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鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

景行天皇のクマソ親征(1)(記紀点描⑫)

2021-09-01 09:33:11 | 記紀点描
先日のブログ「邪馬台国問題 第14回」では狗奴国を取り上げたが、狗奴国は熊本県の菊池川以南を占める大国で魏志倭人伝時代の当時、八女邪馬台国(女王国)とは敵対関係にあった国である(菊池川以南の現在の熊本県が領域)。

西暦247年にヒミコが死ぬと、女王国では大きな混乱があったが、ヒミコの一族の娘トヨが擁立されて何とか収まった。この混乱に乗じて狗奴国が侵攻して来たかと思えばそれは無かったようである。

というのは、西暦266年に魏に代わって晋が王朝を開くと、それに対して「倭の女王が朝貢して来た」と『晋書』の「武帝紀」に記載されているから、少なくともこの時点では、トヨが「倭の女王」の地位にあったと考えてよい。

しかしこのトヨの朝貢に対して晋王朝が、先の王朝の魏がヒミコに「親魏倭王の金印」を以て応えたような扱いはしなかったようである。その理由は分からない。だが、実際には貰っているのだが、ただ単にそのような記載がないというだけの話なのかもしれない。不明とする他ない。

では、このトヨ女王の支配する八女邪馬台国は、その後、つまり266年以降はどうなったのだろうか。

これについては明確な史料はないのであるが、日本書紀の景行天皇紀に見える「クマソ親征説話」に、邪馬台国と狗奴国の動静に関係ありそうな興味深い記事があるので紹介しよう。

 【景行天皇のクマソ親征と九州巡狩】


~景行天皇の南九州クマソ親征ルート図~

これを「景行天皇の九州巡狩」という場合があるが、ここでは「クマソ親征」とする。景行天皇の12年7月に「クマソが反して朝貢をしない」として8月に筑紫に向けて出征し、その後豊前に上陸し、豊後を通過して11月に日向の「高屋宮」の行宮に滞在して南方のクマソを撃ち平らげた。

日向のこの高屋宮には6年居住し、その後は豪族との戦いの描写はなく、18年の3月から今日の宮崎県小林市からえびの市を通って国境を北に越えて人吉市へ。ここから球磨川沿いに下って葦北、八代へ。船で島原の高来に渡り、今度は玉名に戻り、阿蘇に行っている。そして阿蘇から「御木国」(三池郡・大牟田市)に至った時に「高田行宮」に滞在している。

ここからさらに八女市郡域(八女国)を通過して筑後川中流の浮羽に到るのだが、そこからどのような経路で大和に帰ったのかの記載はないが、19年の9月に「天皇、日向より至り給う」とあって纏向の日代の宮に帰着したことが記されている。

前半の高屋宮に6年滞在して南九州のクマソを撃ったのが「クマソ親征説話」で、その後大和に帰る経路として宮崎県南部から熊本県の大部を抜け、福岡県の筑後を通過して行った時の見聞が「九州巡狩説話」と分けられるのであるが、前置きで「邪馬台国と狗奴国の動静に関係ありそうな記事」と言ったのは後半の「九州巡狩説話」に見える記事である。

その部分を次に掲載するが、例によって現代仮名遣いで表示してある。

〈(18年秋7月、筑後国の御木に到りて、高田の行宮にまします。
 時に倒れたる樹あり。長さ970丈、百寮、その樹を踏みて往来す。
 時の人、歌って曰く、
  朝霜の 御木のさ小橋 群臣 い渡らすも 御木のさ小橋
 ここに天皇、問いて曰く「これ何の木ぞ」。ひとりの翁ありて申さく、
「この木は歴木(くぬぎ)という。昔、倒れざる先は、朝日の光に
 当たりて、杵島の山を隠しき。夕日の光に当たりては阿蘇山を隠しき。」
 天皇曰く「この木は神木なり。かれ、この国を御木国と号せ。」と。〉

この記事に対応するのは上の掲げた「景行天皇の南九州クマソ親征ルート」の中の、女王国(八女)と記したすぐ南の〇で、斜線を引いて説明を加えてある箇所である。

そこは「高田行宮(たかたのかりみや)」のあったところで、地名で言えば現在の筑後の三池郡(大牟田市)になる。

そこに長さが970丈もある大きな倒木があった。天皇が驚いてその木のことを問うたところ、土地の古老が言うには「昔、この木が倒れない頃は、この木に朝日が当たると影が肥前の杵島山まで達し、夕日は阿蘇山まで達していました。」と。

天皇は「この木は神の木である。よってこの土地を御木国と呼びなさい」とおっしゃった。その結果この土地を「御木」(三池)と言うようになったという。(※巨木の朝日に当たった時の西側の影と、夕日に当たった時の影の東側の範囲が、そこに存在した勢力の統治領域だと考えてよい。)

大きなクヌギの木が倒れていたからその木に因んで「御木国」となったというのはよくある地名譚。だが、この倒木の長さ(高さ)がべらぼーなのである。何と970丈というのだ。一丈は約3メートルであるから、970丈は2910mだ。

もとより誇張だが、誇張にしても970丈とは何か半端である。1000丈とか「白髪三千丈」ふうに3000丈ならまだしも、970丈というのは誇張のための形容としては半端過ぎる。

そこでその半端な数字そのものに意味があるのではないかと考えてみた。すると、97は「クナ」と読み替えられるのに気付いたのである。「クナ」とは狗奴国のことではないか、と気付いたのであった。

また木の種類が「クヌギ(櫪)」だったとあるが、これはまさに「狗奴(クヌ)城(ギ)」ではないか。つまり「狗奴城」(狗奴国の城)を意味しているのではないかと思ったのである。

