goo blog サービス終了のお知らせ 

鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

崇神王朝はいつ始まったか(記紀点描⑦)

2021-07-07 09:43:28 | 記紀点描
三輪山のふもと、纏向の地に王朝を開いた崇神天皇は、「二人のハツクニシラス」(記紀点描②)でも書いたように、朝鮮半島南部のミマキ(御間城)すなわち後の任那から、九州北部の糸島(五十=伊蘇=イソ)に渡来し、そこで五十王国を築き、次第に勢力を伸ばして北部九州の倭人国家群を糾合した人物と考えている。

その様子を端的に表現したのが崇神の和風諡号「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコ・イソニヱ)」で、これは「半島南部のミマ(皇孫)の地に入り、その後、五十の地に渡来してそこで瓊(玉=王権)を殖やした」と直訳される。最後の「瓊(玉=王権)を殖やした」というのは、「勢力を拡大した」ということである。

そして魏志倭人伝において邪馬台女王国連盟を監督するために「伊支馬(イキマ)」を置いた勢力、すなわち「大倭」こそが崇神五十王権であったと見る。

後に垂仁天皇となった皇子の和風諡号にも「活目入彦五十狭茅(イキメイリヒコ・イソサチ)」と「五十(イソ)」を含んでいるのは、崇神・垂仁の親子二代にわたって五十王権を伸長させたことを物語っている。

垂仁の和風諡号には「イキメイリヒコ」とあるが、この「イキメ」は女王国への監督官「伊支馬(イキマ)」のことであり、垂仁はごく若い頃に女王国に派遣されて、監督官「伊支馬(イキマ)」の要職に就いていた可能性が考えられる。

ではこの崇神・垂仁親子が東征をして大和に入り、崇神王朝を開いたのはいつのことだろうか(1)。またなぜせっかく北部九州に樹立した「大倭」を捨てて大和へ行ったのだろうか(2)。そして崇神王権の前に大和に橿原王朝を築いていた南九州由来の「投馬国王権」との王朝交代劇の様子はどのようなものだったのだろうか(3)。

以上の3点について述べてみたい。

順番は違うが、まず(2)から始めよう。東征せざるを得なかった時代状況を見ておきたいからである。

半島南部の後の任那(加羅)と呼ばれる所に王宮(御間城)を築いていた崇神の先祖は、筑前風土記や「仲哀天皇紀」に見えるように、「我が先祖は半島の意呂山に降臨した」と言った糸島の豪族「五十迹手(イソトテ)」の先祖と重なるのだが、半島においては西暦204年に公孫氏が帯方郡を置いて植民地化すると、次第に南方への圧力が高まった。

その後3代目の公孫淵が魏王朝から派遣された将軍・司馬懿によって滅ぼされると、今度は魏の圧迫が始まった。これに危機を抱いた崇神は半島南部から北部九州の安全地帯である糸島(五十)へ王宮を移した。ただし王宮と言ってもおそらく「仮宮」(行宮)レベルの粗末な物であったろう。崇神の子の垂仁の和風諡号の「五十狭茅(イソサチ)」というのは、「五十(糸島)の狭く、茅葺程度の粗末な仮宮で生まれた、あるいは育った」ということを表していよう。

公孫淵が滅ぼされた同じ年に邪馬台国女王の卑弥呼が魏に初めて貢献している。

これはおそらく半島の魏による一円支配とそれに伴う混乱の様子を聞き、女王国の南部から虎視眈々と侵攻する機会を狙っていた狗奴国の動きが強まったためだろう。(※この時に魏による軍事的な介入を求めたのだが、結果としては破格の「親魏倭王」の金印を下賜され、その威光が狗奴国の侵攻を止めたようだ。)

さて五十の地(糸島)にやって来たとは言え、半島からは「一衣帯水」の距離でしかなく、また司馬懿将軍が半島を経由してやって来ないとも限らない。崇神と若きプリンス垂仁とで北部九州一帯に支配を広げたあとも、半島情勢には極力の注意を払う必要があった。

その不安がピークに達したのが、魏が滅びて司馬氏の晋が王朝を樹立した266年頃であったと思われる。既にあの大将軍司馬懿はこの世におらず、孫の司馬炎が皇帝に就いたのだが、今度は晋王朝が半島全体を植民地化し、その圧力が海を越えて来ないとも限らない。

北部九州の本拠地では心もとないと考えて不思議はないだろう。崇神はホームグラウンドの北部九州から安全地帯の畿内大和を目指すことにしたのだ。

(1)の崇神王朝の樹立年代について

西暦266年の晋王朝の樹立が引き金となり、崇神五十王権(「大倭」)は大和への「東征」を開始する。この「東征」は文字通り武力による侵攻とみてよいと思われる。日本書紀が3年半で河内に入り、その後も3年程度で大和に王朝を樹立したと書く「神武」は崇神のこととしてよい。(※その一方で古事記では16年もかかって河内に到達したと書く。これは南九州からの移住的東遷のことであろう。)

