ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

第28回俳人協会山口県支部の俳句大会でした!

2024年09月24日 | 俳句

 先日の大雨以後急に涼しい風が吹くようになって、今日の最高気温は28度。日中はまだまだ暑いのですが、30度を切る日が多くなりましたね。空を見上げるとまさしく秋の雲です。今朝はラジオ体操から帰る途中にやっと赤い彼岸花を見つけました。白や黄色は彼岸前から我家にも咲いていましたが、赤いのがどこにも見当らなかったんですよ。でもやはり例年よりは1週間ぐらい遅いような…。今までにない今年の酷暑といつまでも続いた残暑でいろんなものの歯車が狂ってしまったんではないでしょうか。

 

 ところで、一昨日の22日に「第28回俳人協会山口県支部俳句大会」が防府市で開催されましたので、今日はその報告をしましょう。

 私が宇部・山陽小野田地区の受付を担当していますので、9時までには着くように仲間たちと会場へ行きました。でも何だかいつもと違って様子がヘン!いやにガラ~ンとしているんです。一応準備のためにそれぞれの地区の役員はみんな来ているようですが、例年に比べると人数が少ない…よく見ると役員ばかりでお手伝いをしてくれるはずの一般の人たちが誰もいないんですよね。

 どうしたのかと聞いてみると、前日からの大雨のため早朝から山陽本線が上下線ともにストップしているんだとか。それで汽車で来る人たちが駅に待たされて動きがとれなくなっているんだそうです。私たちは車で来たのでそんなこととはつゆ知らず、ビックリ!です。復旧もいつ頃になるのかまだ見通しが立っていないようすで…でも、これって二次災害を出さないためにはどうしようもないことでしょうしね。それよりもこの度の大雨の被害では、またまた能登半島が大きくて、あの正月の地震からまだ完全に復旧していないというのにお気の毒で…何とお見舞い申し上げていいのか言葉が見つかりません。どうかもうこれ以上…能登に限らずどこであっても大きな天災が起こりませんようにと、私は祈ることしかできません。しかし、この異常気象はどこまで進むのでしょうか。あれこれ考えると怖ろしくなってしまいます。

 さてこの俳句大会は、防府駅の傍の「ルルサス防府」で、定刻の13時から開始されました。講演は、俳誌「若竹」主宰・加古宗谷先生の「俳人 村上鬼城」でした。先生は〝実は山口県に是非来たかったんですよ〟という話から始められ、その理由が山頭火が好きでその故里だからだと。それで講演の半分はその山頭火とそれを調べて書物に著わされた村上護氏のことでした。時間が少なくなってきて慌ててテーマの「境涯俳句の系譜 鬼城と木歩」についての話題になりましたが、これも話があちらこちらに飛んでやはり1時間では足りなかったようです。先生はもっともっと話されたかったんだろうなと思ったのですが…また、私たちも興味深い話が多くてもっといろいろ聞きたかったんですが、後の予定が詰っていましたので…残念至極!

 その講演が終った後、応募句と席題句の表彰、続いて事務局長・支部長・加古宗也先生のそれぞれの選評があって、予定通り15時半に無事閉会でした。皆さま大変お疲れ様でした。

 ちなみに今年度の受賞作は、以下の3句と優秀賞7句、秀逸賞13句でした。また、当日の席題は「法師蟬」で、加古宗也先生の特選3句と優秀賞10句が表彰されました。

  山口県知事賞 水鉄砲の水に撃たれてより元気  光市 竹本チヱ子

  朝日新聞社賞 離任式待つ間あかるし花ミモザ  山口市 杉山久子

  俳協県支部長賞 堰板に水豊かなる芒種かな   四万十市 中平キリン

 席題の部・加古宗也先生の特選3句は以下です。

  子らは皆遠くに在りてつくつくし     熊本 綵乃

  法師蟬朱文字のままの墓仕舞ひ      木村たけま

  木洩れ日は山のオアシス法師蟬      阿部 明美   

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やっと月例の吟行会を開催しました!