以上から言えることは、この御木(三池)にかつては狗奴国の城があり、その勢力範囲は西は肥前の杵島山(佐賀県武雄市)から東は阿蘇山まであったが、景行天皇が巡狩した時代すでに城は崩壊していた――ということだろう。

景行天皇の時代観を言えば、祖父の崇神天皇(北部九州の大倭)が大和への東征を果たしたのが270年頃であるから、三代目ならおおよそ330年から350年の間ではないかと思われる。

この頃、狗奴国は今日の大牟田市にあった「狗奴城」から撤退しており、古来の(魏志倭人伝時代の)狗奴国の領域すなわち菊池川以南へ戻っていたということだろう。

狗奴国が菊池川以南にその勢力を保持していたことは、この巡狩ルートで、どういうわけか八代まで来てから何の前触れもなく天草海を船で島原の高来邑に渡り、今度はそこから玉名にわたっていることで判明する。要するに狗奴国の本拠地である今日の熊本市や御船町、宇土市、そして八代市の北部一帯を避けているのである。ここが狗奴国(クマソ国)の牙城だったということに他ならない。

一方、邪馬台国の女王トヨは文献上は西暦266年までは確かに存在したと思われるのだが、その後、南にある狗奴国が北進して八女邪馬台国を併呑したと考えられる。その時にトヨは辛くも筑後山地に分け入って逃れ、豊前に行ったのではないかと思われるのだが、これについては「景行天皇のクマソ親征(2)」において、鹿児島の大隅半島にあったと思われる厚カヤ・狭カヤの「クマソ国」とともに述べたい。

出雲神宝(記紀点描⑪)

2021-08-26 09:37:45 | 記紀点描
日本書紀の崇神紀と垂仁紀には、時代が離れているにもかかわらず、同じ事物が話題として登場する。

それは「出雲神宝」(いずものかんだから)で、出雲のオオクニヌシたちの末裔(出雲族)が神の宝として大切に斎き祭っている物である。

 【崇神天皇の「出雲神宝」調査命令】

北部九州から私見では270年頃に大和へ入り、前王朝である橿原王朝を駆逐した崇神王権は纏向王朝とも言うが、アマテラス大神と倭国魂(ヤマトクニタマ=大和土着の神霊)を苦労しつつも何とか祭ることができた。

(※また他の神々についても天皇親祭を取り入れたりした。このような祭政一致に近い統治をおこなったので、崇神王権のことを「呪教王朝」と名付けた歴史学者もいる。)

古代ほど王権奪取に於いて必要なものは、一つは武力であるが、もう一つ大事なのが「祭祀権の継承」であった。

神武天皇(私見では投馬国王タギシミミ)の大和平定では、「大和の物実(ものざね)」として天の香久山の土を採取してこれを祭ったり、また「水無の飴(たがね)」を作って幸先を占ったりする描写はあるが、具体的な神々を祭ったということはなかった。

ところが北部九州からやって来て王朝を築いた崇神王権では、上に触れたように多くの神々を祭ることに腐心した。そして崇神王権の祭祀は大和土着の祭祀者たちの助力を得て順調に行われ、天下が大いに平らぎ、それによって崇神天皇は「御肇国天皇(ゴチョウコクテンノウ)」すなわち和語で「はつくにしらすすめらみこと」という尊称を得ている(12年条)。

だが、それに飽き足らなかったのか、崇神天皇は晩年になると次のような詔勅を出した。

〈「武日照(タケヒナテル)命が天から招来したという神宝は、出雲大神の宮の蔵に収めてあると聞くが、それを是非とも見たいものだ。」

そして、武諸隅(タケモロスミ)を出雲に派遣した。〉(60年条)

この詔勅にあるように「タケヒナテルが天から持って来た神宝」こそが出雲神宝である。なお、タケヒナテルはタケヒナトリとも言い、アマテラス大神のミスマルの玉から生まれた五男神の一人である「アメノホヒ」の子である。またタケモロスミは物部氏族である。

崇神60年と言えば、崇神天皇は68年に崩御しているから最晩年の頃で、なぜそんな年になって思い出したのか、経緯が無く突然出てくる話なのが不可解と言えば不可解だ。それまで忘れ去っていたのを何かの情報を得て思い出したのだろうか。

先日のブログ「邪馬台国問題 第14回」で書いたように、崇神天皇の九州における「大倭(北部九州倭人連合)」政権時代に、同じ九州北部で覇を競った相手が「厳奴(イツナ)=伊都国」ことオオクニヌシ率いる王権であった。

覇権争い勝利を収めた大倭政権は北部九州で一大勢力であった厳奴(イツナ)を解体して一部を佐賀平野からさらに西の山中(厳木町)に移した後、多くの厳奴(イツナ)人を出雲に流した。

その際に厳奴(イツナ)の神宝はすべて没収したはずであるが、おそらく没収し忘れたか、厳奴(イツナ)人がうまく隠しおおせたかした物があると知ったのではないだろうか。そこで先の詔勅を出したのだろう。

その後の成り行きは以下の通り。(※現代文の意訳で、簡略化してある。)

〈崇神天皇の命を受けたタケモロスミが出雲に行くと、当主の出雲フルネは筑紫に出張していた。代わりに迎えた弟のイイイリネはタケモロスミの要請に応じて「神宝」を提出し、それをもう一人の弟のウマシカラヒサ、そこ子のウカヅクヌの2名を使者として大和へ持参させた。

筑紫から帰って来た当主のフルネは弟のイイイリネが自分に諮らず神宝を渡してしまったことを咎め、ついにイイイリネを殺してしまう。

その内紛をウマシカラヒサが大和に告げたので、崇神王権はキビツヒコとタケヌナカワワケを派遣して当主のフルネを誅殺した。

出雲ではこれを畏れて「出雲大神」の祭祀ができなくなった。

その時、丹波のヒカトべという人物が「私の子が次のような独り言を言うのでございます」と、宮廷に届け出た。「その独り言というのは

『玉藻(たまも)の鎮め石 出雲人の祭る 真種(またね)のうまし鏡 押し羽振る うまし御神 底宝 御宝主。
 山河の水くくる御魂 静掛かる うまし御神 底宝 御宝主。』