仮に晋王朝の樹立年の266年に「東征」に出発したとすれば、河内へは3年半後の269年から270年、さらにその後3年ほどであるから273年ないし274年の頃、遅くとも280年の頃には大和の纏向に新王朝「崇神王朝」が樹立されたと考えられる。

(3)前王朝である南九州由来の橿原王朝(投馬国王権)との交代劇について

私は最初の大和王権である橿原王朝は、南九州古日向にあった投馬国(『魏志倭人伝』)から、古事記が記すように河内に到達するまでまで16年もかかり、さらに畿内上陸後も7~8年を要してようやく樹立された王朝と考えるのだが、この王朝は神武(実はタギシミミ)ー綏靖(カムヌナカワミミ)ー安寧(シキツヒコタマテミ)と続いた。(※三代目のシキツヒコタマテミは本来シキツヒコタマテミミであり、最後の「ミ」の脱落だろう。)

この三代は7~80年続いたはずで、「二人のハツクニシラス」(記紀点描②)で述べたように投馬国王権の橿原王朝樹立は170年代であったから、崇神五十王権が樹立された270年代には4代目の治世だったことになる。

記紀ともに4代目は「懿徳天皇」だと記す。この懿徳天皇の和風諡号は「オオヤマトヒコスキトモ」で、前の3代とは打って変わった諡号である。しかも「オオヤマト」は漢字で「大倭」ではないか。この天皇こそが、大和最初の橿原王朝に取って代わったのが北部九州由来の崇神五十王権すなわち「大倭」であったことを如実に示しているのである。

では記紀の記録上で4代目をすり替えられた橿原王朝側の真の4代目は誰であったのだろうか。つまり270年代に始まった崇神王朝によって滅ぼされた旧橿原王朝の4代目の主は誰だったのだろうか。

結論から言うと、その当主こそ崇神天皇紀で叛逆を起こしたとされている「武埴安(タケハニヤス)彦と吾田媛(アタヒメ)」である。

この二人が南九州由来なのは、まずその名に表されている。武埴安の「武」とは古事記の国生み神話で南九州を「建日別」(建は武と同義)とあることで分かるし、吾田媛に至っては「吾田=阿多」なので、阿多媛であり、そのものずばりである。

さらにこの二人が南九州由来であることを示すのが、崇神紀10年の次の記事である。

〈 吾れ(崇神)聞く、タケハニヤスの妻アタヒメ、ひそかに来たりて、大和の香山(香久山)の土を採りて、領巾の頭に包みて祈り、「これ倭国の物実(ものざね)」と申して、すなわち帰りぬ。ここを以て事あらむと知りぬ。すみやかに図るにあらざれば、必ず遅れなむ。〉

アタヒメがひそかに香久山に登り、その土を採取して「これは大和の物実」と祈りつつ持ち帰ったらしいが、このことは戦いを挑む前兆であるから、後手に回ることなく成敗しよう――崇神はそう考え、タケハニヤスの反乱に備え、勝利したというのである。

この香具山の土を採取して戦いに勝利しようという行為だが、実は神武天皇(タギシミミ)が行っているのだ。橿原に王朝を築く2年前の次の下りである(「神武紀」己未年2月条)。

〈 (神武)天皇、前年の秋9月を以て、ひそかに天香久山の埴土を採りて、八十の平瓮(ひらか=皿)を作り、みずから斎戒して諸神を祭り給い、ついに区宇(天下)を安定せしむ。かれ、埴土を採りし所を名付けて「埴安」という。〉

神武(タギシミミ)が自ら斎戒して香具山の土でたくさんの平瓮を作って供物を神に供え、祈ったことで、天下を平定できたというのだが、アタヒメが香具山の土を採取した行為はこれと同じで、崇神側はタケハニヤスたちが自分たちに戦いを挑んで来る証拠と見たわけである。

アタヒメのこの行為はまさにアタヒメたちが橿原王朝の後継者であったことを示しており、タケハニヤスが橿原王朝の4代目だったのは間違いない。

「武埴安彦の反乱」とは、南九州由来の橿原王朝の4代目が崇神王朝(「大倭」)に取って代わられた「交代劇」に他ならない。それは西暦280年頃のことであった。崇神王朝(纏向王朝)の始まりである。<span>

タギシミミはなぜ殺されたのか(記紀点描⑥)

2021-07-05 15:27:16 | 記紀点描
タギシミミとは神武天皇(イワレヒコ)が「東征」を敢行する前、まだ南九州にいた時に生まれた皇子の名である。漢字で書くと古事記では「多芸志美美」で、日本書紀では「手研耳」だが、以下ではタギシミミと片仮名で書いて行く。

古事記ではこの長子タギシミミのほかに弟の「岐須美美(キスミミ)」がいたとしており、日本書紀にはキスミミについては省かれている。

この省かれた理由を「記紀点描⑤」の中で、キスミミは「神武東征」に加わらず、南九州に残り、その子孫が南九州で王権を維持していたのだが、律令制による国家統一の過程で南九州(古日向)を分割して薩摩国・大隅国を分立した際に、大和王府に叛逆を繰り返したので祖先のキスミミを抹消した――と考察した。

