも鳥たちや他の動物たちは産んでから我子を殺すようなことはしないでしょう…ということは人間が一番コワイということですよね。

 それでは、第2回目の〝きらら俳句教室〟のときに撮った写真を載せて報告とします。この日も〝梅雨晴間〟のようでしたが、ちょっと雲が多かったようですね。ビオトープの方へ歩いて行っても格別に目新しい物はなかったのですが、この時期は葭切が蘆原を貸しきったかのように…とにかくうるさいほど鳴いていました。

 花では車輪梅(しゃりんばい)と海桐(とべら)が今を見ごろの真っ盛り。アッ、この可愛らしいのはバーベナ。どこかから飛んできたんでしょうか。一つだけ咲いて目立っていました。次の2枚はイタチハギですが、花が咲いているのは初めて見ました。ちょっとボケてますが…ゴメンナサイ!

 以上、簡単に…というより詳しく覚えていないんですよ。やっぱりすぐに書かないとダメですね。7月からはちゃんとしますから…エッ、当てにならないって…はあ確かに!では、また…オヤスミナサイ!

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令和5年度の〝きらら俳句教室〟第3回目が終りました!

2023年06月25日 | 俳句

 今日は6月最後の日曜日。天気は余りよくなく、最高気温26度、曇り後雨の予報です。

 実は先週の〝父の日〟の食事会を今日に延ばしていましたので、夕食はみんなでレストランへ。もちろんメニューは鰻…でも、去年ここで食べた鰻定食は食べきれないほどでしたので、今回は全員が鰻重でした。でも、お婆ちゃんの体調がまだイマイチで…。このところ目に見えて弱ってきているのがとても心配です。立ち上がったり座ったりが大変だし、歩くのもやっと。しかし、まだどうにか動けるのが救いです。だってトイレや入浴などは一人でできますもの。考えてみればこれはお婆ちゃんにとっても私たちにとっても本当にアリガタイこと。心から感謝しなくてはいけませんね。写真はその鰻重です。お吸い物はここの名物、貝汁でした。

 ところで、17日の土曜日には恒例の〝きらら俳句教室〟第3回目があったんですが、忙しくって報告しないままでした。でも写真が残っていますので、今日はそれをUpしますね。

 この日はまさに〝梅雨晴間〟という日でした。嬉しいことに新しい方が2名も参加されて、でも欠席が1人おられましたので総計11人。いつも通り9時30分からの開始。レンジャーのTさんより、今日は公園で葦の会のイベントとして〝外来魚の駆除〟が開催されているという説明がありました。センターの入口に雷魚が水槽に入れてあって…こういうのが繁殖して蘆原の生きものたちが絶滅しかねないので、駆除のための釣りが行われるんですって。それで朝から釣竿を持った人たちにたくさん出会ったんですね。しかし、それも滅多にない句材ですから、私たちにとってはアリガタイコト!

 その証拠に今回の最高点が〈釣糸をたれる親子や風薫る〉という句。ナントこの日が初参加の人の句でした。また、もう1人の初参加の人は1句以上できたからと言って3句も投句。最初からやる気満々です。頼もしい!

 この日は吟行へ出掛ける前に季語の語感について少し話をしました。この日のような〝梅雨晴間〟という季語にしても〝五月晴(さつきばれ)〟や〝梅雨晴(つゆばれ)〟というのでは、意味は同じでも語の感じは大いに違います。例えば次の3句…

  病者睡て足裏くろし梅雨晴間     石田波郷

  一病を何処かに忘れ五月晴      小島左京

  昇天す長病み果てし梅雨晴れに    渡辺恭子

 これを見ても分かるように、やはり波郷の句はいくら晴れていたとしても、なんだか暗くて重いでしょう。それに比べ左京の〝五月晴〟のなんと明るいこと。また、最後の句も長病みの果てに亡くなったことを詠んでいるのにさっぱりとしてちっともジメジメしていませんね。もっと細かく説明しょうと思えばでいくらでもできますが、それよりこれらを何度も読み比べてみて下さい。また、それぞれ季語を入れ替えてみましょう。そうすれば、私の言う〝語感〟というものの違いがお分かりになるはずですが…いかがでしょう。

 さて、時間が来て外へ出て見ましたが…、先月と余り変らず、鳥なら〝葭切〟や〝夏鶯〟ぐらいだったかな。湖の波打ち際に行くともう〝飛鯊(とびはぜ)〟が…でもこれは秋の季語ですからね。蘆原は〝青蘆原〟で夏ですよなどと、季語の話をしながら…