であります。これは子供が言える言葉ではありません。何か神託のようなものではないでしょうか。」

天皇は「出雲人に祭らせよう」と詔勅した。〉

最後に崇神天皇は先に押収した出雲神宝を出雲に返却したうえで「出雲人に祭らせよう」としたのか、出雲神宝は崇神側に置いたまま「神宝無しで祭るように」としたのか、判断に苦しむところだ。

しかし崇神の後継者である垂仁天皇の26年条に、垂仁天皇が「何度も使者を立てて出雲の神宝を検校(調査)するのだが、どうもはっきりしない。」として今度は物部十千根(トヲチネ)大連を遣わして調べさせたところ、神宝がすっかり判明した(掌握できた)ので、トヲチネ大連に管理させた――という記事がある。

これによると、最初に崇神天皇が掌握した「出雲神宝」は一応は出雲に返却したと見るのが順当だろう。

 【垂仁天皇による「出雲神宝」調査】

垂仁天皇の26年に、天皇は天皇の最側近である物部十千根(トヲチネ)大連に対して次の命令を下した。(※現代文にしてある。)

〈しばしば使いを出雲に遣わし、出雲の神宝を検校(調査)させるのだが、「これこそが出雲の神宝です」とはっきり申告した者はいない。ならばお前が直々に出雲に行って調査しなさい。

 すなわち十千根(トヲチネ)の大連は、神宝を見出し、「これが間違いなく出雲神宝であります」と復命した。それでその神宝を管理させるようにした。〉

以上の記事によれば、崇神天皇が最初にタケモロスミを派遣して没収し、その後出雲に返却したた神宝とは別の「出雲神宝」を物部十千根大連が掌握して大和に戻ったことになる。

最初の「出雲神宝」がどんな物であったかも分からなければ、十千根大連が掌握して大和にもたらした「出雲神宝」の具体的な姿も書紀の記事の上では全く分からない。

 【「出雲神宝」とは何か】

最初に崇神天皇時代に調査掌握され(崇神60年)、さらにまた新たに垂仁天皇時代に大連という側近中の側近を派遣して調査掌握した(垂仁26年)という「出雲神宝」とは何なのか?

これら二つの記事には肝心の「出雲神宝」がどんなものであったのかについて書かれていない。わざと書かなかったような気もする。

崇神王権時代は先に触れたように、アマテラス大神はじめヤマトクニタマや三輪の大神(オオモノヌシ)などの神々を祭るのに腐心していた。そのような王権にとって、大和王権とは一線を画している出雲の国が彼らの神々を祭るための「神宝」は是非とも掌握しておきたいはずである。

祭祀に当たっては神の座の前に数々の奉幣を供え、納めてある神宝を使って神を祭るのだが、崇神天皇の時代、半島南部の新羅から到来した「アメノヒボコ」が、すでに七種の神宝を招来しており、それによると「鏡・剣・玉」のセットになっていた。

出雲の神宝がこの範疇に入るものだったとすれば、鏡だったのか、剣だったのか、それとも玉だったのか、それら全種だったのか、一種だったのか、具体的な神宝名は伏せるとしても、そのくらいなことは書かれていておかしくないだろう。

それを憚るような極めて特殊な、つまり通常の神宝ではなかったがゆえに、掌握はしたのだけれども書くことをためらった可能性もある。

そこで私は出雲神宝が具体的に何なのであるのか、以下に二つの仮説を提示しておく。

 〔仮説① 「天叢雲剣」説〕

出雲と言えば天下りした(天上界から追放された)スサノヲノミコトがヤマタノオロチの体内から見つけ出した「天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)」だが、この剣はスサノヲノミコトが天上界に献上したと書紀の神話では記している。

しかし天上界に献上したというのは説話上の話で、実際にはスサノヲが出雲の大神ことオオクニヌシを祭る神宝として出雲に「置き土産」にしたと、崇神王権では解釈していたのかもしれない。

天叢雲剣は名を「草薙剣」と変え、景行天皇の皇子ヤマトタケルが東国に遠征する際に、伊勢神宮に斎宮として詰めていたヤマトヒメから授けられたとある。してみると、天叢雲剣はすでに崇神王権の手には入っており、「同床共殿」を嫌った天皇がアマテラス大神を祭るヤマトヒメに託していたことになる。

剣あるいは太刀は「玉体を守る」として、今日でも天皇の行幸(皇居外への移動)では宮内庁職員が奉持して行くことになっているし、かつては賊を征伐に出かける将軍に天皇が授ける「節刀」は天皇の身代わりとなった。

出雲国造はその代替わりに宮廷に参上し「神寿詞(かむ(ほぎの)よごと)」を読み上げるという重要な行事があるが、その際には宮廷からは「金装太刀一振り」が授けられる。

古代ではそれほど剣や太刀には大きな意味が込められていたのである。ましてアマテラス大神の弟であるスサノヲ伝来の「天叢雲剣」は神宝に十分適うものであったはずである。

 〔仮説② 「漢委奴之国王」の金印説〕

「漢委奴之国王」と刻まれた金印が福岡県の志賀島で発見されたのは、天明4(1784)年のことであった。

この金印が意味するのは、漢王朝に倭の奴国王が朝貢し、その見返りとして「お前を倭人の奴国王と認める」というお墨付きを貰ったということである。(※委は倭ではなく、委奴を「いと」と読むべきだという説があるが、私は採用しない。)

倭国が漢王朝に遣使したのは『後漢書』によって西暦57年(光武帝の37年)と分かっており、この倭国こそが金印を授けられた奴国のことだろうと考えられている。私もそう思っている。