タギシミミはキスミミと違い父イワレヒコについて大和への東征を果たすのだが、橿原王朝樹立後にイワレヒコが娶ったイスケヨリヒメとの間に生まれたカムヌナカワミミ皇子、つまり腹違いの弟に殺害された、と記紀は記す。

その経緯は「綏靖天皇(カムヌナカワミミ)紀」に次のように記されている。

〈 (カムヌナカワミミが)48歳に至りて、カムヤマトイワレヒコ(神武)は崩御せり。時にカムヌナカワミミ、孝(親に従う)性にして悲しみ慕うこと已む無し。特に心を喪葬(葬儀)の事に留めり。
 そのまま兄(腹違いの兄)タギシミミ、行年すでに長けて、久しく朝機(みかどまつりごと)を歴たり。(中略)
 ついに諒闇の際に、禍心(まがごころ)を蔵(かく)して、二柱(二人)の弟を害せんと図る。〉

第一段落では、綏靖天皇になったカムヌナカワミミの孝心が篤く、48歳の時に亡くなった父イワレヒコの葬儀について心を砕いていたと、カムヌナカワミミを持ち上げている。

第二段落では、タギシミミが当時高齢であり、久しく朝の機(はたらき=まつりごと)を経ていたと書く。

第三段落では、そのタギシミミが腹違いの弟二人を害(そこな)おうとしていた、とする。

この第三段落こそがタギシミミを殺害する理由なのだが、その前の第二段落が不可解なのである。この一文を解釈すると、何と「タギシミミはイワレヒコが亡くなった当時、すでに高齢になっており、それまで長い間、朝廷のハタラキ(天皇のハタラキ)を行っていた」となるのだ。

つまり南九州から父とともにやって来たタギシミミは、実は天皇位に居た、と解釈できるのである。

綏靖天皇から第9代の開化天皇までは天皇としての事績はなく、后と皇子皇女の名、及び御陵くらいの記事しかないので、よく言われるように「欠史八代」なのだが、綏靖天皇紀にはこの看過できない一文があった。

実は私はこの一文を以て「神武天皇=タギシミミ」説を提唱している。

名に「ミミ」を持つのは魏志倭人伝上の「投馬国」の王であり、その投馬国は「半島の帯方郡から南へ船で20日の行程」にある南九州(古日向)であることが分かり、これと記紀の神武の皇子にも「ミミ」が付くことから、南九州からの「神武東征」は史実であり、しかも神武とはタギシミミその人ではないか――と。

ではその天皇位に居た神武ことタギシミミが、なぜ腹違いの弟に殺害されるという不名誉極まる死に方をしたのか。

これについては上で触れた「日本書紀にはキスミミを省いているが、それは大和王府が律令制による列島統一しようとする過程で、叛逆した南九州の豪族(具体的には肝衝難波を指す)の祖先がキスミミでは困るので抹消して書かなかった」のとダブるのだが、こっちの方は省くどころか「殺害して抹消」したのであった。

これはより強い「南九州否定」なのだが、そうであるのならば初めから南九州から大和へ行ったなどと書かずに、つまり南九州(古日向)からの東征など省いてしまえばよいではないか。

また「神武東征」が全くの造作であるならば、神武の子に、タギシミミだの、カムヌナカワミミだの、カムヤイミミなどという珍妙な名を付けず、例えば「大和入彦」「大和足彦」「若大和彦」などそれらしい名はいくらでも付けられるはずである。

それをそうしなかったということは、そう出来なかったということ、すなわち南九州からの「神武東征」は真実であったということであろう。

(※ただし私見の神武東征は「タギシミミ東征」であり、それはまた「投馬国による東遷」に他ならない。また、「タギシミミ」とは「船舵王」のことであり、キスミミは「岐(港)の王」のことである。)

古事記と日本書紀の齟齬(記紀点描⑤)

2021-07-01 13:21:33 | 記紀点描
古事記は、天武天皇の「帝紀を選択して記録し、旧辞をよく検討して真実を後世に伝えよ」との詔により、太安万侶と稗田阿礼が取捨選択して編纂したのを当時(712年)の元明天皇に献上した日本最古の歴史書である。

一方、日本書紀は同じく天武天皇に発した歴史書の編纂命令を受けて、天武天皇の皇子の舎人親王を中心に編纂し、720年に元明天皇の娘である元正天皇に上納した編年体の歴史書で、こちらが「正当な国史」(正史)となった。

同じ時期になぜ二書の「国史」が選上されたのか、日本書紀が正史であるならば古事記などは不要として抹消してしまえば良かったのではないか、など疑問を感じるはずである。

事実、鎌倉時代に古事記の最古の写本が見つかっても、江戸時代の半ばまで古事記は偽書扱いされていた。(※『先代旧事本紀』も偽書の扱いを受けた。今日でも偽書とする研究者がいる。)

幕末近くに及んで皇国史観が芽生えると再び古事記は日の目を見たが、明治以降は西洋の歴史観が主流を占めるようになり、またしても好事家以外、古事記を顧みる者がいなくなった。そしてほぼ偽書扱いのまま戦後に及んだ。

