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邪馬台国問題 第1回(「史話の会」7月例会)

2020-07-26 14:15:10 | 邪馬台国関連
今月の「史話の会」の例会から「邪馬台国問題」を取り上げることになった。

「問題」としたのは、倭人の女王国「邪馬台国」の比定地をめぐり、江戸時代から喧々諤々の論争が続いていて、いまだに正解が得られていないという歴史学上の特異な事件(事案というより事件がふさわしい)だからだ。

昭和42年にかの有名な宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』が発刊されたのを読んで以来、邪馬台国論争に引き摺り込まれ、あれからもう50年余り経つが、自分としては17年前の平成15年(2003年)に出版した『邪馬台国真論』を以て正解に到達したと考えている。

わずか2600字余りの「魏志倭人伝」の解釈が人それぞれで、そのために邪馬台国がどこにあったのかという比定地に関して30も40もの場所が取り上げられてきた。

何がそこまで比定地を数多にさせたのかと言えば、結局のところ「魏志倭人伝」の邪馬台国までの行程記事をどう解釈するかの一点にかかってくる。

鹿屋市の東地区学習センターで毎月第3日曜日の午後1時から4時頃まで開催している「史話の会」ではこれまで『三国名勝図会』・万葉集・古事記・日本書紀などを取り上げてきたのだが、今回からは『邪馬台国真論』をテキストに邪馬台国について学ぶことにした。

毎月集まるのは10名ほどのこじんまりとした研究会だが、「史話の会」以前の「大隅史談会月例会」から引き続いて10年を越える参会者もいて和気藹々としている。


今日は「邪馬台国問題①」として、まず邪馬台国が記事になっっている「魏志倭人伝」をめぐってその時代背景を述べることから始まった。

「魏志倭人伝」は、正確には『三国志・魏書』の中の「烏丸(うがん)鮮卑(せんぴ)東夷伝」を構成する東夷の国々の中の「倭人」の条を指している。

今日は3枚の資料をみんなに配ったが、そのうちの1枚が当時の中国大陸と「東夷の国々」を図示したものだった。それによると「鮮卑(せんぴ)」は今日の内蒙古地区あたりにいた部族で、「烏丸(うがん)」は今日の中国東北部(旧満州)辺りの部族である。

そして「東夷の国々」だが、これは遼東半島から東の朝鮮半島および海を渡った日本列島までを含めている。

この東夷の国々について、国別に詳細を記したのが「東夷伝」であり、旧満州南部の「夫余」から「高句麗」「濊(わい)」「東沃沮(ひがしよくそ)」「挹婁(ゆうろう)」「韓」、そして「倭人」まで7種の種族グループを網羅している。

さらにこれら部族国家群を取り巻く時代背景が描かれている中国王朝の正史「漢書」「後漢書」「三国志」「晋書」の成り立ちに触れ、中でも「三国志」を書いた陳寿がほぼ同時代(280年頃)の人物であったことから、魏志倭人伝も史実に近いという点では高く評価できることも披歴した。


最後に皆で「東夷伝」の序文を読んでみた。

「東夷伝序文」で陳寿は、漢王朝時代までは主に西域の諸族(西戎)の調査によって向こうの事情が判明し、「都護府」を置いて領域化したが、東夷については三国時代になり大陸の東北半分を領域とした魏王朝の進出によって地域事情が把握できた――ことを記している。

東夷の国情は大陸とはずいぶん違うものがあって驚かされるが、意外にも「礼儀」などは十分に行われており、もし中国で礼が廃れたら東夷に求めるようになるかもしれない――などとも書いている。(※これはかの孔子も弟子に言っていることである。)


以上、今日の「邪馬台国問題①」では魏・呉・蜀(三国時代)の時代、邪馬台国を含む「東夷の国々」の置かれた時代背景を中心に講義した。

(邪馬台国問題①ー史話の会7月例会ー終わり)

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