鴨着く島

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専守防衛力を有する永世中立国へ(1)

2019-08-12 10:26:17 | 専守防衛力を有する永世中立国

8月6日は広島への原爆投下の日、9日は長崎への原爆投下の日、どちらも74周年を迎えた。当日に即死した人から一週間ほどの間に死亡した人までを入れると、それぞれ12万と8万、合計20万と言われ、そのほとんどが一般市民であった。

広島付近なら呉海軍鎮守府という大きな軍事施設があり、長崎付近なら佐世保というこれも海軍の軍事施設の密集したところがあり、そこを狙って落としたのならともかく、明らかに市中の一般日本人を狙って落としている。

これは明白な戦時国際法違反で、日本降伏後に占領軍は「極東軍事法廷」で戦犯を裁くのに「平和へに対する罪」と「人道に対する罪」を作り上げたのだが、むしろこの原爆投下こそが「一般市民の平和に対する罪」「人道に対する罪」だった。

アメリカ人はこの原爆投下を「太平洋戦争の終結を早め、もし投下していなければ日本が降伏せず、英米ソ連の日本列島侵攻作戦によって多数の軍人・市民の戦死者が出るのを防いだグッドな戦術であった」としている。

だがそれなら今しがた触れたように日本の軍事的な施設の密集した呉・佐世保などに落とせば軍事的に壊滅に追い込み降伏は確実に早まったはずだ。そうすれば「戦時国際法違反」などと言われずに済んだだろう。

原爆ならずとも東京はじめ大都市という大都市を空爆したが、そのやり方もまずは油を市街地を取り囲むように撒き、その中へ焼夷弾を投下して燃焼力を高め、市民を閉じ込めて「木造の家もろとも焼き殺す」という念の入れようで、こういう残虐な手口を知ると、とてもじゃないがアメリカ人の「人道」とは一体何だったのか疑念が強まるばかりだ。

終戦の1945年当時もだが、その後もベトナム戦争が終わる(1972年頃)までのアメリカでは黒人への差別が当たり前で、終戦後に「米国の自由がうらやましい。負けてよかった」くらいな気持ちを持った日本人も多かったようだが、アメリカ国内の黒人の自由(仕事・自治・選挙権)はほとんどないに等しかったのである。

戦時中だから仕方ない面もあるのだが、アメリカ軍人の間では「良い日本人は死んだ日本人である」というのが人口に膾炙した。つまり「日本人は誰でも殺して構わない」のだった。同じ枢軸国として英米に敵対したドイツ人やイタリア人に対してはそう言っていないのだから、人種差別もいいところだ。

広島の一般市民への原爆殺傷、長崎市民への原爆殺傷はこのような人種差別観の裏打ちがある。その証拠が彼らにとってキリスト教に改宗した日本人は差別の対象にはならなかったようで、長崎の浦上天主堂における信者多数の巻き添えにはさすがのアメリカ上層部も青ざめた。

今のことばで言えば「やばい!」と胸中で叫んだはずである。「そんな有名な大きなキリスト教会があったとは知らず、礼拝中の信者多数を殺めてしまった!」と頭を抱えた。そこでアメリカ政府は天主堂の再建を申し出たようだが、長崎市から断られたというエピソードがある。

広島には昨年、大統領としては初めてオバマ大統領が式典に参列したが、長崎の記念式典には参加しなかったのはそのような背景がある。長崎には一般市民への人道的差別とキリスト教徒なら同じ仲間として受け入れるという宗教差別の二大差別がアメリカ人を悩ましている。

同じ宗教者なら同じ人間として待遇するが、宗教が違ったら殺しても構わないーーというのは信教の自由にも違反する。自由諸国のリーダーであるはずのアメリカの汚点がここにもある。

広島・長崎の両市長は今回こぞって「核廃絶のための一里塚である核兵器禁止条約承認」を安倍首相に求めたが、相変わらず「アメリカの核の傘による安全保障」を盾に受け入れなかった。

