鴨着く島

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古日向論(3)神武東征と古日向①

2019-06-07 10:15:39 | 古日向論

古日向論の(1)「天孫降臨神話と古日向」で、南九州では縄文早期の時代に高度な文明が発達していたが、古日向の南海上で「鬼界カルデラ」が大噴出する(7400年前)に及んで壊滅とまではいかないが、少なくともそれまでの早期・草創期の独自の文明は機能しなくなった、とした。

しかしその衝撃を辛くものがれて、南九州以外の地域に逃げおおせた縄文早期の古日向人がいて、500年から1000年という時を経て、再び古日向に足を向け定着し始めた。「ニニギノミコトの降臨」とカムアタツヒメが出会い、ホスセリノミコトとホオリノミコトの誕生が「火中出産」だったのも当時の古日向の火山活動の激しさの象徴だろうと考えた。

ニニギノミコトの時代は古日向全体がまだ火山活動の余燼の中であり、その期間をカバーする王朝のようなものがあったと考えると、火山活動が一段落し、地上で穀物等の生産活動に移行できる寸前まで、約4000年前の縄文後期までだろうと考えた。

そして次の時代を担ったホオリノミコトは別名が「山幸彦」であることで象徴されるように、山の幸・野の幸、特に五穀と言いわれる定着農耕においては必須の穀物をかなり計画的に生産できる体制に移行した。定着農耕の開始は、未分化ながら社会生活を醸成し、定期的な穀物収入は交易を促進した。弓や槍などの先端に使われる黒曜石の入手に、古日向から遠く北部九州まで出かけていた。

このホオリノミコト時代は農工具において鉄器は使用されていなかったので、鉄器がかなり普遍的に使用されるようになるまでの期間、およそ弥生時代の中期(約2200年前)まで続いたと考えられる。

ウガヤフキアエズ時代は朝鮮半島南部に伽耶鉄山が開発されて、九州島はじめ各地から航海系の倭人が続々と半島にわたり、小国家群を形成した時代から、漢王朝が朝鮮半島に介入して楽浪郡はじめ四つの郡を置いた紀元前108年と、公孫氏の支配を経て三国時代の魏王朝になり、その末期にのちに晋王朝の始祖となった司馬懿の半島遠征(238年)があって、朝鮮半島南部の倭人国家群はかなりの危機感に晒された。

「ウガヤ」とは「大(ウ)伽耶」であり、「フキアエズ」とは「統治できなかった」という意味に捉えると、その当時の半島南部の置かれた状況が見えてくる。伽耶そして任那と呼ばれた最南部(弁韓・辰韓)にいた倭人は、もっとも航海性にすぐれ、機を見て九州島へ、古日向へと帰還を果たしたのではなかろうか。伽耶→鹿屋、任那→三股という倭人の移動が考えられよう。

以上見たように、ウガヤフキアエズの時代は倭人が朝鮮半島南部に進出、居住し、鉄の生産・加工に従事していた時代であり、しかしながら大陸人・王朝の半島進出という危機感に晒され、九州島を中心とする列島への帰還を余儀なくされた時代でもあった。

古日向はホオリノミコトの古歌にあるように「鴨着く島」で、「舟子=舵(かじ)子=水手(かこ)の蝟集する島」である。この「水手(かこ)の島」から鹿児島という地名が生まれたのである。この航海系の民が蝟集していた古日向では弥生時代前半を彩る鏡や銅剣・銅矛などの青銅器はほとんど出土せず、後半になるといきなり各種の鉄器が数多く出土するが、そのことも半島南部との鉄の交流を物語っている。

このウガヤフキアエズ時代の終わり頃に、いわゆる「神武東征」が敢行されるのだが、まずは東征に至るウガヤフキアエズノミコトの家系を記紀によって調べてみよう。