鴨着く島

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日南線・神話の旅③

2018-09-13 09:27:00 | 古日向の謎

北郷駅から飫肥駅を経て日南駅で下車し、西口から西へ直線距離にして500mほどのところにある小高い丘の上に「吾田(あがた)神社」がある。

神社は日南市街の平坦地よりは10m高い小丘の頂上にあり、社殿の奥の方にも同じくらいの高さで続いた部分が見え、ひょっとしたらここ全体が古墳なのかと思わせる雰囲気である。

参拝をしようとしているところへ、折よく、何かの用事で石段を上がってきた宮司さんらしき人に「由緒書を上げますよ」と言われ、待っていると社務所から持ってきて手渡してくれた。

家紋入りの由来記には「祭神 吾平津媛(アヒラツヒメ)命 手研耳(タギシミミ)命 天穂日(アメノホヒ)命」とあり、それぞれにカッコつきで解説が書き添えられている。

それを掲げると、「吾平津媛命(吾田の小橋の公の妹)」「手研耳命(神武天皇と吾平津媛の間に生まれられた第一皇子)」「天穂日命(天照大神の第二皇子・出雲系の神、今の出雲大社宮司家千家氏の祖)」である。

吾平津媛については神武天皇の正妃であったが、東征には参加せず、地元に残りその無事を祈り暮らしたようだ。由来記ではその出身を「吾田」の小橋公の妹であったとするのだが、この出身に関して、古事記では「阿多の小橋君の妹」、日本書紀では「吾田邑(あたむら)の吾平津媛」と若干の違いがあり、これを由来記では古事記の方の「小橋君の妹」を採用している。

ところが、「阿多」については日本書紀の「吾田(邑)」を取り入れているので結果としての「吾田の小橋の公の妹」という吾平津媛への解説は古事記のを下敷きにしながら地名だけは日本書紀の「吾田」を採用するというごった煮になっている。

しかも日本書紀では「吾田邑」を「あたむら」と読ませ、古事記の「阿多」(あた)と同じである。そうなるといよいよ「吾田神社」やここの地名「吾田、吾田東」なども本来は「あた」と読むべきなのかとも思えてくるのだが・・・。

「あがた」と読む例では「県主」の「あがた」だったり、南大隅地方の「阿瀉濱」(あがた・はま)などがあるが、ここの「吾田」の「あがた」は「我が田」を表す「吾田」なのか、「我が潟(もしくは輪潟)」という小さな入り江を表す「吾田」なのか、現在の日南市街地の前身は「田んぼ地帯」だったと思われるので、「県(我が田)」由来ということになりそうだが、しかし古事記・日本書紀のどちらも「あた」と呼んでいる史実は曲げられない。

「吾田」の詮索に大部を費やしたが、本当はこの吾田神社に祭られている神の「手研耳(古事記では多芸志美美)」と「天穂日」こそが奇観なのである。

まず「タギシミミ」(以下、カタカナで表記)だが、これは由来記のカッコにあるように神武天皇と吾平津媛の間の第一皇子で、日本書紀では一人っ子だが、古事記では弟がいて「キスミミ(岐須美美)」という。この由来記でタギシミミを「第一皇子」としているのは古事記の記載する第二皇子の存在をほのめかしているからだろう。

祭神名はすべて日本書紀の書き方を採用しながら、一部で古事記を取り入れているのはごった煮のそしりをまぬかれないが、これは日本書紀と古事記では同じ頃に編集されたにもかかわらずなぜ内容に差が多く見られるのか、という問題に逢着する。

ここでは詳論は避けるが、一言で言えば「古事記の方が人名や子孫関係の記述が豊富、かつ正確であり、日本書紀がその一部を避け、またあえて書かなかったりするのは、天武朝時代に指向された万世一系・列島内自生王朝説に抵触するからである」とだけ述べるにとどめる。(※詳しくはホームページ『鴨着く島おおすみ』を見られたい。)

タギシミミを主祭神として祭っているのは、潮嶽神社が唯一「ホスセリ(海幸彦)を通年祭祀しているのと同様、きわめて珍しい。ここも神主さんが常駐しているようなので、その意味では南九州でも唯一かもしれない。

一緒に東征した神武天皇の皇子であれば橿原王朝の後継者であるから、現役時代はもとより死後も手厚く現地で祀られるのが普通であろう。

ところが神武が現地で娶ったヒメタタライソスズヒメ(古事記ではイスケヨリヒメ)の二皇子(カムヤイミミ・カムヌナカワミミ)を貶めようとしたと讒言され、タギシミミは弟のカムヌナカワミミに殺害されてしまう。

要するによくある「継母による継子いじめ」の皇位継承・特別版だが、殺害されたタギシミミは現地(橿原王朝)側からは「叛逆者」扱いされ、碌な葬られ方もせず放っておかれたので、故郷であり原点でもある南九州において細々と祭祀がなされたということだろう。