ところが昭和54年(1879年)に奈良県奈良市の山中の茶畑で、ぽっかり空いた穴の中から灰と少しばかりの焼骨が見つかった。そして何とその穴の中には『墓誌」があったのである。記された太安万侶の名と没年月日と位階により、紛れもなく太安万侶の墓と判明した。

太安万侶は古事記を元明天皇に献上した和銅5(712)年には確実に生きていた人物であり、これにより太安万侶の編纂したという古事記は偽書ではないことが確定した。

その結果昭和50年代には、奈良朝以前の歴史を振り返る際に日本書紀に加えて古事記も研究の対象になった。

とは言っても古事記には日本書紀にはある「紀年」(〇〇天皇〇年という年号の記載)がなく、そもそもそこが歴史書としては失格であった。ただ古事記には歴史以前の神話体系が明瞭に記されており、その分野においてはすこぶる研究に裨益したのである(※日本書紀にはほぼ出雲神話がない)。

そこで勢い奈良朝以前の歴史は日本書紀をベースに研究されることになるわけだが、古事記も参照程度に読まれてはいる。

私なども主に日本書紀を歴史研究の座右に置いているのだが、古事記を参照した時に、同じ天皇の時代の記録なのにどうしてここが違うのだろうかと首をかしげる箇所が多いのである。

【古事記と日本書紀の齟齬】

これを「古事記と日本書紀の齟齬」としてここで取り上げるのだが、この「記紀点描⑤」では、神武天皇と崇神天皇の時代における齟齬に限定して考察する。

これから挙げるのは、

①古事記には神武天皇の子としてタギシミミとキスミミの二人がいたと書くが、日本書紀ではタギシミミだけであるが、これは何ゆえか。

②神武天皇の兄弟には、長兄イツセノミコト、次兄イナヒノミコト、三兄ミケヌノミコトがいたが、イツセノミコトは「東征」中に戦死するのは記紀に共通だが、イナヒノミコトとミケヌノミコトを古事記は「東征」の前に、それぞれ海原と常世国へ渡海して行ったとするが、書紀では「東征」中の紀州熊野灘から渡海している。この違いはなぜか。

③東征で河内国に到るまでに要した期間が、古事記の方は16年余りだが、日本書紀の方はたったの3年半なのは何故か。

④日本書紀の崇神天皇紀で「船は必要なものなので、初めて船を作らせた」とあるが、同じ書の神武天皇紀では東征に出発するときの描写では「天皇、みずから、諸皇子、舟師を率いて、東に征きたもう」と、すでに「舟師(船を操る者)」を率いているのである。9代後の崇神天皇が初めて船を作らせたというのはおかしいが、これはなぜか。

⑤崇神天皇の和風諡号を古事記では「御真木入日子印惠(ミマキイリヒコイニヱ)命」とし、日本書紀では「御間城入彦五十瓊殖天皇」とする。後半部分の「印惠」と「五十瓊殖」という違いは何故なのか。(※次代の垂仁天皇も同様な違いがあるので、これも取り上げる。)

以上の5点が嫌でも目に付く齟齬である。それらはたまたまだろうか、それとも故意にであろうか。私見では「故意説」なのだが、以下に考察していく。

①=古事記では神武天皇の皇子としてタギシミミ、キスミミがいるとしてあるが、日本書紀でキスミミを省いている理由は決してうっかりミスではない。たった二人の皇子の一方を書き落とすことはあり得ない。

ではどうして日本書紀はキスミミを省いたのか。そこには当時の政治状況がかかわって来る。

古事記を選上した712年から日本書紀を撰修した720年までの間に、実は南九州で大きな出来事があった。それは「大隅国」の分立である。宮崎県域と大隅半島域を併せた日向国(古日向)から大隅半島側が切り離され新たに「大隅国」が誕生した。

誕生したと言えば聞こえがよいが、南九州側としては「無理やり誕生させられた。しかも国府は大隅半島からは遥か北の内陸だ(今日の霧島市)。戸籍を作れ、米を上納せよ、仏教を取り入れよだと、冗談じゃない。我等には我らの生き方がある。」という反発が起きるのは致し方ないだろう。しかも大隅半島部には「神武東征」には参加せず、故郷を支配するために残ったキスミミの後裔である「肝衝難波(キモツキナニワ)」という大首長がいた。

肝衝難波は大隅国設立を迫って来る王府軍と戦ったが敗れてしまった。その結果置かれたのが「大隅国」であった。「吾こそ大隅の国主である」との叫びも空しく、肝衝難波は断罪されたのである。

このように大和王府に叛逆した首長の出自が、かつて南九州から「東征」に出発した神武の一族、つまり天皇のルーツである一族などということは承認できなかったので系譜から抹消したのであろう。それがキスミミを省いた理由であった。

その一方で古事記にはタギシミミと並んでキスミミを神武の子として挙げてある。古事記の方が真実なのだが、いま述べた理由で正史である日本書紀からは抹消されたのであろう。