だが、奴国を春日市を中心とする一帯に比定することには与しない。当時の奴国とは北部九州全体を勢力に持つオオクニヌシ系の国だったと考えるからである。オオクニヌシは別名を八千矛之命(ヤチホコノミコト)と言われるように、武力に秀でた「厳(イツ)」という属性を持っていた。

その属性を捉えて統治する国が「厳奴(イツナ)」と呼ばれたと考える。

この厳奴は、西暦57年から約100年後に半島から福岡県の糸島(五十)に来住した崇神王(五十王権)一族が伸長して「大倭」(北部九州倭人連合)となった時、必然的に戦わざるを得なかった。(※この戦いこそがアマテラス大神を天の岩戸に籠らせてしまう争乱だったと思う。)

厳奴(イツナ)対「大倭」の戦いは大倭の勝利に帰した。その結果、厳奴は一部が「厳木町」(イツキ=伊都城)へ、大部は日本海の出雲に流された。

その際、崇神五十王権は、武器とともに厳奴の「神宝」を接収し、いわゆる三種の鏡・剣・玉なる神宝はすべて差し出させただろう。

しかし出雲に流されたオオクニヌシの末裔たちは、北部九州に覇を唱えていた間に漢王朝から貰った「漢委奴之国王の金印」については、うまく隠しおおせて出雲に持参したのではないだろうか。

崇神王権が北部九州から大和入りして前王権である橿原王朝に代わって「纏向王朝」を築いたのちに、おそらく漢籍に習熟した渡来人系の家臣の中から「後漢の光武帝から金印を授けられているはずですが、宮廷の倉庫にそれがございますか?」などと言われたが、そんなものは接収していない、ということになり、崇神天皇が出雲神宝の調査命令を出すことになった。

その当時の出雲の当主フルネは、大和の崇神王権から出雲神宝調査の使者が来ると聞き、「崇神王権に差し出すくらいなら、出雲に流される前に勢力を張っていた父祖の地に隠してしまおう」と思い立ち、筑紫に行ったのではないか。そして父祖の地の港であった志賀島の海岸べりに石組みを設置し、その中に金印を置いたのではないか。



以上の2説が思い浮かんだのであるが、「出雲神宝」が通常考えられる神宝とは著しく違い、他には絶対存在しない類のものであろうと仮説に託してみた。私としては後者説だが、両方であってもおかしくない。どちらも唯一のものだからだ。

しかし、天叢雲剣であるのならば、垂仁天皇の次の景行天皇の時代には伊勢神宮にあるのが分かっており、崇神から垂仁の2代にわたって出雲に調査団を送って家探しする必要はなかったであろう。とすれば「金印」だろうか。金印はまさに1500年後の天明4(1784)年まで、誰知ることもなく志賀島の海岸に眠っていたのだから――。












渡海人の初出(記紀点描⑩)

2021-08-16 16:55:34 | 記紀点描
「記紀点描⑨」では、日本列島に渡来した最初期の人物として、任那からのソナカシチ(ツヌガアラシト)と新羅からのアメノヒボコを取り上げたが、それでは列島から渡海して行った最初期の人物は誰なのか、記紀から抽出してみたい。

列島から渡海した最初期の人物は、実は、神武紀に登場した神武天皇の兄二人なのであった。

古日向に「天孫降臨」したニニギノミコトの2世代後はウガヤフキアエズノミコトだが、ウガヤフキアエズには4人の皇子が生まれている。長男を五瀬(イツセ)命といい、次男を稲氷(イナヒ)命といい、三男を三毛入野(ミケイリヌ)命といい、最後に神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)が生まれている。

最後の神武天皇を古事記では「ワカミケヌノミコト」としており、こちらの方が名称としては古いと思われる。

さてこの皇子たちの中で渡海して行ったのが、次男のイナヒと三男のミケイリヌである。

 【稲氷(イナヒ)命の渡海】

イナヒノミコトは、古事記では渡海の時期をまだ古日向に居た時のこととするが、書紀では東征の途中の熊野に来てからであった。

なぜ渡海したのか。

その理由は、古日向からはるばる熊野まで来た時に海が大荒れになった時、イナヒノミコトは「自分の母は海神であるのに、海に難渋させられる」と嘆き、剣を抜いて海中に入り、「鋤持神(サイモチノカミ)」となった、とある。

海中に入っただけで「渡海」とは言い難いと思われるが、『新撰姓氏録』の第五巻「右京皇別下」によると、このイナヒノミコトの後裔が「新良貴」(シラギ)だとあり、イナヒノミコトは新羅国王の祖であるとしている。

そんなバカなことがあるものかと一蹴されてしまいそうだが、実は、朝鮮の史書『三国史記』の中の「新羅本紀」には初代の赫居世王の時に倭人の「瓠公(ホゴン・ほこう)が重臣に就任したという記事があり、また第4代脱解(トケ・タケ)王は倭人そのものだという。

前者の瓠公の渡海の由来は皆目分からないが、後者の脱解については「倭国の東北千里にある多婆那国で生まれた」と記す。そうなると『新撰姓氏録』の「新良貴」姓の始祖イナヒノミコトこそがまさにこの第4代脱解に当たるのではないかと思われるのである。

では、脱解の出身地「多婆那(タバナ)国」とはどこであろうか。

解説書の多くは京都の「丹波国」ではないかとするが、私見では九州の「玉名」である。

丹波では倭国(の中心)を播磨国あたりに比定しなければならないが、整合性は無い。そもそもこの時代の倭国の中心は九州にあり、九州でも後のクマソ国とされる南九州は西海岸航路を通じて半島とは深いつながりがあった。