 アッ、赤手蟹がいました!〝蟹〟が夏の季語で、山や川や磯などにいる小蟹の総称。〝松葉蟹(ずわい蟹とも)〟〝鱈場蟹〟などの大型蟹は冬の季語。ただし、大型でも〝わたり蟹(がざみとも)〟は夏が旬なので夏の季語なんですよ。今回の最高点句には〈ひとときを蟹とたはむれ句を詠みぬ〉というのも。

 他に…植物では〝楊桃(やまもも)〟があちらこちらにたわわに実っていましたから句会にも3句ほど出ていました。が、残念ながら写真はなしです。他にビオトープの方へ行ったら〝睡蓮〟。帰り道にはもう萩が咲いていて…これも〝夏萩〟として詠みましょう。とにかくなんにしても時期が早いですね。

 ところで、この〝きらら俳句教室〟は第3回目ですが、前回の第2回目はどうしたんでしょう。確かに実施しましたが、ではそれを書いたかしら?と調べると…あら、書いていませんでした。ナント言うこと!でも、また今回も長くなりましたので、それは次回に回しますね。では、オヤスミナサイ!

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殿居の河田家と田耕(たすき)のあじさい苑

2023年06月21日 | 俳句

 今日は朝から予報通りの雨が一日中降っていました。先日の暑かった時、昼出掛けようとして車に乗るとナント39度…ウワア、ハンドルが熱くて持てませんでしたが、今日は最高でも26度。このごろの気温差に体の調節が利かずお婆ちゃんの具合が悪くなるのも頷けます。私だってこのところ疲れやすくて参っていますもの。

 昨日は美容院へ行って、髪をバッサリと切ってもらいました。梅雨の時期私の髪は湿気を帯びるとバクハツして手入れのしようが無いので、外出するときは帽子でごまかしてるんですよ。だから後の方もしっかりと刈り上げてもらって…まるで男のような髪型に。(笑) まあ夏の間はしばらはこれでいくつもりですが…。

 ところで、今日は〝夏至〟。二十四節気の一つで、一年中で最も昼の時間が長く夜が短い日なんです。

  山の木の葉音さやかや夏至の雨  鷲谷七菜子

 そういえば夏至の日は雨の降ることが多いんですって。調べてみた人の話では、雨の日が半分ぐらいで晴れの確率は4分の1だったそうですよ。まあ、まだ梅雨の時期ですし、日本は長い国だから北と南では随分違うかも知れませんけどね。

  さて、先日の吟行会の後半がそのままでしたので、このあたりで締めくくりましょうか。

 前回は、 山口県ののんびりとした農村部に残る擬洋風建築の郵便局舎、「旧殿居郵便局」をご紹介しましたが、その昔の郵便局というのは、政府が地元の名士(かつての庄屋や名主など)から自分たちの土地と建物の一部を無償で提供してもらってできたものだということですので、この郵便局もそうだったのでしょう。だから、その局舎の隣や後には嘗て酒造業を営んでいたという立派な漆喰の蔵や家屋敷などがありました。名も〝河田酒造〟だったと。この地続きには今も子孫の方が新しい家を建てて住んでおられるようでしたから、この辺り一体が河田家のものだということなんですね。

 最後に行った豊北町田耕(たすき)の「あじさい苑」は、個人の方のもの。要するに、〝知る人ぞ知る〟というところでした。

 聞くところによると、初めは日照不足の改善のために山の斜面を伐採し、そこに数株の紫陽花を植えられたんだそうです。それが年々増えていき、今では約400株、30種類以上の紫陽花になり、それが斜面一杯に咲くようになったと。また最近では見に来られた方からいただいた花も植えられていて、将来的には紫陽花以外の季節でも楽しめるようなものになればいいなとも。
 勿論無料で開放されていますが、これほどの敷地の管理をほぼ一人でされているということを聞き、ビックリしました。どのくらいの年月が掛かったのかをお聞きしましたら、10年以上だと。やっぱり何事も〝継続は力なり〟ですね。

 この辺りにはこの一軒しかなくて、…でも周辺を燕がたくさん飛び交っていましたので聞いてみますと、巣が10個以上もあり、全く手に負えず困っていると。でもきっといいことがありますよと私が言ったら、もう諦めてるけどねと笑っておられました。

 この後、昼食。こんな田舎にハンバーグの美味しい店があるといって案内してもらった店の名が〝あさかぜ〟。その時はナントも思わなかったのですが、話を聞けば、オーナーはかつての寝台特急〝あさかぜ〟の食堂車でシェフをしていたんですって。ナルホド…納得!お店にそのブルートレイン〝あさかぜ〟の写真がたくさん飾ってありました。勿論とっても美味しかったですよ。アッ、また写真撮るのを忘れました。ゴメンナサイ!

