iPodでエクササイズ

iPodで、退屈なマシントレーニングを楽しいものに変えましょう!






備中国分寺五重塔の二重鬼瓦の作者「梶谷 定次郎」はどんな人物だったのだろう?
阿吽の鬼瓦と額の紋章は、当時はどんな意味を持っていたのだろう?

本を読んでも核心に迫る部分には至らず、手がかりも掴めないまま日々が過ぎてゆきます。


しか~~し、鬼瓦に刻まれた銘が
初重「備中宿、高谷七三郎」
二重「同国(備中国)窪屋郡酒津村住人梶谷定次郎」
三重は

「下道郡服部村住瓦師瀬崎文吉・国広 当村高谷七三郎」

である事が分かりました。



「備中国分寺五重塔保存修理報告書」には、三重鬼瓦の作者は

「服部村 瓦師高谷七三郎」

とだけ記載されています。

kamokamoはその「報告書」を読んで、高谷七三郎は「初重」と「三重」のたった3年のあいだに「宿」から「服部」に工房を移したのかと思っていましたが、七三郎は「当村」ですから工房は「宿」のままだったことが分かりました。

納得しました。



でも………

公文書に近い「保存修理報告書」がそんないい加減なことでいいの?
やっぱり納得出来ないわよ~~~~!!


それにしても、三重鬼瓦が三人がかりとは驚いたわね……
しかも、新たに加わった「瀬崎文吉」は当時近隣では有名な瓦師だったそうです。
銘の無い四重五重は、一重三重と似ているから、三重の作者と同じ「瀬崎 高谷」のグループでしょう。


鬼瓦の作風から見ると、恐らく紋章のある二重鬼瓦だけが「梶谷定次郎」ね……
どうしてだろう?

「瓦師」ではなく「住人」というところも気になります。

こうなると
ますます二重鬼瓦に銘を刻んだ「梶谷定次郎」の素性を知りたくなっちゃうわ。



それにしても、五重塔が再建された文政、天保、弘化にわたる20年間はどんな時代だったのだろう?
平穏な時代だったのか、それとも動乱の時期だったのか?



つづく

コメント ( 0 ) Trackback ( 0 )