2024年09月13日 | 俳句

 今日はもう9月13日ですが、今年の「二百二十日」は10日でした。早稲(わせ)の花が咲く頃の「二百十日」と同じように、中稲(なかて)の開花時期に当るからなんです。晩稲(おくて)の花の頃は「二百三十日」と。どれも大風が吹きやすい日なので、どの日であっても農家の人たちは「厄日(やくび)」として恐れ警戒したのです。

  八方に二百二十日の湖(うみ)荒るる  稲荷島人

  降り出して厄日の雨の荒れやうに    稲畑汀子

 そういえば、毎朝行くラジオ体操でのこと。主人はまだ肋骨の痛みがとれないので、いつも私一人で行ってます。それがこの10日に狭い裏道を歩いていて…あっ、ああっ…と、自分でもビックリするぐらい大げさに転んでしまいました。転ぶ瞬間、これはヤバイ!と必死で踏ん張ったのですが、体を支えきれず地面へどどどどっとスライディング(笑)…ちょっと坂になっていましたので。でも、胸を打ったら私も肋骨が…と思って手足でがむしゃらに止めました。それで今日が三日目ですのでとても痛いんですが、骨には異常がなさそう…安心しました。いくら〝気を付ける〟と頭では思っていても、一瞬の油断に体は言うことを聞いてはくれませんから、危ない、危ない…。 まあ、これも一種の厄日だったからと考えて、我家の厄災がこれで逃げてくれると有り難いんですけどね。

 さて、今日は9月6日の金曜日のことを書きましょう。先月コロナのため中止していた月例吟行会を実施したんです。もう9月だから先月よりは少しマシだろうと思ったら、何のことはありません。相変わらずの猛暑で、最高気温は35度。でもそんなことは言っておられませんから、いざ決行です。

 今回の吟行地は、山陽小野田市の洞玄寺と松嶽山(まつたけさん)の正法寺。

 洞玄寺は、毛利元就の五男元秋を祖とする厚狭毛利家の墓所があり、山陽小野田市の文化財に指定されています。厚狭毛利家の菩提寺として二代元康以降のお墓があり、三代元宣が元康の法号から洞玄寺と命名しました。明治2年、洞玄寺の住職が奇兵隊の脱退に加担したことで廃寺となりましたが、正福寺と一度名前を変えた後、昭和44年に洞玄寺に戻りました。昭和46年に納骨堂を建設する際、地中から西暦600年前後の須恵器が数多く出土したそうです。

 境内に入って山門のすぐ傍に、歌人・今川了俊(貞世)の詠んだ〈雨にきる 我身の代に かへななむ ころもをるてふ あさの里人〉という歌碑がありました。室町幕府から九州探題として太宰府に派遣される道中の旅行記の「道ゆきぶり」に、〈建徳2年(1371)10月8日、当寺に一泊して〉詠んだと記載されていて、厚狭の地名を詠込んだ最古の歌ということです。

 やはり厚狭毛利家の菩提寺らしく至るところに、その家紋の「一文字に三つ星」や「立ち沢瀉(おもだか)」が残されていました。

 毛利家墓所には、二代元康以降十三代四一に至る歴代当主及び一門43基の墓碑が建立されています。この暑さのなかでもここは、やはり森閑として山からの気がひんやりと感じられましたね。あら、二枚目の写真がボケいます。ゴメンナサイ!

 次は、洞玄寺からくねくねとした狭い山道へ入って、それを奥へ奥へと…エエッ、こんな所に寺なんかがあるの?というような何もない道を約5㎞ほど走る。するとやっとそれらしき入口と看板があり、ホッとしました。

 そこからもう少し上に駐車場があるというので、そこへ着いて今度は歩いて行くと…大きな犬の声が…ナント吠えること、吠えること。そりゃ見たこともない怪しげな男女が7人もゾロゾロとやって来るんですものね。境内に上がっても吠えるの止めなかったんですが、見れば吠えながら尻尾を振ってました。ということは歓迎してくれてたんですね。分からないものだからみんな怖れて避けていたんですけど、そろそろと近づいて撫でてあげると喜んで…。

 余りにも声が大きいし威勢がいいので、てっきり雄と思ったら…名前は〝花ちゃん〟ですって!では記念写真を…はい、ポーズ!あら、どうしたの?あまりにも吠えたから照れてるのかしら。(笑)

 この正法寺は、山頂からは九州の山々、眼下には関門橋が望見できて、ハイキングやキャンプに好適といわれる松嶽山(標高324m)の8合目にあります。藤原氏全盛期の建立で、灯籠、丁塚、お大師様を配した狭い道を進んだ先にあるお寺です。今から約1000年前に花山法皇により開創されたと。その花山法皇が自ら彫ったとされる十一面観音が本殿に祀られているそうです。境内には願掛け不動明王や交通安全の菩薩、水子地蔵の石像があり、ほかに南北朝時代、厚東氏17代の武貞が九州の菊池氏を討つために戦勝祈願をした際に寄進したと伝えられる鐘楼があって、山口県の重要文化財に指定されています。

 写真は、願掛け不動明王。下のは〝ボタンヅル〟の花…だと思うのですが?

