今朝8時過ぎだったが、東京のN氏から電話があった。
この人は80歳は過ぎていながら研究熱心な方で、日本人の成り立ちに絡めて「日本人はこうあるべきだ」などという見解を披歴しておられる。
邪馬台国に関連してはもう5年ほど前になるか、広島県の高校の先生が著した『大隅邪馬台国』という本を大いに評価し、氏の出身地の地元の温泉や書店に置いてもらうのを進めていたことがあった。
私も購入して読んではいたが、結論として「邪馬台国は投馬国からさらに南へ船で10日行き、歩いて1日の大隅半島の志布志湾に面する東串良町から肝付町にあり、卑弥呼の墓は東串良町の唐仁大塚古墳である」というのだ。
この見解についての反論はあとで詳しく書くことにして、件のN氏は今回は『大隅邪馬台国』を取り上げはしなかったが、「倭人伝に書かれた邪馬台国への行程を追っていくと、やはりどうしても邪馬台国が大隅にあるとしか考えられない」と言われる。
「あなたはどこでしたっけ?」と聞かれたので、「私は筑後の八女ですよ」と答えたが、納得できないようですぐに電話が切れてしまった。
南九州に邪馬台国があったという説には絶対の自信(?)を持っており、それに対する反論は聞きたくないようであった。
かく言う自分も、邪馬台国八女説及び投馬国古日向説(南九州の鹿児島と宮崎を併せたのが古日向)に対する反論がもしなされたら、そういう人に対しては「分からない人(ヤツ)だな」とうんざりしてしまうのだから、人のことは言えない。
そこで改めて南九州邪馬台国説に対して冷静な反論を掲げておきたい。
ここでは上記N氏のように、魏の役人が帯方郡から邪馬台国を訪ねて来てその見聞から記録したいわゆる「行程説」についてのみ論じることにする。
行程とはもちろん出発点がありそこから特定の地点までの方角と距離、および所要日数の記録であるが、邪馬台国は日本列島にあるので、さらに「陸行」か「水行」かの区別が書かれている。
【倭人伝の記述による帯方郡から邪馬台国までの行程】
①帯方郡治は今日の韓国の漢江の北岸地域であり、まず魏使はそこから船出をして韓半島の西海岸を手漕ぎ船による「沿岸航法」(陸地を目視しながらつかず離れず走る航法)によって南下して行く。
そしてあの修学旅行の高校生が多数犠牲になった「セオウル号」が沈んだ海域から、今度は東に向きを変え韓半島最後の寄港地「狗邪韓国」に至る。
以上、帯方郡から狗邪韓国まで、行程は水行であり、方角は南から東へ、距離は7000里(余里の余は省く以下同様)。
②狗邪韓国からは南へ日韓間の朝鮮海峡を渡る。まずは狗邪韓国から対馬国へ。
当然水行であり、方角は南へ、距離は1000里。
③対馬国からさらに南へ海峡を渡り、一大国へ。一大国は「壱岐国」のことで間違いはない。
当然水行であり、方角は南へ、距離は1000里。
④壱岐国からさらに南へ海峡を渡り、末盧国へ。末盧国は今日の唐津で間違いはない。
当然水行であり、方角は南へ、距離は1000里。
※以上で帯方郡から末盧国までは水行であり、末盧国で九州島に上陸する(船を捨て、以後徒歩になる)。
方角はおおむね南であり、その水行の総距離は10000里。
実はこの「水行10000里」が曲者なのだ。どういうことか?
水上の距離がどうして測れるのだろうかという疑問を呈上しなければなるまい。当然だが測れないのである。
陸上での距離は歩数と歩幅で決まる(といっても測る人間の歩幅に違いがあるので、何人もの経験値を採って平均化すればよい)のだが、水上はそうは行かないのだ。
では一体水行の距離はどうして記録されたのだろうか。
結論から言うと、水行の1000里は「一日行程」ということである。と言うのは、朝鮮海峡を船で渡ることを考えてみればよい。
海峡の一地点から向かい側の一地点への渡海は一日のうちになされなければならないのである。もし海峡を渡り切れないで漕ぐのをやめて寝てしまったら、船はどんどん日本海の方に流されてしまうのだ。
だから狗邪韓国~対馬、対馬~壱岐、壱岐~唐津の間のそれぞれの距離は大きく全く違うにもかかわらず、押しなべて同じ「1000里」なのである。
したがって水行の「1000里」とは実質上は「一日行程」のことなのだ。そう考えると狗邪韓国から朝鮮海峡を渡り、九州北部の唐津までの水行3000里とは「3日の行程」であり、帯方郡から狗邪韓国までの水行7000里は「7日の行程」と同値になる。
よって帯方郡から狗邪韓国を経て唐津までの水行10000里は「10日の行程」に他ならない(ただし正味日数である。海が荒れた際の船日和待ちの日数はカウントしない)・・・(A)
⑤末盧国から伊都国へは徒歩(陸行)となり、方角は東南、距離は500里。
さあ、ここでの解釈が邪馬台国論における無限ループの入り口である。
「伊都国」を「いとこく」と読み、福岡県糸島市に比定するのが定説だが、糸島市なら壱岐から唐津に行かずとも直接船を回せばいいはずで、何で唐津で船を捨てる必要があろうか。
また糸島市なら唐津市から方角は東南ではなく東北である。
この2点もの引っ掛かりがありながら、伊都国を糸島市に比定したことが、その後の地点間の方角が南を東に変えることでしか得られない邪馬台国「畿内説」の優勢を招いてしまった元凶なのだ。
(※糸島は崇神天皇と垂仁天皇の和風諡号にあるように元来「五十(イソ)国」であり、半島南部の意呂(オロ)山に天下った先祖を持つ五十途手はその後裔である。)
※畿内説が成り立たないのは、方角の誤認以上に倭人伝に次の記述があるからである。
<郡より女王国に至る、万2000余里。>
女王国の連盟国家群21か国を列挙したあと、女王国の南に所在する狗奴国のことを取り上げているが、そのあとにこのように記録している。
帯方郡から邪馬台女王国まで、1万2000里余りだ――と言っているのだ。
帯方郡から九州島北部の末盧国(唐津)までの距離表記は合計10000里であった(①~④)。
さらに唐津から東南に500里陸行した伊都国までを入れると1万500里。12000里から引くと1500里しか残らない。これでは到底畿内は無理、九州説でも南部はほぼ無理ということになる。
(以下、下に続く)