 このあと殿居公民館の部屋をお借りして、いつものごとく句会。4時半には終って宇部に戻ったのが5時半でした。皆さまお疲れ様でした。

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昨日は〝父の日〟でしたね!

2023年06月19日 | 俳句

 昨日は6月の第3日曜日…そう〝父の日〟でした。それで前日土曜日の句会に〈父の日を知らぬ父なり薔薇生くる〉という句が出ていましたね。

 〝父の日〟は、家族を支えてくれるお父さんに日ごろの感謝を伝える大切な日です。〝母の日〟に比べると何となく影の薄い日ですが、その発祥は、1910年アメリカJ・Bドット夫人の提唱によって設けられたんです。しかし、この父の日の式典が一般に浸透するまでには、実に6年もの年月がかかったといわれています。そしてついに1972年、父の日が6月第3日曜日にある国の記念日として、アメリカで正式に制定されたのでした。

 日本に父の日が導入され始めたのは1950年代頃。当時はまだまだ認知度が低く、現在のような一般的行事として広まったのは1980年代に入ってからだといわれています。デパートなどの商業施設が販売戦略の一環として父の日を取り上げたことや、有名人の中から「素敵なお父さん」を選ぶベスト・ファーザー賞が始まったことから一般にも広く浸透していったのだと。

 また、母の日にはカーネーションというのが定番ですが、父の日にも定番の花があるんですよ。それは薔薇(ばら)。母の日と同じように健在であれば赤い薔薇、亡くなっていれば白い薔薇です。ならば上掲句の薔薇はきっと白でしょうね。

 我家ではいつも父の日は外食をして主人への慰労をするのですが、今回はお婆ちゃんの体調がイマイチで、食欲もないと。それで、食事会は延期しましたが、娘と息子からのビールとケーキのプレゼントで何とか…。

 ところで、考えてみれば私は母の句はよく詠んでいますが、父を詠んだ句はほんとに少ないんですね。試しに第2句集『甘雨』の中から探してみましたら…以下の4句が見つかりました。

  硯洗ふ父の胆気を指先に    平成21年

  気短の父へ走り茶供へけり   平成24年

  落葉焚く淋しがり屋も父に似て 平成24年

  七癖の六つまで父似豆の飯   平成25年

 みるとお分かりのように、「胆気」「気短」「淋しがり屋」の父…そして、七癖のうち六つまで私が似ていると。確かに体形から顔、性格まで一番よく似ているのが私だとよく言われていました。でも、子供の頃は父がコワかったですね。要するに昔の〝地震雷火事親父〟時代のそのままの人でしたもの。

 今思えば、叱られたことはあっても誉められたこと無かったかな…いや、そういえば最後の頃、私が俳句を始めて句や名前が出ている本を見せると、口では何も言わないけれどとっても嬉しそうに見ていたから、あの世でもきっと悦んでくれていることでしょう、ねえ、お父さん!みんなお父さんのお陰です。感謝していますよ。

 写真は、先日の旧殿居郵便局舎に飾ってあった福沢諭吉翁の心訓です。

  心訓  福沢諭吉翁

 一、世の中で一番楽しく立派な事は一生涯を貫く仕事を持つと云う事です
 一、世の中で一番みじめな事は人間として教養のない事です
 一、世の中で一番さびしい事はする仕事のない事です
 一、世の中で一番みにくい事は他人の生活をうらやむ事です
 一、世の中で一番尊い事は人の為に奉仕し決して恩にきせない事です
 一、世の中で一番美しい事はすべての物に愛情をもつ事です
 一、世の中で一番悲しい事はうそをつく事です    

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久し振りの広島・平和公園へ!

2023年06月17日 | 俳句

 先日の日曜日、久し振りに広島の平和公園へ行きました。「早苗」の吟行会へ宇部から4人で参加。いよいよ月刊俳誌「早苗」が今年の12月号を以て終刊となりますので、本当に最後の吟行会なんです。

 本来なら1年交互に開催していた一泊鍛錬会や日帰り吟行会、それが新型コロナ禍のために計画だけで3年間中止となっていました。ご多分に漏れず我が結社もこのところの高齢化の波は防ぎようもなく、また新規加入者も望めない。そんな状況下現在の会員数では発行に関する諸費用が全く賄いきれず、何とか維持できた今までの基金もとうとう底をつく状態になり、この12月号が通刊900号になるということで、何度も話し合った上涙を飲んで終刊の決定をしました。