 とにかく暑いながらも今月の吟行会を無事に終えて、昼食後いつもの会場へ戻り17時までみっちり勉強しました。では、これでオシマイ!皆さまお疲れ様でした。私も久し振りでとても疲れましたが、楽しかったです。やっぱり俳句は吟行しなくっちゃね…部屋の中ばかりでは類想句の山ですもの。

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露の世は露の世ながらさりながら…

2024年09月09日 | 俳句

 今日は9月9日。陰暦では五節句の一つ「重陽」といって、陽の数である九が重なることから目出度いとして祝われます。別に「菊の節句」ともいって、菊を酒に浮かべて飲む慣わしやこの日に小高い丘や山に登るという「登高」。これらは天災や厄を避けて長寿をもたらすための中国の古い習俗で、それが日本でも中世以降に広まったものです。だから九を重ねるという意味では確かに陽暦でも縁起はいいでしょうが、「登高」や「菊酒」というにはちょっと早すぎるし暑すぎるような気がしますね。やはり、これらは旧暦の九月九日(今年は10月11日)に相応しい行事ではないでしょうか。

  重陽や海の青きを見に登る     野村喜舟 

  菊の酒醒めて高きに登りけり    高桑闌更

 さて、先日の9月7日も二十四節気の一つ「白露(はくろ)」といって、露が凝って白くなるという旧暦八月の節なんですよ。

  白露の日召されし父の形見かな   稲畑廣太郎

 この白露も年によっては8日になったりしますが、とにかくその日に〈召されし父〉の形見を見て感慨に耽っている作者でしょう。アッ、もしかして亡くなった日が白露だったのかも。ちなみにその父とは、高浜虚子の孫・稲畑汀子さんの夫、稲畑順三さんなんですよ。一体どんな形見だったんでしょうかね。

 ところで、そもそも「露」というのは、夕方から夜分、さらに明け方に気温の低下に伴って大気中の水分が結露したもので、秋の代表的な季語です。また、露は日差しとともにはかなく消えることから古来「露の命」などといって、生命の儚さにたとえられてきました。

 その「露」を詠んだのに〈露の世は露の世ながらさりながら〉という小林一茶の有名な句がありますが、これは最愛の幼い娘を亡くして、いき場のない悲しみを一茶が詠んだもの。その気持が何度読んでもひしひしと伝わってきます。以前義母が亡くなったときにも書いたような…。

 それをまた書いているということは…そうなんです。実は「白露」前日の6日、甥の葬儀に実家へ行って来たからなんです。甥は私の長兄の長男、2年ほど前から闘病生活をしていました。病状がよくないということを聞いて、私たちがコロナに罹る前の7月15日に見舞いに行ったばかりなんです。それから2ヶ月にもならないというのに…享年57歳でした。余りにも若すぎますよね。でも兄も退職寸前の59歳、義姉もコロナ禍の始る直前に亡くなりました。母と一緒に本家を守ると言っていた兄が余りにも早く逝き、その後は義姉が何かと母の世話をして実家を守ってくれていました。それが母が亡くなると、その後3年足らずで。そして、その後を継ぐといった甥もとうとう…他の兄弟やその子どもたちはみんな元気だというのに。どうして本家だけがと…私にはもう里帰りする家がなくなったようでとっても淋しいです。

 よく悪いことは重なると聞きますが、まさに今年の我家は厄年なんでしょうか。コロナの後遺症で散々ヒドイ目にあったというのに、今度は主人が何かを取ろうとして椅子から落ち、診て貰うと肋骨にひびが入っていました。そのため大分まで初めての鉄道の旅です。厚狭駅までは車、そこから小倉駅まで新幹線、それから特急ソニック号で大分まで。駅には弟が迎えに来てくれていましたので、その車で葬儀場へ。

 その日は絶対車で来た方が楽だったとブツブツ言っていた主人も…帰ってから日に日に痛くなるらしくて、今は家でおとなしくしています。年を取ると転んだりしてもすぐには痛くなくて、大したこと無いと安心していると、その後がなかなかよくならないんですよ。特に高齢者は骨折などがダメ!考えると、まだまだ何かが起こりそうでコワイんですが、十分に気を付けますね。

 というわけで、写真の花は甥の葬儀で貰ったもの。どんなに美しい花に飾られてもイヤですよね。生きている方がいい!でも…お父さんとお母さんに…ああ、お婆ちゃんにも会って、安らかに成仏して下さいね。 合掌

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早くも9月、ぼちぼちガンバラなくっちゃ!