この「アメリカの核の傘論」のよって立つ論拠こそ日米安全保障条約だ。トランプ大統領はこの日米安保の「不平等」を初めておおっぴらに公言した初めての大統領で、アメリカが一方的に日本を守るだけなのはおかしいと言っている。早い話が、日本のためにアメリカが血を流すのに日本が血を流さないのはおかしいーーというのだ。

日米安保は「相互防衛条約」ではなく、米軍によって日本が一方的に守られているために、米軍が有利なように「日米地位協定」があり、5000億とかいう巨額の「みかじめ料」を支払っており、また高額の防衛備品も購入しているので、そこは無視してかまわないが、これまでの防衛・外交慣習を知らない(無視している?)彼の登場によって「日米安保」の存在意義(レーゾン・デートル)が俎上に上り始めたのはうれしい限りだ。

もう日米安保は終わりにしよう。その前提として日本は「専守防衛力を有する永世中立国」となるべきだ。世界はそれを待っている。


吾平山上陵の謎

2019-08-04 09:32:43 | 古日向の謎

明治初期の内務省は廃仏毀釈後、神道を国教化すべく、そのかなめとしての天孫降臨神話を称揚し、また天孫三代の御廟である「神代三山陵」を、記紀の記述と地元の伝承をもとにすべて古日向でも鹿児島県域に定めた。


候補地は同じ古日向域でも数多くあったが、最終的に現在の可愛山陵(ニニギノミコト)・高屋山上陵(ホホデミノミコト)・吾平山上陵(ウガヤフキアエズノミコト)に決定されたのは当時の内務卿(長官)が薩摩藩出身の大久保利通であったことが大きかった。


ウガヤフキアエズノミコトの墓所について言えば、先日歴史仲間(史話の会会員)と訪れた宮崎県の鵜戸神宮の「鵜戸山」の山頂にある「吾平山上陵」も候補地だったのだが、鵜戸神宮の地は旧飫肥藩(伊東氏)の領域だったため却下されたし、また現在の吾平山上陵の南方の旧田代町にも鵜戸野という場所に「洞窟」があり、そこも調査されたらしいが却下されている。


私見ではウガヤ王朝の存在を考えており、ウガヤフキアエズノミコトは数十代(水田営農が国づくりの中心となり、各地に豪族が現れて富を蓄え、その富を基に海運交易が盛んになって古日向域と南西諸島、九州北部を中心とした西日本交易ルート及び朝鮮半島交易ルートが開拓発展された弥生時代中期から後期後半までの500年ほど)にわたる王朝だったとする。


数十代の王都がただの一か所であったとは考えにくく、天災、中でも古日向域に特徴的な火山活動による災害が起きるたびに王都は移動したと考える方が自然だろう。あるいは予め火山災害を見越して王都を数か所に分散させていたのかもしれない。


ウガヤ王朝が数十代続いたのであれば、その王の墓所は数十か所あってしかるべきだろうが、ウガヤ王朝の最後の王の時代にいわゆる「神武東征」があり、古日向(魏志倭人伝では投馬国)正系である最後の王が土地を離れてしまうという現地古日向(投馬国)にとっては衝撃的な事態が発生したので、古日向に残ったウガヤ王朝正系最後の王を祭ったのが「吾平山上陵」で、おそらく祖先の御魂も合祀しているのではないかと思う。


今「現地古日向にとって衝撃的な事態」があったと述べたが、古日向(投馬国)正系の王が古日向を離れるに至った原因を記紀では「ここにいたのでは国中を治めることができない。聞けば東方に良い土地があるという。そこに行けば統治が可能だろう。」というふうに記す。