古事記の編集者である太安万侶は神武の子「カムヤイミミ」の後裔であるから、ルーツは南九州(古日向)であり、先祖の一人であるキスミミは落とせなかったのだ。

②=神武の兄弟イナヒノミコトとミケヌノミコトはそれぞれ海原に入ったり、常世に行ったりしているが、古事記では南九州にいるうちにそうしているのだが、日本書紀では行く先は古事記と同じだが、その渡海の時期を東征後の紀州熊野灘で困苦にあえいでいる時に渡海しているが、その時期のずれは何故なのか。

私は古事記の描写の方が真実だと思う。というのは南九州の特性の航海民、つまり鴨族としての活動を考えるからである。南九州を私は魏志倭人伝の記述から「投馬国」(帯方郡から南へ水行20日の場所)と比定したが、逆に言えば南九州から九州の西岸周りで20日ほどもあれば朝鮮半島の南部まで渡れると考えてよい。(※北部九州へはその半分の10日の行程になる。)

そうした条件を考えると南九州から半島へは、定期航路とまではいかずともそれに近い交易船が運航していたと思われる。この状況を描写したのが古事記のイナヒノミコトとミケヌノミコトの「南九州からの渡海」だろう。

これに対して日本書紀は、南九州からの半島渡海という事実をカモフラージュしたいがために、わざわざ南九州から遠く離れた紀州の海岸から「困苦に耐えがたく、やむを得ず海に逃れた」というように記述したと考えられる。

③=河内国までの「東征」に要した期間が、古事記では16年余、日本書紀ではわずか3年半なのはなぜか。

この点については「二人のハツクニシラスの謎」で書いているのだが、簡単に言えば、神武天皇の南九州からの「東征」とは別に、北部九州からの「崇神東征」があり、古事記は神武東征における期間を日本書紀は崇神東征における期間をそれぞれ表したもので、どちらも真実だと考えている。

同じ「東征」だが、神武(タギシミミ)のは「安芸国に7年」「吉備国に8年」も滞在しているから「移住的な東遷」であり、崇神のは文字通りの「東征」であったと思われる。

④=日本書紀の崇神天皇紀で「初めて船を作らせた」というのはおかしい。

神武東征が「舟師(海軍)」による船団だったと日本書紀には記されているにもかかわらず、崇神天皇の時代になって「初めて船を作らせた」はないであろう。これは書紀編纂上のミスなのだろうか。

編纂上のミスとすれば何ら疑念は起こらないが、私のように神武天皇とは別に北部九州からの「崇神東征」があったと考える立場からすれば、書紀編纂の上で神武天皇の9代目の子孫としてある崇神は、ずっと内陸の大和地方を治めていたわけで、船についてははるか9代も前の神武天皇が船団を組んで来たにしても、「もうすっかり忘れていた」ことにしたかったのだろう。

つまり崇神は先祖の神武が大和入りして以来、ずっと内陸大和を支配していた天皇であったことをことさら強調し、自身が北部九州から、それこそ船団で畿内に攻め入ったことを消去するための造作であると考える。

⑤=崇神天皇の和風諡号は古事記では「御真木入日子印惠(ミマキイリヒコイニヱ)命」だが、日本書紀では「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイソニヱ)天皇」である。和風諡号の後半が古事記が「印惠(イニヱ)」とあるところを、書紀では「五十瓊殖(イソニヱ)」だが、その違いは何故なのか。

これについては書紀の「五十瓊殖」について「五十」を「イソ」と読まずに「イ」と読んで「ソ」を脱落させ、古事記の読みに合わせるテクニックが使われているが、この「五十」は「ゴジュウ」と読まなければ「イソ」と読むしかない。現に書紀では「八十」と書いて「ヤソ」と読ませているではないか。

では「五十(イソ)」とは何か。これには二つの文献でそう読むように慫慂されているのである。

それは書紀の「仲哀天皇紀」と風土記「筑前風土記逸文」である。どちらも仲哀天皇が糸島を訪れた際に、当地の豪族「五十迹手(イソトテ)」が天皇にまめまめしく仕えたので、「伊蘇志(いそし)」き人物であるから、当地を「伊蘇国」とせよと国名を賜ったという。それから後世になって「伊蘇」が「伊頳(イト)」と呼ばれるようになったが、それは転訛で間違いである――と記す。

そしてさらにこの豪族の五十迹手(イソトテ)は「自分の祖先はは半島南部の意呂山に天下りました」と半島由来の豪族であるとも述べているのである。つまりはこの「五十(イソ)」を名に有する人物のルーツは半島だったということである。

古事記がこの「五十」をあえて「印」などとして隠したのは、崇神王家のルーツが半島南部であることもだが、編集者の太安万侶が南九州由来の神武天皇の長男家の系譜に連なっていることが大きい。何しろ最初の神武王朝を打倒したのがこの「五十王国」こと崇神王家だったのである。我が祖先の一族を亡き者にした崇神王家の九州島における根拠地「五十王国」について、書きたくはなかったに違いない。