 その状況説明と会員の承認を貰うための総会が主目的での吟行会でした。嘗ては50名を上回るような一泊鍛錬会や大型バスを貸切っての日帰り吟行会を実施して来ましたが、今回はそういう状況だというのに30人を切る有様で…時の流れにはやっぱり逆らえませんね。

 私が「早苗」に入会したのが1987年、早35年余りが過ぎました。そもそも私の俳句人生の出発点は「早苗」。それなのにその最後を見届けなければならないというのは、今までひたすら成長を願って手助けしてきた者としては断腸の思いがあります。しかし、これも時代の成せるわざならば悔しいけど抗いようがありません。

 さて、当日は新山口から新幹線で広島へ9時半過ぎに到着。平和公園周辺の自由吟行でしたので、早速原爆ドーム前まで路面電車で…これに乗るのも久し振りです。電停に着くと、嘗て広島市民球場だった跡地が今は「ひろしまゲートパーク」になっていましたので、先ずはそちらの方へ。

 特に今日はフラワーフェスティバルが開催中でしたので、なんとも賑やか。私たちは余り時間がなかったので、その後原爆ドームから平和公園の中を散策です。

 上の写真は、原爆投下の目印となった「相生橋」です。全国でも珍しいユニークなT字型で、現在、橋詰めには被爆の痕跡を残す親柱が保存されています。また、爆風のため変形した橋げたの一部は、広島平和記念資料館に展示されているとか。

 大体が見たことのある風景で目新しいのはなかったし、12時半が投句締切りで、会場は鷹野橋の「ゆいぽーと」。そこまで行くのと昼食の時間を考えるとゆっくりとはできないので、句材としての「学徒動員碑」や「原爆の子」の像、「被爆梧桐」などを見て回りました。

 「学徒動員碑」は、平和の女神像と8羽のハトを配した高さ12mの有田焼の陶板仕上げで、末広がりの5層の塔の中心柱に慰霊の灯明がついています。塔の左右にある4枚のレリーフは「食糧増産作業」「女子生徒の縫製作業」「工場内での鉄工作業」「広島の灯ろう流し」を表し、その裏に全国戦没学徒出身校351校の校名と動員学徒悼歌“ほのお果てては”が記されていました。

 千羽鶴の「原爆の子」の像は、三脚のドーム型の台座の頂上には平和な未来への夢を託した金色の折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、左右には明るい未来と希望を象徴した少年少女の像があります。碑文は「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」というのが記されています。

 塔の内部には、子どもたちの気持ちに感動したノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士の筆による「千羽鶴」「地に空に平和」の文字が彫られた銅鐸を模した鐘、その下に金色の鶴がつるされ、風鈴式に音が出るようになっています。

 広島平和公園のシンボル的な「慰霊碑」。世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願して設立されたものです。屋根の部分は、はにわの家型(犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちからこの型にしたもの)碑文は「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と。(揮毫は雑賀(さいか)忠義(ただよし)氏)

 拝礼をしていると、一緒に行ったSさんが〝これを揮毫したのは僕の大学時代の恩師なんだよ〟と聞き、ヘエッとビックリ!知りませんでした。

 最後は「被爆梧桐」。これは爆心地から約1.3km離れた、中区東白島町の広島逓信局の庁舎(現在の日本郵政グループ広島ビル。以前の中国郵政局)の中庭に1933年(昭和8)4月に植えられた4本のアオギリ。それが爆心地方向にさえぎるものがなかったため、熱線と爆風をまともに受け、そのため枝葉はすべてなくなり、幹は爆心側の半分が焼けました。しかし、4本のうちの3本が残りました。

 この枯れ木同然だったアオギリは、翌年の春になって芽吹き、被爆と敗戦の混乱の中で虚脱状態にあった人々に生きる勇気を与えたのです。それが中国郵政局の建替えに伴い、1973年(昭和48)5月、現在の場所へ移植され、原爆の被害を無言のうちに語り続けています。移植された3本のうち、1本は枯れてしまいましたが、その後、二世と確認できる苗木が発見され、現在は3本になっています。

 以上、駆け足で平和公園を紹介しましたが、この日も梅雨の曇天の中、多数の外国からの訪問客や修学旅行生で賑わっていました。そんな喧噪の中を歩いていると、これはどこかがおかしいようなと、その情景の中に何となく違和感を感じたのは私だけだったのでしょうか。

 では、また…でも、このブログのUpいつになることやら…ゴメンナサイ!  

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6月の吟行会はどこでしょう?

2023年06月08日 | 俳句

 見ればもう今日は6月8日…前に書いたのが先月末でしたから、この一週間私は一体何をしていたんでしょう。我ながら…不思議。時の流れが、まるで目の前を通り過ぎていく超特急…いやもっと速いジェット機かしら?イヤになっちゃう!