記紀では古日向からの「東征」が畿内に新しい王朝(橿原王朝)を開き、素晴らしい統治が開始され「万世一系」の天皇時代になったーーということを描くことが既定の事実であったから、大和の先住王権よりも古日向の王権の優位性をことさらに主張するわけだが、私見では「神武東征」とは古日向を襲った巨大な災害による集団移住と捉えている。


その証拠が古事記に記載されている「安芸のタケリ宮に7年、吉備のタカシマ宮に8年」いたという期間の長さである。戦闘集団による武力的な「東征」であればこんな長期にわたるはずはない。ここから私は古事記に書かれている「神武東征」は古日向からの「集団的移住」と考えるのである。


その一方、日本書紀に書かれている「神武東征」は3年余りで遂行されており、こちらは「武力討伐」の現実に近く、私はこの真の「東征」を北部九州からの「崇神東征」とみている。そしてこの「崇神東征」によって敗れたのが、古日向(投馬国)からの王統である「武埴安彦・吾田媛」のコンビだったと考えている。


では古事記に記載の古日向(投馬国)からの衝撃的な集団移住をもたらした大災害とは何だったのだろうか。古事記にも日本書紀にもそのような出来事の記述はないが、古日向と言えばやはり火山災害を考えるのが順当だろう(ただ、最近言われている「南海トラフ」由来の大震災、つまり大地震及び大津波だった可能性もある)。


この大災害により古日向域の田園及び水運に恵まれた港湾が機能しなくなったのではないかと思われる。要するに古日向(投馬国)は危殆に瀕したのである。そこで移住を考えざるを得なくなったのだが、弥生時代を通じて水運を盛行させていた古日向(投馬国)の強みと言わなくてはならないだろう。


私はこの移住船団の長こそアイラツヒメの長子・タギシミミ(のちの神武天皇)で、次男のキスミミは母のアイラツヒメと大災害後の古日向(投馬国)に残ったと考えている。


さて吾平山上陵に祭られているとされているウガヤフキアエズノミコトとは数十代続いた古日向のウガヤ王朝最後のウガヤ王ではないかと先に書いておいたが、それにふさわしいのが大災害後も古日向に残ったキスミミではないかと思う。


というのは吾平山上陵はその名に反し決して「山上の陵」ではなく、「洞窟陵」であることに注目するからである。「洞窟」で想起されるのが「天の岩戸」で、アマテラス大神がスサノヲの乱暴狼藉に恐れをなして隠れた洞窟であった。


スサノヲを吹き荒れる嵐(台風災害)の象徴と考える説があり、そうだとするとまさに洞窟は嵐にはびくともしない安全な場所である。


また「天の岩戸に隠れる」の「隠れる」は、貴人が死んだ時に「お隠れになる」というように、洞窟という「隠れる場所」はすなわち墓そのものでもある。


ただしかし、アマテラス大神は一度はスサノヲの暴虐によって「洞窟にお隠れになった=死んだ」のであるが、アメノウヅメやタジカラノヲなどによって「洞窟からお出ましになった=再生した」のでもあった(岩戸明け)。


以上のことを吾平山上陵という「洞窟陵」に当てはめると、吾平地方を含む古日向(投馬国)域においてそのウガヤ王朝末期に、今しがた述べたアマテラス大神に対するスサノヲの暴虐に匹敵するような台風や火山災害(もしくは南海トラフ地震・津波)に見舞われ、国が危殆に瀕して移住を余儀なくされたが、現地に残ったがために逃れられなかった首長(具体的にはキスミミ)がいた。


しかし天災が過ぎれば再び首長の霊も古日向も復活するという想いが投馬国の人々にはあり、そのため暴風にも巨大災害にも強い洞窟に埋葬し、首長の霊とともに祖先の霊も祭られた。そしていつの日か大災害が過ぎた時、古日向が再びかってのように豊穣で水運に恵まれた土地になることを願う祈りを行った。


吾平山上陵が洞窟陵なのは以上のようなわけがあってのことではないだろうかーーと今はそう考えておきたい。