また日本書紀でも「五十」と書いたはいいが、「イソ」と読ませず「イ」としたのは、糸島を根拠地にして北部九州に一大勢力を築き、その挙句、東征をして南九州由来の初代橿原王朝を打倒して天皇位に就いたことをカモフラージュし、10代目の崇神王権も初代神武天皇から一系でつながっていることを強調したかったからに他なるまい。

(※崇神天皇の次の11代垂仁天皇も和風諡号に同じような齟齬がある。古事記では「伊久米伊理日子伊佐知(イクメイリヒコイサチ)命」であり、日本書紀は「活目入彦五十狭茅天皇」と書く。例によって古事記は「五十」をわざと書かない。糸島の「五十王国」を認めたくないのだ。

日本書紀の和風諡号に従えば、崇神は「五十」(糸島)において「瓊(ニ、玉)」(王権)を「殖」やした天皇であり、垂仁は「五十」(糸島)において「狭」い「茅」(かや)葺きの王宮で生まれた皇子だったと解釈できる。そして垂仁は皇子だった頃に邪馬台国や投馬国に「活目」(目付、都督)という役目で入っていたのかもしれない。

南九州がルーツの太安万侶は「五十」も「活目」もどちらも無視したかったために、「伊久米伊理日子伊佐知」というような「日子」以外は訳の分からない漢字を当てて表現したのだろう。)

神武と崇神の「外来性」(記紀点描④)

2021-06-12 09:37:52 | 記紀点描
「記紀点描」の①から③にわたって、いわゆる「神武東征」なるものが、実は2回あり、最初のは南九州(古日向)投馬国からの「災害からの避難的な移動」であり、二回目のは北部九州の「五十王国」から発展した倭人連合すなわち「大倭」による「武力討伐的な移動」であったということを書いて来た。

そして、最初の大和王権である投馬国王タギシミミの橿原王朝が、約100年後にやって来た崇神王権によって取って代わられたその一つの証拠が「武埴安彦と吾田媛の叛逆」として描かれた(崇神紀10年)とも述べた。

だがもう一つ崇神王権による「投馬国王統追い落とし」の事件があった。

同じ崇神10年の記事に、「大彦命を以て北陸に遣わし、武渟川命を以て東海に遣わし、吉備津彦を以て西道に遣わし、丹波道主命を以て丹波に遣わす」といういわゆる「四道将軍派遣」の記事があるのだが、初めの3つまでは「北陸道」「東海道」「西海道」というように広範囲を鎮定する役目なのだが、最後の「丹波」についてはどうもしっくりこないのである。

丹波というのは今日でもさほど広い土地柄ではなく、こじんまりとした内陸の盆地に過ぎない。ここにわざわざ将軍クラスの丹波道主命を派遣する意味があるのかと誰しも考えるに違いない。

そこで古事記を参照すると次のようである。

<またこの御世に、オオビコ命を高志道に遣わし、その子のタケヌナカワワケ命を東方の十二道に遣わして、そのまつろわぬ人どもを和平せしめ給いき。また、日子坐(ヒコイマス)王をば丹波国に遣わして「玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)」を殺さしめ給いき。>

古事記には西海道に派遣されたはずの吉備津彦の登場は無いのだが、丹波についてはより詳しく書かれている。
(※丹波国に派遣されたのが崇神紀では「丹波道主命」、古事記ではその父とされる「日子坐王」という違いがあるが、今ここでは詮索しないことにする。)

丹波国には「玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)」という征伐の対象者がいたので殺害した、と古事記は書く。この「クガミミノミカサ」という人物とはいったい誰で、なぜ殺されなければならなかったのか、その理由は付されていない。

ところが「投馬国の王=ミミ」という観点からすれば、この人物も、南九州由来の橿原王朝の一族ではないかと見当がつくのだ。「クガミミノミカサ」とは

玖賀=京都北部「久我」(地名)
耳=投馬国王
御笠=王の名「ミカサ」

と分析される。要するに「京都北部の久我地方を支配する投馬国王統の一人である御笠」なる人物ということで、橿原王朝の一族が京都(山城)の北方を支配していたのである。

当然この人物もあとから大和に入って来た崇神王権の討伐の対象になったわけで、この人物は討伐の前に丹波方面に逃げ隠れていたのだろう。逃避先が山奥の丹波というのは、実は京都から丹波へは桂川(保津川)を溯れば到達する場所なのである。

もっとも京都から逃れるとすれば丹波もだが、丹後や若狭への道もある。どちらかと言えば大原を通過して行く若狭への道の方が逃げおおせるには確実だと思うのだが、丹波への道を選んだのには、次の理由があったものと思われる。

その理由は『山城国風土記逸文』に見えている。「賀茂社」という項目だが、全文は長いので要点だけを記しておくと、

1,賀茂社は、日向の曽の峰に天下り、神武東征に先立って大和の葛城に移り住み、その後山代から鴨川に分け入り、「久我の国の北の山基」に定住したカモタケツヌミ(賀茂建角身)を祭っている。
2,カモタケツヌミは丹波の神野のカムイカコヤヒメを娶ってタマヨリヒコとタマヨリヒメを産んだ。
3,タマヨリヒメが川で遊んでいる時に丹塗り矢が流れて来たので床辺に置くと、妊娠して男子を産んだ。その子はカモワケイカヅチといい、上賀茂社に祭られている。
4,カモタケツヌミ・カムイカコヤヒメ・タマヨリヒメの三柱は蓼倉の三井社の祭神である。

