県都鹿児島市にある老舗デパート「山形屋」に経営危機が迫ったというニュースが半月前に流れたが、昨日、再建のための負債整理と再建計画に、債権を持つ17の銀行群が賛成したという。
これによりどうやら会社更生法の適用は無くなり、営業を継続しながら負債を減らしていくことになったらしい。
多くの鹿児島市民は喜んでいたようだ。
何しろ山形屋と言えば、そのネームバリューは半端なく、大方の県民には「在って当たり前」のデパートだったからだ。
創業は驚くほど古い。宝暦(ほうりゃく)元年というから江戸時代の中頃、西暦で言えば1751年。
時の薩摩藩主島津重豪が山形(庄内)出身の呉服商岩元氏に官許を与えて薩摩に呼んだのが始まりだというから、今年で創業273年になるという超老舗である。
庄内はのちの山形県だが、そっちの山形は「やまがた」と読み、デパートの山形屋の方は「やまかたや」と呼んで、「か」が濁らない。
東北の山形からやって来たのだから「やまがたや」でいいと思うのだが、「が」と濁るのを嫌うジンクス(縁起かつぎ)のような物があったのかもしれない。
もっとも鹿児島県人が「が」と言うと強勢の「がっ」に近く、鼻に抜ける「nが」ではないので、余計に「やまがたや」と濁って欲しくない心理が働いた可能性がある。これはあくまでもあて推量に過ぎないが・・・。
創業の宝暦年間と言えば、鹿児島では一大事件が起きている。
「宝暦の治水」と言う名の幕府への「お手伝い普請」が行われたのが、宝暦4年から5年にかけてのことである。
「お手伝い普請」とは徳川幕府が諸大名に課した主として土木工事のことで、命ぜられたら断るすべはなかった。断ったら幕府への反逆と看做されたからだ。
幕府は戦国期の政敵であった外様大名が財(勢力)を蓄えることを嫌っており、特に琉球交易を通じて裕福と見た薩摩藩には大きな工事(難工事)を割り当て財力を削ごうとした。
薩摩藩に幕命が下ったのは宝暦3年、木曽川・長良川・揖斐川いわゆる木曽川三川の分流工事であった。
翌宝暦4年の2月から藩士たち総勢1000名と言われる大工事に取り掛かったのだが、慣れない土木工事に従事した藩士たちは、ただでさえ武士の自尊心が萎えている上に、幕府役人や地元の人間の横柄な態度にしびれを切らし自決する者が相次いだ。
自決者と病死者あわせて83名というのもさりながら、宝暦5年の5月に完成するまでに費やした薩摩藩自腹の費用は当初予算の約5倍に膨れ上がり、これらの責任を取って総奉行の平田靱負は5月25日に割腹自殺を遂げたのであった。
当時の土木技術として最善を尽くして完成した木曽川三川分流工事は明治になってさらに西洋の技術により補強された。
その結果今日まで有名な輪中集落への洪水は大幅に軽減され、土手に植えられた日向松の美しい並木とともに地元市民の感謝の念は尽きることがない。
つい先日、木曽川治水工事270年記念交流のために鹿児島を訪れた岐阜県の「薩摩義士顕彰会」のメンバーである海津市の団体が、鹿児島市内にある平田靱負の旧居「平田公園」で開催された平田靱負顕彰式典に参加した映像がニュースで流れた。
「義士」とは自分の困難を顧みず、また自己への利益を顧みない行為によって他者の困難を軽減させようとする崇高な働きをする者たちの総称である。
同じ江戸時代の宝暦年間の出来事だが、一方は今日につながる山形屋デパートの創業、一方は他国に出かけての義士としてのハタラキ。
山形屋の創業者岩元翁は庄内(山形)から鹿児島へ。義士たちは鹿児島から岐阜へ。両者が当時の鹿児島で相交わることがあったとしたら面白い。