玉名は魏志倭人伝に記載の「烏奴国」であり、玉名市を河口とする菊池川の中流域に所在する5世紀の「江田船山古墳」の被葬者ムリテは、出土した鉄刀に刻まれた銀象嵌文字によると、「典曹人(文官)」だったことからも、当時、そこに、半島を経由した文物に明るい人物がいたことが知られる。
(※一般には5世紀の頃、大陸の文物は畿内王権を経由して九州に伝えられたとされるのだが、九州の豪族が直接半島を経由して大陸由来のものを導入していた可能性の方が高いと思う。須恵器なども半島から九州島に直接到来したはずである。)

なお、不思議というか面白いのが、脱解王が新羅第4代の王に就任して二年目に、あの初代赫居世王によって重臣に取り立てられた倭人の「瓠公(ホゴン)を、再び重臣として「大輔」に任命していることである。同じ九州島出身の倭人ということで寵遇したのだろうか。

 【三毛入野(ミケイリヌ)命の渡海】

ミケイリヌノミコトは、古事記では東征の前に「常世(とこよ)国に渡りましき」とあり、日本書紀では東征の途中の熊野で兄と同じく海に入ったと書かれている。その行き先は「常世」であった。

「常世」については垂仁記・垂仁紀ともに、三宅連(みやけのむらじ)の祖先であるタジマモリを常世国に派遣して「トキジクノカグノコノミ」を採って来させた—―という共通の記事がある。

この常世国のある場所について、古事記には記載がないが、書紀の方には、

 〈遠く絶域に往き、万里の浪を踏みて、遥かに弱水(ジャクスイ=よわのみず)を渡る。この常世国はすなわち神仙の秘区にして、俗の至る所にあらず。往来する間に、自ずから十年を経たり。あに、独り峻爛(シュンラン)を凌ぎて、また本土に向はむことを期せめや。〉

と記述があるように、往来に10年もかかるような絶遠の地であり、行くのは良いが二度と帰って来られないような荒波の向こうであることが分かる。

往来の可否は別にして、三男のミケイリヌも次男と同様、海に入ったことに変わりはなく、どちらも列島を離れて海外に行ってしまったということである。

この記事にある「弱水」であるが、『延喜式』第8巻「神祇八 祝詞」の中に、「東文忌部献横刀時呪」(やまとのふみのいみきべのたちをたてまつるときのじゅ)というのに出て来るのだ。

これは帰化人である東文忌部が天皇を寿ぐために刀を献上する際の祝詞(シュクシ=のりと)であるが、その中の一節に、「呪して曰く、東は扶桑(日本列島)に至り、西は虞淵(西アジア)に至り、南は炎光(東南アジア)に至り、北は弱水に至る。千城百国、精治万歳、万歳万歳!」とあるが、「北は弱水に至る」がそれである。

天皇の統治領域を最大限に表したまさに「祝詞(シュクシ)」なのだが、はるか北の果てという時の固有名詞として登場するのが「弱水」である。

弱水は実は魏書東夷伝の「夫余伝」にも登場している。東夷にある「夫余、高句麗、東沃沮、挹婁、濊、韓、倭人」の7か国のうち、最も北にあるのが夫余で、当時の戸数は八万を数え、今日の南満州に当たる国である。その一節は、

 〈夫余は長城の北、玄菟を去ること千里、南は高句麗と接し、東は挹婁と接し、西は鮮卑と接す。北に弱水あり。〉

秦の始皇帝がより堅固にしたという「万里の長城」の北側(満州)にあり、そこは玄菟郡(漢代の前108年に置かれた直轄地で遼東にあった)からは千里(徒歩であれば10日の行程)あり、南は高句麗と、東は沿海州の挹婁と、西は騎馬民の鮮卑(今の内蒙古)に接している。その北には弱水がある。

ここに出ている弱水はおそらく黒竜江(アムール川)に違いない。満州一の大河である。

夫余伝のこの弱水と、上の祝詞に出て来た弱水とは一致しているのではないか。アムール川なら北の極限として他の東西南の極限と同列に並べることが出来よう。

しかし書紀の説話の「タジマモリを常世に行かせ、そこからトキジクノカグノコノミという柑橘類の一種を採って来る」というのは不可能だろう。なぜなら、そんな北方で柑橘類の類が実ることはあり得ないからである。

そうなるとタジマモリが出かけたという常世国は、書紀の記事にあるように「神仙の秘区」であるとした方がよい。

しかし現実に、三宅連という豪族の祖先であるタジマモリはたとえ「神仙の秘区」であるにしても、海外のどこかへ行ってきて戻って来た。これは事実だろうと思われる。

そこがミケイリヌノミコトの渡ったという「常世国」と同じなのかどうかは定かではないが、神武天皇(私見では投馬国王タギシミミ)の時代の2世紀代に、九州島の航海系の海人が半島を往来していたことは「魏志韓伝」の記述からも間違いのないことである。

(※タジマモリの先祖は新羅からの最初期の渡来人「アメノヒボコ」であった。そのアメノヒボコを招来した(船に乗せて来た)のは九州島の航海系倭人であったことを見逃してはならない。)

 【追記】

以上の論考は、記紀に描かれ、人物名が特定された個人の中で、最初期に海を渡った人は誰だったのか――というものであり、特定の人物でなく「倭人」という一般名称なら、そのような倭人は相当古くから渡海していた。

中国の史書『論衡(ロンコウ)』の中の「第八 儒僧編」には、〈周の時、天下泰平にして、越裳(エッショウ=越地方に住む非漢族)は白雉を献じ、倭人は暢艸を貢ず。〉とあり、また、「第五十八 恢国編」には、〈成王の時、越常(=越裳)、雉を献じ、倭人、暢を貢ず。〉と見えている。

後者に登場する「成王」は周王朝の二代目で、紀元前1000年から1050年頃に王位にあったことが分かっているから、倭人の誰かは勿論、その倭人が日本列島のどこから大陸に渡ったのかの特定はできないのだが、とにかく、倭人が紀元前1000年という古い時代に大陸に渡っていたのは事実である。

