まだそのものは読んでいないのだが、寺沢薫という人が著した『卑弥呼とヤマト王権』(令和5年3月刊・中公選書)についての書評が新聞に載っていたので、肝心かなめの部分について若干の評を書いておきたい。
寺沢薫という人は考古学者で、前奈良県立橿原考古学研究所の所長であり、今は同県桜井市にある纏向学研究センターの所長を務める人で、もちろん邪馬台国の位置については畿内大和にあったとするいわゆる「畿内説」である。
ところが通常の畿内大和説では「邪馬台国(女王国)は自生的に大和にあり、そのヤマト国(邪馬台国)がヤマト王権につながった。大和と書いてヤマトと呼ばれるのはそのためで、ヤマト王権の成立は非常にスムースであった。そして3世紀半ばの築造とされる箸墓古墳は邪馬台国女王・卑弥呼の墓に他ならない」というものだが、寺沢氏はそれに待ったをかけている。
実は寺沢氏が卑弥呼の故国と考えるていのは北部九州の糸島市にあったとされる「伊都(イト)国」であったという。
魏志倭人伝に描かれた2世紀代の「倭国の乱」において、伊都(イト)国と吉備(キビ)国及び出雲(イヅモ)国等の西日本の大国が「談合」して女王卑弥呼を共立して倭国王とし、共立した卑弥呼を3世紀の初め頃に糸島の「伊都(イト)国」から大和に移し、そこで「新生倭国」が樹立された。それがヤマト王権の始まりであると考えているのだ。
その移動した先が大和でも纏向地方で、この地方は3世紀になって突然あたかも都市計画があったかのように造成されており、また日本各地からの土器の流入が見られるという。
つまりたいていの邪馬台国畿内論者は纏向地方に邪馬台国があり、女王卑弥呼の時代にヤマト統一王権が形成された。そして卑弥呼は亡きあとに「箸墓古墳」に埋葬された――というのだが、それに対して寺沢氏は、西日本の大国によって共立された卑弥呼は北部九州から移動して纏向地方に王宮を構え、そこを中心に「新生倭国」(ヤマト王権=卑弥呼政権)を樹立した、と考えたのだ。
したがって同じ邪馬台国畿内説でも従来の「畿内自生説」に対し、邪馬台女王国(旧倭国)の原型は北部九州の糸島にあったが、魏志倭人伝の言う3世紀半ばの邪馬台国はすでに大和に移り、その卑弥呼政権は「新生倭国」すなわち草創期の「ヤマト王権」に他ならないとするのが寺沢説である。
邪馬台国女王の卑弥呼の国が2世紀代には北部九州の糸島にあり、3世紀の初め頃には畿内大和の纏向地方に移ったという点では、寺沢氏の説は邪馬台国九州説と畿内説の折衷案のようだ。
この遷移説に近い九州説論者の多くは卑弥呼の時代の邪馬台国は九州に存在し、その後畿内に移動してヤマト王権を築いたと考えている。九州説と畿内説の違いは魏志倭人伝に記された半島の帯方郡からの行程と距離の解釈の違いである。
その解釈の違いで邪馬台国の「畿内説」と「九州説」に分かれるのだが、寺沢氏は畿内説を採っており、当然ながら糸島を「伊都(イト)国」として怪しまないようである。そこがクリアーされていない。
伊都国が「イト国」で糸島市なら、壱岐(一大国)からは唐津の末盧国などに上陸せず、そのまま船行して糸島に上陸すればよいだけの話である。なぜ末盧国すなわち唐津で船を捨ててわざわざ海岸べりの難路を唐津から糸島まで歩かなければならないのか、しかも「東南陸行」としてある方角がまるで違う。
伊都国を私は「イツ国」と読むのだが、末盧国の唐津市から陸路で東南500里は松浦川沿いの渓谷路があるのだ。そこを行くと上流には「厳木町」がある。今は「きう(ゆ)らぎ」と呼んでいるが、「厳」は「イツ」、「木」は「キ」で「城」と解釈して「伊都城(イツキ)」、つまり「伊都国の王城」ではないか。
では当時の糸島にはどのような勢力がいたのか?
