鴨着く島

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大相撲の復活!

2020-01-27 15:19:44 | 日本の時事風景
令和になって初めての大相撲正月場所で、幕内最下位番付の徳勝龍が優勝した。

最下位が優勝したのは20年前の貴闘力以来だというから、ざっと120場所ぶりの快挙だ。

しかも徳勝龍は奈良県出身力士としては98年ぶりだという。98年前の力士の名は分からないが、98年前というと1922年(大正11年)で関東大震災(1923年。9月1日)の前年の頃である。

初優勝33歳というのも記録的だが、優勝インタビューで照れつつ「私などが貰っていいんですかね」と冗談めいたことを言いながら、次に放った言葉は名言に属するだろう。

「もう33歳とは思わず、まだ33歳だと思ってこれからも頑張ります。」

相撲の世界では30歳を超えれば完全なベテランで、体力の限界も見えてくる年回りだ。

今場所はモンゴル出身の二人の横綱「白鵬」と「鶴竜」はともに34歳で、体力の限界を思わせるように一勝しかできないうちに4日目・5日目から相次いで休場した。

偶然なのか必然なのか、大相撲の幕の内東と西のトップにでんと居座っていたモンゴル出身両横綱の休場は、世代交代というより私にとっては「本来の大相撲」への転換の象徴に思われた。

モンゴル出身最初の横綱「朝青龍」以来約15年、日本古来の大相撲が「モンゴル大相撲」化して久しい。一時は幕の内に最大10人はいたと思うが、どの力士も番付が上位だったからほとんど「烏の鳴かぬ日はあってもモンゴル力士の勝たぬ日はなかった」状況がずっと続いた。

私は別にモンゴル人だからといって大相撲から排除しようという気はさらさらないが、朝青龍のあの土俵を割ってからの相手力士への「ダメ出し」や白鵬の立ち合いの毎回の「張り手」という横綱らしくない態度・取り口が大嫌いであった。

今場所は朝青龍のそれや白鵬のこれが影を潜めたので、ようやく興味津々で大相撲を堪能した。今場所こそ「本来の大相撲」に回帰したと言えるだろう。すっきりした!

相撲の起源については諸説あるが、日本書紀の記録では垂仁天皇の7年(4世紀)に大和の「当麻の蹴速(たいまのけはや)」と出雲の「野見の宿祢」が垂仁天皇の御前で「角力」を取って見せ、野見の宿祢が当麻の蹴速の「肋骨や腰骨を打ち砕いて」蹴り勝ったのが最初らしい(お互いに蹴り合ったので、相撲というよりはキックボクシング形式だったろう)。

はっきりと「相撲で対戦した」という記事は天武天皇の11年(682年)に「隼人が多く(朝貢に)やって来た。大隅隼人と阿多隼人に宮殿の前庭で相撲(天覧相撲)を取らせたところ、大隅隼人の方が勝った。」

と見える記事で、この時は多数の隼人が大隅側と阿多側二手に分かれて対戦しているので、今日の大相撲につながるやり方である。

こののち奈良時代には隼人が宮殿の守備隊のような役割を担うようになり、おそらく隼人の相撲は守備隊の体力向上に役立てられたであろうが、平安時代になると「相撲の節会」が宮中の行事に取り入れられ、鎌倉から戦国期に廃れたことはあったが、江戸時代に今日みる大相撲のひな型が確立している。

法的には「国技」ではないようだが、1月5月9月の三場所が行われるのは両国「国技館」である以上実質的には国技だろう。その国技に恥じない正々堂々として取り口が望まれるし、我々も常にそれを期待している。

今回奈良県出身つまり大相撲の発祥の地「大和」出身の力士が、大相撲にふさわしい正々堂々とした取り口で優勝を飾ったのは何としてもうれしいことである。