その経路はおそらく朝鮮半島経由であっただろう。半島西部に沿う「沿岸航法」によれば確実に到達できるからである。



渡来人の初出(記紀点描⑨)

2021-08-13 10:29:35 | 記紀点描
【任那人・蘇那曷叱知(ソナカシチ)】

記紀のうち特に日本書紀には朝鮮半島や中国大陸からの渡来人が頻出するが、その中で最も早いのが書紀の崇神紀と垂仁紀に登場する「蘇那曷叱知(ソナカシチ・ソナカシッチ)で、この人は任那人であるという。崇神紀は次のように記す。

〈崇神紀65年秋7月、任那の国、蘇那曷叱知を遣わして朝貢せり。任那は筑紫国を去ること2000里余り、北の海を隔てて、鶏林(新羅国)の西南に在り。〉

崇神天皇はこの3年後に崩御しており、おそらく老齢で今はの際に近かった崇神天皇の見舞いの形で派遣された者だろう。任那は崇神天皇の和風諡号「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイソニヱ)」の「御間城(ミマキ)」の語源の地でもあるのだ。

この人物はまた、あとを継いだ11代垂仁天皇の代まで滞在しており、崇神天皇の崩御を見送り、さらに新天皇の垂仁の即位を見守ったことになる。中国王朝において、その皇帝の死と新皇帝の即位には周辺の諸王・諸族から「弔問」や「朝賀」の使者が送られたが、そのことを彷彿とさせる。

さてこのソナカシチが、朝賀の役を済ませて任那へ帰る時(垂仁天皇の2年)に、ちょっとした事件が起こる。それは任那の国王への土産として「赤絹100匹」(匹は2反であるから200反であり、相当な量である)を持たせたところ、道中で新羅人によって奪われた、というのである。そして、これがきっかけとなって任那と新羅との間に怨恨が生じたと書く。

その怨恨の結果が2世紀以上あとの6世紀(562年)の新羅による任那併呑であり、この「赤絹事件」は言わばその予言説話に当たる。

この記事の後に「一(ある)に曰く」ともう一つの「一(ある)に曰く」と前置きした説話があるので紹介しておく。どちらも長い説話なので、要点のみ略して記載する。

最初の「一に曰く」では、まずソナカシチの別名が記される。

別名①「意富加羅国の王子、名は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」及び別名②「于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)」が示されている。

つまり任那人ソナカシチは三つの名を持っているということである。「シチ(叱知)」は「ツヌガアラシト」の「シト」と「ウシキアリシチカンキ」の「シチ」と同義であり、魏志韓伝によれば「首長」の意味である。また「ウシキアリシチカンキ」の「カンキ(干岐
=旱岐とも書く)」は、やはり「首長」の新羅での用法である。

別名の①と②を比較すると結局最初の「ツヌガ」と「ウシキ」だけの違いとなる。私見では「ツヌガ」は「ツヌカ」で、「角鹿」すなわち福井県の敦賀」を想起する。また「ウシキ」は「ウシ=牛=大人」と捉え、「大人の港」の意味にとる。

「角鹿」は神功皇后が新羅征伐から凱旋したあと、武内宿祢が神功皇后の生んだ応神天皇(ホムタワケ)を連れて「気比大神(けひのおおかみ)」を参拝しに行った所であった。そこは半島南部との交流の地点でもあったから、半島南部のウシキ(大人の港)には角鹿(敦賀)からの倭人航海民がいたとしてもおかしくはない。

このウシキすなわち「大人の港」こそ、金海のことと推量する。金海の古い名は「金官伽耶」であり、魏志倭人伝に記された時点では「狗邪韓国」で、れっきとした倭国であった。任那とは5世紀初頭の高句麗好太王碑に「加羅」とともに刻まれた旧弁韓の倭人国のことであり、辰韓王であった崇神天皇の祖先が列島に移動する前に王宮を築いた由緒ある国であった。

ソナカシチはその任那王(王名は不詳)によって派遣された崇神天皇への弔問使であり、同時にまた垂仁天皇への朝賀使でもあったということになる。時代は西暦310年代のことであったと思われる。

もう一つの「一に曰く」だが、これは難波と豊前の二か所に祭られている「比売語曽(ひめごそ)神社」の由来譚である。

ツヌガアラシトがまだ国(任那=大加羅)にいた時分のこと、ある村で祭っているという白い石を貰い受け、床の辺に置いたところ、美女になった。交わりを持とうとしたが女は東へ逃げて行った。追いかけ、船を出して行き着いたのが倭国だった。その女は難波まで逃れて比売語曽の社に祭られたという。また、豊前でも祭られたという(※古事記では応神天皇の時代のこととし、難波の比売語曽神社を挙げ、祭神の名をアカルヒメとする)。

このことから言えるのは、最初の渡来人はツヌガアラシト(ソナカシチ)だけではなく、女神アカルヒメも招来されたということである。

 【天日槍(アメノヒボコ)】

日本書紀では垂仁天皇の2年にソナカシチ(ツヌガアラシト)が3年にわたる滞在を終えて任那に帰るのだが、それと入れ替わるように同天皇の3年に今度は新羅の王子「天日槍」が渡来する。この人も最初期の渡来人として扱うことにする。

古事記ではソナカシチの渡来説話はなく、この「アメノヒボコ」の渡来が最初である。しかも「天之日矛」と書き、垂仁天皇の時代ではなく、応神天皇の時に渡来したように書かれている。ここの齟齬は大いに疑問のあるところである。