日向(古日向)から「神武東征」に先立って葛城に移り、それから北上してついに京都(山城)の鴨川上流の地(当時は久我といった)に定住した人物カモタケツヌミがいたという。そしてカモタケツヌミは「丹波のカムイカコヤヒメ」を娶ったのであった。

つまり、京都北方「久我の国」の南九州投馬国由来の王統(クガミミ)の始祖の母方が丹波出身だったということで、これだとクガミミノミカサが丹波に逃れた理由が了解される。母方の里を目指して逃れたわけである。

しかし丹波も安全な場所ではなかった。崇神側も母方の里という安全弁の隠れた反撃能力を警戒し、ついに崇神の弟のヒコイマス王をわざわざ派遣して追い詰め、殺害したようだ。


さて、このようにして最初の大和王権である南九州由来の投馬国(神武=タギシミミ)王権は、後発の崇神五十王権「大倭」に取って代わられたのだが、いずれにせよ、どちらも畿内大和にとってみれば「外来の王権」だったわけである。

不思議とどちらの漢風諡号にも「神」が付くが、もう一人の「応神天皇」さらには「神功皇后」まで含めて、すべて外来性の王権だった可能性があり、奈良時代にこれら諡号を考え出した淡海三船はそのあたりのことを知っていたのかもしれない。


二人目の「ハツクニシラス」崇神王権の東征(記紀点描③)

2021-06-11 13:08:11 | 記紀点描
「記紀点描②」の最後に書いたように、崇神天皇こと「ミマキイリヒコイソニヱ(御間城入彦五十瓊殖)」とは、朝鮮半島南部の「ミマキ(孫城)」に入り、さらに九州北部の「五十(伊蘇)」(糸島市)に拠点を移し、そこから勢力を伸ばして(瓊殖=玉を殖やし)北部九州全体(福岡県の北半)の一大勢力「大倭」の盟主となった王である。

ここで「大倭」というのは、魏志倭人伝に記載の倭人間の交易(市)や交流を監視する支配者のことで、邪馬台女王国の 官制の中で第一等官に挙げられている「伊支馬(いきま)=生目」がこれに相当する。福岡県八女市にあった邪馬台女王国は230年代の当時、北部九州の「大倭」の保護国のようになっていたと考えられる。

(※崇神の皇子・垂仁こと「イクメイリヒコイソサチ(活目入彦g五十狭茅)」は若い頃、この「伊支馬」の役目を持って女王国に赴任していたことがあった可能性がある。この点についてはあとの記紀点描で扱う予定である。)

さて崇神が九州北部糸島に築いた王権は「崇神五十王権」と呼べるものだが、この糸島こそが倭人伝上の「伊都国」だとする研究者がほとんどである。だが、糸島が伊都国では末盧国(唐津)からは東南ではないし、何よりも糸島なら壱岐国から直接船を着けられるのである。何もわざわざ途中で船から降り、危なっかしい海岸通りの隘路を歩く必要はない。

この不合理に注目した者がほとんどいないので、私が本(『邪馬台国真論』2003年刊)まで出して指摘するのだが、いまだに「伊都国=糸島」説がまかり通っている。ここを見逃すと、邪馬台国までの行程(道筋)はめちゃくちゃになり、「南」を「東」に変えたり、「一月」を「一日」にしたりと、自説に都合のいいように改変して怪しまなくなる。

畿内説は論外だが、九州説でも同様の誤謬を抱えたまま説を展開しているから「論者の数ほど邪馬台国がある」と言われるほどの「盛況」である。

末盧国(唐津)から素直に東南に歩けば(東南陸行500里すれば)、松浦川の上流に「厳木町」(伊都国)があり、下れば多久・小城(奴国)、大和町(不彌国)に至り、広大な佐賀平野を抜けて筑後川を渡り、南下して八女に到達する。ここが「(帯方郡から)南へ水行10日、陸行一月」の邪馬台国である。

「南水行10日、陸行一月」というのは帯方郡からの行程である。距離表記ではないことに気付かなければならないのである。そしてこの「水行10日、陸行一月」はまさに、「郡より女王国まで1万2千里」という記載に合致する。水行10日が1万里に、陸行一月は2千里に当たっているではないか。

投馬国も同様に不彌国からの「南水行20日」ではなく、「帯方郡から水行20日」なのであり、唐津までの水行が10日であったから、そこからさらに水行10日で到達する国である。そこは南九州(古日向)である他ない。

しかも倭人伝によると投馬国の王名が「ミミ」であり、女王(副官)の名が「ミミナリ」であるというが、記紀では神武の子に「タギシミミ」「キスミミ」がいるとし、さらに東征後の大和で生まれた皇子たちの名も「カムヤイミミ」「カムヌナカワミミ」とミミ名が付けられている。記紀どちらもが、南九州の投馬国が「東征」して大和に橿原王朝を築いたことを認めているわけである。