2024年09月02日 | 俳句

 コロナの感染と後遺症で8月がとうとう終わってしまいました。コロナに罹る7月末までは、自分で言うのもおこがましいぐらいとても元気だったんですよ。それなのにこの1ヶ月でぐ~んと歳を取ってしまった感じ。イヤですね!

 でも今日から9月、もういい加減に気を入れて頑張らなくっちゃと思っているところに、こんなメールが入っていました。

 9月1日は「防災の日」です。
 この機会に、災害に備える大切さを改めて考えてみませんか。
 日頃から防災や災害発生時に備えて活動している団体をご紹介します。
 あなたの寄付が、防災・減災支援の活動を支え、未来の災害から多くの命を守る力となります。
 皆さまのあたたかいご支援をよろしくお願いいたします。

 ああ、そういえば今日9月1日は、俳句でも「防災の日」や「震災忌」「震災記念日」として季語になっています。大正12年(1923年)のこの日、相模灘一帯を震源とする大地震が関東地方南部を襲い、各地に甚大な被害をもたらし、死傷者はナント20万人にものぼったんだとか。

  十二時に十二時打ちぬ震災忌    遠藤悟逸

 マグニチュード7.9と推定されるこの大地震は、この日の11時58分に発生。ちょうど昼食時だったため、家屋の倒壊と出火で大火災が生じ、また各地に津波も生じたという。その被災者は、東京府を中心に神奈川、千葉、埼玉、茨城、静岡、山梨と、1府6県に及び、その人口の29%にあたる約340万人であったんだとも。これがどんなに悲惨であったかということは、実際には知り得なくても、平成23年(2011年)の東日本大震災のことを思い出せば想像に難くはないでしょう。

 掲載句のように、時計が12時に12時を打つという何の変哲も無いことがどんなに有り難いことなのか。言われてみれば誰でもが分かること。なのにその平々凡々とした日々が続くと、人はそのよさを忘れて、何か変化を求めようしたがります。やっぱり人間って懲りない生き物なんですよね。だから昔から〝歴史は繰り返す〟と言うんでしょうけど。

 まあ、とにかくこの日本に、いや日本だけじゃなく世界に何か災害が起こる度に、私は何らかの支援をしてきました。それで今回もささやかながら寄付をさせていただきました。一種の自己満足ですけども…でも気分はいい!

 また、ブログを見ると「今日のひとこと テーマ:9月の目標は?」とありましたので、「コロナからの完全復活!」と書きました。これには〝一度投稿すると編集はできません〟と書いてありますから、もう取消したり書直したりはできないということ。これで私の心の準備は万事整いましたので、後は体を鍛えるばかりです。

 よ~し、これで打倒コロナだ。ガンバルゾ!でも、ボチボチですよ…無理はしませんから。というわけで、これからも応援よろしくお願いします。

 写真は、7月の「きらら俳句教室」の吟行で撮らせてもらった〝蝶蜻蛉(ちょうとんぼ)〟の翅です。きっと何かの鳥に狙われて食べられ、翅だけが残ったのでしょう。でも、この写真を撮らせてくれた人が、家に戻って次の日に写真を撮ろうとすると、この光沢はもうなくなっていて、真っ黒にしか映らなかったそうなんです。ということは、この蜻蛉は食われて間がなく、この時は翅の細胞がまだ生きていたということでしょうか。不思議ですね。飛んでいる写真は撮れませんので、お借りしました。スミマセン!

チョウトンボ - Wikipedia

 蝶蜻蛉とは、梅雨明け直後の風のない日にヒラヒラと、まるで蝶のように飛ぶので、知らない人はみんな蝶だと思ったりします。分布は本州~九州ですが、近年では本州の北端でも見られるようになったとか。遠目に黒く見える翅は、表面が紫色に輝き虹色の幻光を放って、真夏の太陽によく似合う。だからこれを見た人は、珍しいのでみんな句に詠みたがります。でも、まだ季語としては認められていませんので、どう詠むかが問題でしょうね。 

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