まずアメノヒボコの漢字だが、書紀では「天日槍」と書いており、これはどうしても「アメノヒヤリ」としか読めないのだが、岩波本でも他の解説本でも「アメノヒボコ」としている。古事記が「天之日矛」と書く方に合わせたのだと思われるが、「アメノヒヤリ」と読んで差支えはない。しかし、ここでは古事記の方の「アメノヒボコ」を採用しておく。

次の方が大きな齟齬であるが、書紀では垂仁時代なのに、古事記では応神時代の渡来としてあるのはなぜかということである。

これは古事記の方がおかしいのである。その理由は、応神記のアメノヒボコ説話の最後の方で、アメノヒボコが但馬に定着し、その子孫を述べた箇所があるのだが、アメノヒボコの子孫の5代目が垂仁天皇のために常世国にわたって「トキジクノカグノコノミ」(橘のこととされる)を採って来た「タジマモリ」であると記している。

第15代の応神天皇の時代に渡来して来たアメノヒボコの5世孫であるタジマモリが、過去の第11代の垂仁天皇に仕え、トキジクノカグノコノミを採取して来るなんてことは金輪際あり得ないことである。

したがってアメノヒボコが渡来してきた時代は垂仁天皇の代としなければおかしい。これは古事記の編纂者である太安万侶は神武天皇の長男・カムヤイミミの裔孫であり、神武王統(投馬国王統)を断絶させた崇神王統が半島由来であることを糊塗するための造作であると考えてよい。(※同じ意図で造作したのが崇神と垂仁の和風諡号における「五十」の脱落であったことは以前に指摘した。)

さてこのアメノヒボコがもたらした「神宝」というのが次のようである。

1.羽太の玉 2.足高の玉 3.鵜鹿鹿(ウカカ)の赤石玉 4.出石の小刀 5.出石の鉾 6.日鏡 7.熊の神籬

の7種であった。これを定住した但馬国に保管して、常に「神宝」扱いをした、とある。

ところが分注に「一に曰く」として、神宝は7種ではなく8種あったとも書く。もう一つの神宝は「胆狭浅の太刀」で「イササノタチ」と読ませている。1~3は「玉」、4、5は「小刀と鉾」という武器、6は鏡であり、7は「ヒモロギ」と読み「祭礼の際の神の依り代」のことである。分注に見える「胆狭浅の太刀」は4,5と同様武器に当たるものである。

一方で古事記の応神記に載るアメノヒボコ招来の「神宝」は、1と2 珠(玉)が二種類、3.浪振る領巾(ヒレ)4.浪切る領巾 5.風振る領巾 6.風切る領巾 7.奥津鏡 8.辺津鏡 の8種である。

書紀と古事記の「神宝」にはかなりの違いがある。特に古事記の3~6が「領巾」という点である。この「領巾」が「太刀」であるのなら、古事記記載の神宝も「玉、太刀、鏡」という「三種の神器」に重なる物になるのだが、ここをどう理解したらよいのか、今のところ解釈に余る点である。

新羅(辰韓)王子のアメノヒボコは任那から渡来したソナカシチ(ツヌガアラシト)と違い、但馬の出石に定住しており、出石においてはこのような「神宝」を祭礼に使用したものと思われる。

同じく半島由来の崇神、垂仁両天皇の祭儀にはアメノヒボコが持参したような「神宝」を使用した可能性が高いだろう。両天皇がしばらく本拠地としていた糸島の「五十王国」において、「鏡・玉・太刀(剣)」の祭儀が始まったと理解してよいのかもしれない。

狭穂彦の反乱(記紀点描⑧)

2021-07-14 08:25:38 | 記紀点描
崇神・垂仁時代には国を揺るがすような大きな反乱が二度あった。

一つはすでに書いているが、「武埴安彦の反乱」であり、もう一つは「狭穂彦の反乱」である。

前者は崇神天皇が即位して間もない頃に起きた「橿原王朝」(南九州投馬国由来の王朝)側の抵抗であった。

武埴安(タケハニヤス)にしろ妃の「吾田媛」(アタヒメ)にしろどちらも南九州風の名を色濃く含んでおり、また、神武が天の香久山の土(埴)を採取して「大和の物実(ものざね)」としたのと同じことを吾田媛が行おうとしたことなどによって特定できる。

では狭穂彦による反乱はどういう性格のものだろうか。(※以降はサホヒコと書く)

この反乱の経緯は、垂仁天皇に嫁いだサホヒコの同母妹「沙穂媛(サホヒメ)」に恋情を抱いていたサホヒコが、サホヒメをそそのかして垂仁を亡き者にしようとことが発覚し、結果として垂仁の派遣した将軍によって二人とも焼き滅ぼされるというものである。

日本書紀では垂仁紀の4年から5年に掛けてその顛末がかなり詳しく描かれている。古事記では紀年が無いのだが、サホヒメが垂仁を小刀で刺そうとして逡巡する場面や、反乱の後にサホヒコが作った「稲城」(いなき)に籠城し、垂仁側の投降の勧めに応じずに二人とも稲城とともに焼き殺されるまでの場面は、歌舞伎の一幕にしたいくらいの文学的な描写に満ちている。

記紀ともにあらすじはほぼ同じで、一見してこのサホヒコとサホヒメの反乱は崇神・垂仁王権すなわち「大倭王権」(纏向王朝)への抵抗というよりも、当時でもタブーであった同母の兄妹が恋愛関係に陥ることを非とする説話に力点が置かれているように見受けられるのだが、一つだけ非常に気になる存在がある。