 でも今週の月曜日・火曜日は連続での俳句教室、昨日の水曜日は月例の吟行会。週末も土曜日は昼夜のダブル句会で日曜日は「早苗」の吟行会で広島へ…というように毎日が俳句漬けなんですよ。では月初めの1日~4日までは何をしていたんでしょう。きっとそれなりに忙しかったと思うのですが、その記憶が殆どない…わあ、そろそろ呆けてきたんですかね。コワイ!

 私にとっては、月末の原稿や投句などの締切りを何とかクリアーした後の月初めというのは一番ホッとするときで、大好きな時間なんですよ。だから俳句からしばらく解放されてのんびり好きなことをしていたい…そんな気分で過ごしているとあっと言う間なんですね。気がつくとまた追いまくられるハメになるのですが、私の人生はいつもこれの繰り返しかな。

 さてそれでは、6月の吟行会の報告ですが、昨日はまさに〝梅雨晴間〟でした。このところ雨は降らずとも曇りの日が続き、前日は1日中ザーザーと雨が降って寒いぐらい。また今日も1日雨でしたのに、この日だけはなんと晴天、気温もかなり上がっていました。この頃の気温差の激しさからでしょうか、日頃になく疲れましたが、やっぱり先生は〝晴女〟ですねなどと言われると…ウッフッフ!

  しつかりと降りしつかりと梅雨晴間  後藤夜半

 まさにこの句の通り。そして、いつものごとく句友が集まり…今回の参加は7名でした。 

  梅雨晴間心一つに集ひ来し      稲畑廣太郎

 ところで、この度の吟行地はちょっと遠方でしたが、初めて行くところなので興味津々。宇部からは約1時間ほどかかる下関市豊田町の「一の俣桜公園」と「旧殿居郵便局舎」、それに加えて個人の方が開かれているという豊北町の「あじさい苑」の三個所。その後食事して殿居公民館での句会でした。

 先ず「一の俣桜公園」は、ただ桜があるというだけでなく、水没林が水面から顔を出す少し神秘的な景観が特徴の公園。また、寒い時期の早朝には霧がかかることもあるため、さらに神秘的になるとか。そういえば〝運が良ければ鯉が泳ぐ姿を観ることもできます〟などとパンフレットに書いてありましたが、私たちが行った時は、まあ、たくさんの鯉が次々と群れてきて…運が良いもなにもありませんでしたよ。見れば、離れたところに無人販売の〝鯉の餌〟がありましたから、鯉たちも人が来ると餌を貰えると思って寄ってくるんでしょう。でも、確かにこの景色は美しく魅力的。これどこかで見たような…ああ、あの上高地の景色に似ていますね。なかなかいい風情でした。

 また、みどり一杯の中での風も気持ちが良くて…これぞまさしく季語「風青し」そのものを実感!まるで下の句のよう…

  風青し鰓から肺へ呼吸替へ      南うみを

 次に行った「旧殿居郵便局舎」は、明治35年に開局されたのですが、局舎が狭いので、ときの局長河田寛氏が大正10年頃より洋風建築とする意向をもち、地元の大工棟梁山本安一氏を同道して上京し、洋風建築を見学して回りました。その後、意匠を決定して同大工に建築を依頼し建設させたもので、大正12年3月に完成。

 昭和43年頃、主屋入口部分、並びに北東面裏側の部分が増改築されましたが、小規模の改築であり、現在に至るも原型を良く保存しています。木造平屋建、八角塔屋二階建付きで、外観・構造とも無理なくまとめられ、中国山地の赤い屋根瓦(石州瓦)と田んぼが広がる土地に、淡いミント色のレトロな姿はのどかな風景にとても似合っているように見えます。今は山口県指定有形文化財に指定されています。

 平成22年(2008)、老朽化と台風被害で一部破損したため大規模改修の必要に迫られた元局長・河田麟氏が文化財保護課の支援を受けて、改修工事に着手し、その工事の時に旧局舎の先塔部分から発見された建築当時の棟札です。

 また、河田氏らが上京したのは、関東大震災(大正12年)前でしたので、その頃の東京駅やニコライ堂などの八角塔屋造りを見て参考にしたのでは?とはパンフレットの制作者の弁。そういえば確かに似ていますね。これは局舎を反対側から撮った写真。その下が、東京駅丸の内駅舎の南ドームと関東大震災前のニコライ堂。写真はお借りしました。スミマセン!

東京駅丸の内駅舎

  まだまだ興味深いことがたくさん有りますので、この続きはまた次に…ね。  

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