そのヒントは第10代崇神天皇と子の代11代垂仁天皇の和風諡号にある。
書紀によれば崇神天皇は「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコ・イソニヱ)天皇」であり、垂仁天皇は「活目入彦五十狭茅(イクメイリヒコ・イソサチ)天皇」である。
どちらにも共通の文言は「入彦」と「五十」である。崇神天皇は「御間城」すなわち後に「任那(ミマナ)」と表現される弁韓の一国「狗邪韓国」に入り、垂仁天皇は北部九州において「活目(イクメ・イキメ)」という他国の「監視役」に入った。
和風諡号の後半の「五十」(イソ)こそが糸島であることは、書紀の「仲哀紀」と「筑前風土記」の2か所に描写されている通りである。
どちらも糸島の豪族が仲哀天皇にまめまめしく(いそいそと)仕えたので糸島を「伊蘇(イソ)の国とせよ」と命名されたとあり、筑前風土記に至ってはその豪族の名は「五十途手(イソトテ)」であり、自ら「私の祖先は半島の意呂山(オロヤマ)に天下りました」とさえ言っているのだ。
しかも地の文で「今(記紀編纂の時代=7世紀末)、糸島地方をイトと呼んでいるが、これはもとのイソからの転訛である」と断りさえ入れていることからも糸島がもとはイソだったことははっきりしている。
また糸島市の東にランドマークたる高祖(たかす)山があり、麓に高祖神社があるが、その祭神は「高磯姫(タカイソヒメ)」であり、「磯(イソ)」がここでも使われている。糸島が仲哀天皇の4世紀代に「イソ(磯)」と呼ばれていたことは間違いないのである。
以上からも伊都国を「イト国」と読んで北部九州の糸島地方に比定するのは誤りであることが分かる。
寺沢氏もこの点をクリヤーしていない。
したがってここを倭人伝上の「伊都国」として論を進めて行くこと自体、残念ながら「砂上楼閣」論という他ない。
寺沢氏の考えは、糸島から「旧倭国」の女王卑弥呼が西日本の大国キビやイヅモなどの談合によって共立されて大和纏向へ東遷し、そこで「新生倭国」たるヤマト王権(卑弥呼政権)が始まったというのだが、その東遷の主を御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイソニヱ=崇神天皇)と活目入彦五十狭茅(イキメイリヒコイソサチ=垂仁天皇)に置き換えれば、実は私の言う「第二次大和王権(崇神王権)」の成立とダブるのだ。
そしてその糸島からの崇神・垂仁の「五十(イソ)王権」が纏向に樹立された時に、歯向かったのが武埴安彦(タケハニヤスヒコ)と吾田媛(アタヒメ)の南九州由来の橿原王権(第1次大和王権)最後の主だったと、崇神紀・垂仁紀からは読み取れる。
寺沢薫という人は考古学者で、前奈良県立橿原考古学研究所の所長であり、今は同県桜井市にある纏向学研究センターの所長を務める人で、もちろん邪馬台国の位置については畿内大和にあったとするいわゆる「畿内説」である。
ところが通常の畿内大和説では「邪馬台国(女王国)は自生的に大和にあり、そのヤマト国(邪馬台国)がヤマト王権につながった。大和と書いてヤマトと呼ばれるのはそのためで、ヤマト王権の成立は非常にスムースであった。そして3世紀半ばの築造とされる箸墓古墳は邪馬台国女王・卑弥呼の墓に他ならない」というものだが、寺沢氏はそれに待ったをかけている。
実は寺沢氏が卑弥呼の故国と考えるていのは北部九州の糸島市にあったとされる「伊都(イト)国」であったという。
魏志倭人伝に描かれた2世紀代の「倭国の乱」において、伊都(イト)国と吉備(キビ)国及び出雲(イヅモ)国等の西日本の大国が「談合」して女王卑弥呼を共立して倭国王とし、共立した卑弥呼を3世紀の初め頃に糸島の「伊都(イト)国」から大和に移し、そこで「新生倭国」が樹立された。それがヤマト王権の始まりであると考えているのだ。
その移動した先が大和でも纏向地方で、この地方は3世紀になって突然あたかも都市計画があったかのように造成されており、また日本各地からの土器の流入が見られるという。
つまりたいていの邪馬台国畿内論者は纏向地方に邪馬台国があり、女王卑弥呼の時代にヤマト統一王権が形成された。そして卑弥呼は亡きあとに「箸墓古墳」に埋葬された――というのだが、それに対して寺沢氏は、西日本の大国によって共立された卑弥呼は北部九州から移動して纏向地方に王宮を構え、そこを中心に「新生倭国」(ヤマト王権=卑弥呼政権)を樹立した、と考えたのだ。