その時に母アヒラツヒメがまだ存命だったのかどうか知るよすがはないが、いずれにしても故地からは暖かく迎え入れられ、あまつさえ最愛の母のもとに帰って来られたのだから以て冥すべしか。

ところで史学上、大和王朝の2代目(綏靖天皇=カムヌナカワミミ)以降9代目の開化天皇(ワカヤマトネコオオビビ)までの8代を「欠史8代」と称するが、2代綏靖天皇の即位前記にはカムヌナカワミミが勇猛であり、タギシミミの叛逆を防いで逆に殺害した状況を描いている。これはこれで歴史上の事件だが、実はその前にこう言う記述がある。

「継兄(ままあに)タギシミミノミコト、行年すでに長けて、久しく朝機を経たり。故にまた、事を委ねて親らせしむ。」

「ままあに」はカムヌナカワミミから見て異母兄ということ。「行年すでに長けて」はカムヌナカワミミから見れば、南九州から瀬戸内経由での東征行程が16年以上なので、おそらく25歳くらいは年上であったことを意味しよう。次の一文「久しく朝機を経たり」が最大のキーポイントで、これは「長い間、朝のハタラキをしていた」ということ。つまり長期間にわたって王位に就いていたのだ。朝廷を開いていたと言っても大げさではない。

橿原に朝廷を開いたのは神武天皇だろーーと言われるだろうが、実は私は神武天皇とははタギシミミのことだろうと考えている。

タギシミミはじめ大和で生まれた皇子たちにもカムヤイミミ、カムヌナカワミミと「ミミ」を敬称に使用しているのが何よりの証拠である。

この「ミミ」は魏志倭人伝の中に倭国の一国として登場する「投馬(つま)国」の王名なのである。

倭人伝では投馬国の記述のところで「官を彌彌、副(官)を彌彌那利という」とあり、「彌彌」つまり「ミミ」こそが「官」すなわち最高位者、投馬国側から見れば「王」に他ならなかった。また「彌彌那利(ミミナリ)」は「彌彌の那利」で、「なり」とは古事記の神武記の歌謡にあるように(うわ・なり=本妻)「妻」のことであるから、「王の妻」すなわち「王妃=女王」である。

この「ミミ」呼称の頻出は何を意味しているのだろうか。大

和王朝の初代と二代目の王位継承者人名群に少なからぬ数(というよりほとんどの数)で登場する「投馬国系」の王の敬称は、素直に見れば神武東征とは南九州の大国「投馬国」の東征に他ならないことを物語っている。

このことに気づいたとき、記紀の記述は大筋で真実を描いており、また魏志倭人伝等の記す1~3世紀の倭人の国々の存在、特に南九州に投馬国があると比定した自分の解釈において両者を全く矛盾なく突き合わせることができることを確信したのだった。

要するに「神武東征」は「南九州にあった投馬国の東征(東遷=移住)」という史実であり、神武天皇を投馬国王タギシミミに置き換え、また二代目綏靖天皇はタギシミミの二代目カムヌナカワミミとすれば、神武東征及び橿原王朝の創始を「おとぎ話」として無視する必要はないということである。

※以上の論点についての詳細は我がホームページ『鴨着く島おおすみ』を参照されたい。

さて、吾田神社の三柱目の祭神「アメノホヒ」だが、この神については由来記のカッコ内の説明で十分だが、日本書紀・古事記ともに出雲臣の祖とあり、本来ならば天孫系なのだが、国譲りの後に「八十隈手に隠れた大国主」を霊祭(慰霊)する役目で朝廷から使わされたのが始めと言われている。

ここ吾田神社でもそのような意味合いで、二代目のカムヌナカワミミに追われたタギシミミの霊魂を慰めるために、出雲に対してそうであったように勧請されたのだろうか? 由来記にそこは書かれていないが、感覚としてはそう受け止められよう。

次の駅「油津」は広島カープのキャンプ地とあって、駅舎が赤く塗られていた。近くには専用球場もあり、駅舎から町並みまでカープとともにある雰囲気が濃厚だ。

吾平津神社というのが堀川運河に架かる堀川橋のたもとに鎮座する。主祭神は神社名から想像されるように「吾平津媛」である。そもそもこの「あぶらつ」なる地名は「あひらつ(ひめ)」に由来する。

堀川運河が浚渫される前は海の入り江に建つ神社で、これは青島神社の環境にやや近い。しかし鵜戸神宮を詣でた人は、この町中にこんもりとした鎮守の森のある風景こそが本来の人と神とが交わる聖域と思うだろう。

青島神社が天孫二代目のホホデミノミコト、鵜戸神宮は天孫三代目のウガヤフキアエズノミコト、そしてこの吾平津神社は天孫四代目の正妃を祭っているわけで、神話に仮託して仕組んだのではあるまいかと思わせる絶妙な配置である。

(日南線・神話の旅③終わり)


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