それは古事記では省かれているのだが、日本書紀には明確にその名を表されている二人の反乱を鎮圧平定した将軍「八綱田(ヤツナダ)」のことである。

書紀において八綱田が登場するのはすべて垂仁5年のうちの記事であるが、次に掲げてみる。


(1)すなわち近き県の卒(つわもの)発し、上毛野君の遠祖・八綱田に命じて、サホヒコを撃たしむ。

(2)すなわち、将軍・八綱田、火を放ちてその城を焚く。

(3)時に火熾(おこ)りて、城崩れ、軍衆ことごとく走る。サホヒコと妹とともに、城の中に死せり。

(4)天皇、ここに将軍八綱田の功をほめたまいて、その名を号して「倭日向武日向彦八綱田」という。


(1)では、サホヒコを攻撃する将軍に、八綱田という者を起用した、という記事で、八綱田は『新撰姓氏録』の和泉国皇別に記載の「登美首(とみのおびと)」によれば、豊城入彦の子であるから崇神天皇の孫に当たる人物である。この人が軍勢を率いて出陣した。

(2)では、サホヒコが作った稲城にサホヒメが逃げ入り、投降の勧めに応じなかった。火が放たれて稲城に燃え移る。(※しかし、生まれたばかりの皇子(ホムツワケ)だけは八綱田側に差し出す。)

(3)ついに稲城は焼かれ、サホヒコ軍の軍士たちは慌てて逃れるのだが、二人はその中にとどまり、焼死する。

(4)以上のようにしてサホヒコとサホヒメは亡き者になった。天皇は八綱田の戦功をほめたたえ、称号を授けた。それは「倭日向武日向彦八綱田」というものである。不可解なのはこの称号である。

「倭日向武日向彦八綱田」を一般には「ヤマトヒムカ・タケヒムカ・ヒコ・八綱田」と読むのだが、そう読んだのでは通り一遍、漢字に訓読みをあてただけの棒読みにしか過ぎない。

これは「倭日に向かい、武日に向かいし、彦、八綱田」と読まなければ意味が取れない。この意味は「倭日(大和)に派遣されて行き、武日(南九州)に派遣されて行きし男、八綱田」ととるべきである。

「倭日」はむろん「大和」を指し、大和においても武将として小規模な反抗を平定したことがあった。

また次の「武日」は「建日」とも書ける(武内宿祢は古事記では「建内宿祢」となる)から、イザナミによる国生みの中で筑紫(九州島)は4つの面からなり、南の面を「建日別」といったとあることから、「武日」は「建日」で南九州のこととしてよい。つまり八綱田は大和から南九州まで、各地で反乱軍を鎮圧して回ったのだろう。

そうと分かるとなおさらこの称号の意味が不可解と言えば不可解である。なぜ「武日に向かい(派遣され)」というような内容の称号がサホヒコの反乱を平定した後に名付けられるのであろうか。

そこで私はふと気が付いたのである。サホヒコの反乱こそが南九州で勃発した叛乱ではなかったのか、と。それならば「武日に向かった男」と称号された意味が取れるのである。

ではその反乱の中身とは何か?

結論的に言うならば、南九州投馬国から西暦170年代に大和入りして築かれた「橿原王朝」だが、100年ほどのちに北部九州「大倭」(崇神五十王国の発展した倭人連合)が大和に侵入し、橿原王朝が次第に「大倭王権=纏向王朝」に取って代わられつつあり(それへの抵抗がタケハニヤスの反乱=270年代前半の頃)、その情報を得た南九州投馬国側が救援軍を派遣しようとした。これは当然のことであろう。

しかしまだ北部九州には「大倭」が去った後でも崇神王権の勢力は残っており、南九州へはそれなりの監視軍を派遣していたはずである。したがって南九州投馬国はすぐには動けなかったに違いない。だが、10年後、投馬国王サホヒコはついに大勢力を結集して大和へ進軍しようとした。

そこへやって来たのが将軍八綱田に率いられた纏向王朝軍であった。西暦280年の頃ではなかったかと思われる。

サホヒコ軍は「稲城」(注)を築いて抗戦したが、大和においてすでに軍功勇ましい将軍八綱田の率いる軍隊の前になすすべなく、稲城とともに炎上し殺害されたのだろう。

サホヒメは、実は、まだ北部九州「大倭」の若きプリンスであったイキメイリヒコイソサチ(活目入彦五十狭茅)こと垂仁に10年ほど前に嫁いでいたが、「大倭東征」には付いて行かずに南九州に残っていたのではなかろうか。垂仁との子であるホムツワケ皇子はその頃もう10歳ほどで、八綱田は皇子だけは大和へ連れ帰ったものと思われる。(※ホムツワケは青年になるまで口がきけない啞者(おし)だったのは、母のサホヒメとの壮絶な別れを目の当たりにしたショックだったのかもしれない。)

以上のような展開を考えてみた。

要するに、「タケハニヤスの反乱」が大和における南九州投馬国系の橿原王朝側の反撃であった一方で、「サホヒコの反乱」は南九州の地で行われた投馬国の崇神・垂仁王権(纏向王朝)への抵抗であったと考えるのである。

北部九州「大倭」(崇神五十王国が発展した倭人連合)は大和への東征前から南九州の動向には目を光らせており、南九州の要衝である大淀川の下流域で当時は遠浅の渚であった「生目地区」に「都督」(監視軍)を常駐させていたものと思われる。この生目地区にある「生目古墳群」は、そのような「都督」たちの墳墓であるのかもしれない。かの「武日に向かいし」将軍・八綱田が眠っている可能性無きにしもあらず。

(注)「稲城」・・・いなき。稲を積み固めて作った城、というより砦。脱穀後の稲わらを、向きを交互に積んで行けば木の板壁の代用にはなる。雨に降られても水を含んでかえって堅固になる。矢を射られてもびくともしないが、乾いていたら火にはめっぽう弱い。八綱田は初戦では苦労したろうが、動物の油をしみ込ませた「火矢」を大量に放って勝利したのだろう。
 なお、鹿児島・宮崎(古日向)の伝説の巨人「弥五郎どん」は国分の「稲積」の出身で「稲積弥五郎」という名であるという説がある(宮崎県日南市、田ノ上八幡神社)。