もちろん「南九州からの「神武東征」は造作に過ぎず、南九州に多い「ミミ」名を採用することで本物らしく見せかけたのだ」という考えもあるのだが、しかし、それなら初めから大和王朝の創始者らしい重々しい名を付ければよさそうなものではないか。そうしなかったということはそうできなかったという事だろう。南九州からの「神武東征」(私見では移住的な王権の移動)は史実としてあったとしなければなるまい。

さて、今回は崇神五十王権(大倭)の「東征」の話であった。

私はこの王権は崇神・垂仁の親子二代にわたる勢力の拡大で北部九州に「倭国連合」を形成したと考え、一言で「大倭」と言われたと考えている。そしてこの大倭が魏志倭人伝に国の概要(王名・戸数・官制)を載せられていないのは、大倭と魏王朝との間に「国交」つまり魏への朝貢も挨拶もなかったからだと思うのである。

そもそも崇神及び崇神の先祖が半島から南を目指したのは、大陸に魏王朝が成立して15年後の238年、魏は半島で自立していた公孫氏を滅ぼし、帯方郡を支配下に置いたことによる魏の圧力を避けるためだった。

半島から糸島へ王権を移してからは由緒ある王権として勢力を拡大するとともに、九州北部にあった大勢力との戦いや、邪馬台国との紛争が避けられなかった。しかしそれでも260年代までには九州内ではもう大倭に匹敵する勢力はほぼいなくなった。

だが、大陸で魏が晋王朝に取って代わられた266年頃を境に、再び半島情勢が逼迫した。この晋王朝を開いた司馬炎の祖父の司馬懿・大将軍の勇猛は半島内ではいまだに畏れられるほどで、孫の代になったとはいえ、いつまた半島への攻撃が行われるか危ぶまれ、もしかしたら朝鮮海峡を渡って九州島にまで矛先を向けるかもしれない。

そんな危機感の下で計画されたのが、列島の中央への「東征」だった。

これを「崇神東征」と私は呼ぶのだが、その時期は270年代と考えてよいだろう。古事記の「神武東征」の期間は畿内河内に着くまでに16年という長年月を要したとするが、これは東征とは呼べず「移住」に近いのではないかとした。それに対して日本書紀の「神武東征」の期間はわずか3年である。

同じ東征期間なのに一方は16年、もう一方は3年という大きな違いは、東征は二度あり、古事記の16年は南九州からの投馬国の東征(移住)期間であり、日本書紀の3年というのは北部九州からの崇神東征(大倭東征)だったと考えると整合を得るのだ。

この崇神東征(大倭東征)の時期は上で見たように270年代だと考えられ、その時に滅ぼされた南九州由来の橿原王朝の主こそ、崇神紀の10年に登場する「武埴安彦(タケハニヤスヒコ)」と「吾田媛(アタヒメ)」だろう。

武埴安彦の「武」は「武日(古事記では建日)」で南九州(クマソ国)の出自を物語るし、吾田媛に至っては「吾田=阿多」で、鹿児島県薩摩半島部の古名そのものである。

この王と王妃の組み合わせは、まさに南九州古日向の投馬国の「ミミ(王)・ミミナリ(女王)」体制の継承者であることを示している。

さらにこの武埴安彦・吾田媛のコンビが南九州由来の橿原王朝の後継者であることを明示するのが、次の記事である(文字の改変あり)。

<吾(崇神)聞く、武埴安彦の妻アタヒメ、ひそかに来たりて、倭(やまと)の香久山の土を採りて、頭の領巾に包みて祈り「これ、倭国の物実」と申すして、すなわち帰りぬ。これを以て、事あらむと知りぬ。すみやかに図るにあらざれば、必ず遅れなむ。>(崇神10年)

アタヒメが天の香久山の土を採取して、「これは大和の物実(ものざね)」といって持ち帰ったのは、反逆のしるしだとしてすみやかに応戦の準備をするようにーーと崇神が危惧しているシーンだが、これとほぼ同じシーンが神武紀にあるのだ。次の記事である(改変あり)。

<天皇、前年の秋9月を以て、ひそかに天香山の埴土を採りて、八十の瓮(ひらか)をつくり、自ら斎戒して諸神を祭り給ひ、ついに区宇(天下)を安定せしむ。かれ、埴土を採りし所を埴安といふ。>(神武即位前紀)

アタヒメも神武(タギシミミ)もどちらも全く同じように天の香久山に登って埴土を採取しているのである。神武は大和平定の戦いに勝利するように埴土で八十の瓮を作り、そこに供餞して神々を祈ったのだが、アタヒメも同じようにしたはずである。

この行為は崇神にしてみれば反逆者の反抗的な行為であり、許せないものであったのだが、アタヒメ側にしてみれば我が王朝を簒奪しようとする崇神側への対抗策であった。

神々への祈りも空しく、南九州から「東征」して初めての王朝を築いた投馬国王権は滅亡に向かう。タケハニヤス・アタヒメはその5代目くらいの王と女王であった。西暦280年代のことと思われる。