したがって同じ邪馬台国畿内説でも従来の「畿内自生説」に対し、邪馬台女王国(旧倭国)の原型は北部九州の糸島にあったが、魏志倭人伝の言う3世紀半ばの邪馬台国はすでに大和に移り、その卑弥呼政権は「新生倭国」すなわち草創期の「ヤマト王権」に他ならないとするのが寺沢説である。
邪馬台国女王の卑弥呼の国が2世紀代には北部九州の糸島にあり、3世紀の初め頃には畿内大和の纏向地方に移ったという点では、寺沢氏の説は邪馬台国九州説と畿内説の折衷案のようだ。
この遷移説に近い九州説論者の多くは卑弥呼の時代の邪馬台国は九州に存在し、その後畿内に移動してヤマト王権を築いたと考えている。九州説と畿内説の違いは魏志倭人伝に記された半島の帯方郡からの行程と距離の解釈の違いである。
その解釈の違いで邪馬台国の「畿内説」と「九州説」に分かれるのだが、寺沢氏は畿内説を採っており、当然ながら糸島を「伊都(イト)国」として怪しまないようである。そこがクリアーされていない。
伊都国が「イト国」で糸島市なら、壱岐(一大国)からは唐津の末盧国などに上陸せず、そのまま船行して糸島に上陸すればよいだけの話である。なぜ末盧国すなわち唐津で船を捨ててわざわざ海岸べりの難路を唐津から糸島まで歩かなければならないのか、しかも「東南陸行」としてある方角がまるで違う。
伊都国を私は「イツ国」と読むのだが、末盧国の唐津市から陸路で東南500里は松浦川沿いの渓谷路があるのだ。そこを行くと上流には「厳木町」がある。今は「きう(ゆ)らぎ」と呼んでいるが、「厳」は「イツ」、「木」は「キ」で「城」と解釈して「伊都城(イツキ)」、つまり「伊都国の王城」ではないか。
では当時の糸島にはどのような勢力がいたのか?
そのヒントは第10代崇神天皇と子の代11代垂仁天皇の和風諡号にある。
書紀によれば崇神天皇は「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコ・イソニヱ)天皇」であり、垂仁天皇は「活目入彦五十狭茅(イクメイリヒコ・イソサチ)天皇」である。
どちらにも共通の文言は「入彦」と「五十」である。崇神天皇は「御間城」すなわち後に「任那(ミマナ)」と表現される弁韓の一国「狗邪韓国」に入り、垂仁天皇は北部九州において「活目(イクメ・イキメ)」という他国の「監視役」に入った。
和風諡号の後半の「五十」(イソ)こそが糸島であることは、書紀の「仲哀紀」と「筑前風土記」の2か所に描写されている通りである。
どちらも糸島の豪族が仲哀天皇にまめまめしく(いそいそと)仕えたので糸島を「伊蘇(イソ)の国とせよ」と命名されたとあり、筑前風土記に至ってはその豪族の名は「五十途手(イソトテ)」であり、自ら「私の祖先は半島の意呂山(オロヤマ)に天下りました」とさえ言っているのだ。
しかも地の文で「今(記紀編纂の時代=7世紀末)、糸島地方をイトと呼んでいるが、これはもとのイソからの転訛である」と断りさえ入れていることからも糸島がもとはイソだったことははっきりしている。
また糸島市の東にランドマークたる高祖(たかす)山があり、麓に高祖神社があるが、その祭神は「高磯姫(タカイソヒメ)」であり、「磯(イソ)」がここでも使われている。糸島が仲哀天皇の4世紀代に「イソ(磯)」と呼ばれていたことは間違いないのである。
以上からも伊都国を「イト国」と読んで北部九州の糸島地方に比定するのは誤りであることが分かる。
寺沢氏もこの点をクリヤーしていない。
したがってここを倭人伝上の「伊都国」として論を進めて行くこと自体、残念ながら「砂上楼閣」論という他ない。
寺沢氏の考えは、糸島から「旧倭国」の女王卑弥呼が西日本の大国キビやイヅモなどの談合によって共立されて大和纏向へ東遷し、そこで「新生倭国」たるヤマト王権(卑弥呼政権)が始まったというのだが、その東遷の主を御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイソニヱ=崇神天皇)と活目入彦五十狭茅(イキメイリヒコイソサチ=垂仁天皇)に置き換えれば、実は私の言う「第二次大和王権(崇神王権)」の成立とダブるのだ。
そしてその糸島からの崇神・垂仁の「五十(イソ)王権」が纏向に樹立された時に、歯向かったのが武埴安彦(タケハニヤスヒコ)と吾田媛(アタヒメ)の南九州由来の橿原王権(第1次大和王権)最後の主だったと、崇神紀・垂仁紀からは読み取れる。
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