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鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

古日向のヒメたち(記紀点描㉜)

2021-11-13 19:18:28 | 記紀点描
【はじめに】

「古日向」とは地理的に言えば、現在の鹿児島県と宮崎県を併せた広大な地域である。

702年に(古)日向から薩摩国が分立され、713年には同じく(古)日向から大隅国が分立されて、(古)日向は「日向・薩摩・大隅」の三国になったのだが、「日向」がそのまま宮崎県域に旧国名として残った。したがって713年以前の日向とそれ以降の日向国は全く別国と言ってよい。

しかしながら713年以前の古代史において、単に「日向」というと、今日の宮崎県域のことだと矮小化して捉えられてしまう傾向が強いため、私はわざわざ「古」を冠して表現している。

したがって、713年以前の「日向」を私は「古日向」と表記することにしている。タイトルに「古日向」としたのは、考察対象の年代が713年以前のことが中心だからである。

今日的には「南九州」と置き換えてもいいのだが、やはり記紀には「日向」と記載されているので、これを尊重しつつ「古日向」とした。

以前のブログでは「南九州(古日向)」という書き方をしていることが多々あるが、必要に応じてその表現をする場合があるので了解願いたい。

【古日向のヒメたち】

ヒメを古事記では「比賣(売)」と書き、日本書紀では「媛」(姫ではない)と書く。

古事記の書き方の方が明らかに古く、応神天皇の時代にウジノワキイラツコが漢字・漢文を習った時(405年頃)に、漢字の「音」を発音記号のように取り入れ、いわゆる「万葉仮名」として記録したわけで、おそらく400年代前半には、倭語の発音に合わせて「ヒメ=比売」が成立したものと思われる。

古日向において最初に現れるヒメは皇孫初代のニニギノミコトの妻になった「カムアタツヒメ」(別名コノハナサクヤヒメ)で、山の神オオヤマツミの娘である。薩摩半島の米どころ金峰町の古名「阿多(アタ)」に因んだ名とされる。

次はカムアタツヒメから生まれた三皇子のうち三番目のヒコホホデミ(古事記ではホオリノミコト)の妻となったトヨタマヒメである。トヨタマヒメは海の神ワタツミの娘で海中にあるイロコ(鱗)の宮に住んでいたとされ、ホホデミが失くした釣り針を探しに訪れて恋仲になった。

3番目は、そのトヨタマヒメが産んだウガヤフキアエズノミコトの妻になったトヨタマヒメの妹のタマヨリヒメである。

4番目は、ウガヤフキアエズの妻になったアイラツヒメ(吾平津媛。古事記では阿比良比売)であり、この名はヒメの出身地であると思われる鹿屋市吾平町に因んでいる。

以上の4人のヒメが天孫降臨神話(日向神話)に登場するヒメで、この時代は神話学の対象とされており、実在しないヒメたちであろうというのが学説である。古事記の記述でも、上・中・下の三巻に分けた記述のうち、このウガヤフキアエズ時代までを上巻としており、まさに「神話的な内容」であるという認識で書かれている。

したがってカムアタツヒメ・トヨタマヒメ・タマヨリヒメ・アイラツヒメの4人は神話的人物となり、実在性はきわめて乏しい。だが、最後のアイラツヒメはもちろん特定の人物を指しているのではないが、鹿屋市吾平町を含む大隅半島全体を代表する女王と言ってよい存在ではなかったかと思う。

(※吾平町にはこのアイラツヒメを主祭神とする「大川内神社」があり、吾平富士と呼ばれる中岳から伸びる小高い尾根筋に建てられているのだが、そこは古墳の類ではないかと感じられる趣のある場所である。また義父・義母に当たるウガヤフキアエズとタマヨリヒメの御陵「吾平山上陵」も存在する。)

<景行天皇妃として>

実在性が最初に感じられるヒメは、景行天皇時代に3人現れる。

いすれも景行天皇妃となった襲武媛(そのたけひめ)、日向髪長大田根(ひゅうがのかみながおおたね)、御刀媛(みはかしひめ)の3人である。

襲武媛は水沼別の祖となった「国乳別」と火国別の祖となった「豊戸別」を産み、日向髪長大田根は「日向襲津彦皇子」を産み、御刀媛は日向国造の祖となった「豊国別皇子」を産んでいる。

全てが景行天皇の皇子かどうかは眉唾だが、どの皇子も九州島内の地名を追認できる名の始祖であるから、造作(でたらめ)とは思えない。

さらに実在性の高いのは、同じ景行天皇の記事に登場する「諸県君泉媛(もろかたのきみ・いずみひめ)」であろう。このヒメは景行天皇の妃となってはおらず、景行天皇が日向にクマソ征伐に来て征伐完遂後に「おもてなし」をしたという女首長である。諸県は今日の宮崎県南部のほとんどを占める広大な地域であった(景行天皇18年条)。

<応神天皇妃として>

応神天皇には10人の后妃がいたが、その中に「日向泉長媛(ひゅうがのいずみながひめ)」がいた。二人の皇子を産んでいる。この「泉」は薩摩半島の出水のことで、その出水地方の「長」つまり「おさ」であったヒメだろう。

この人は、西暦700年に大和王朝からの国覓使(くにまぎのつかい=調査団)に対して狼藉を働いたとされる「薩摩ヒメ・ハズ・クメ」という女首長の存在をほうふつとさせる。

<仁徳天皇妃として>

仁徳天皇をして次の歌を詠ませたほどのヒメがいた。諸県君牛諸井の娘・髪長媛(かみながひめ)である。

<道のしり(後) こはだ乙女を 雷のごと 聞こえしかども 相枕まく>
<道のしり こはだ乙女は 争わず 寝しくをしぞも 愛しみ思ふ>

と、「雷のごと」くに、評判が鳴り響いていた乙女を手に入れた喜びあふれる歌である。

仁徳天皇には正妃のイワナガヒメ(葛城ソツヒコの娘)がいたが、イワナガヒメは大変嫉妬深く、仁徳天皇が美女にちょっかいを出させまいと睨みを利かせていたようだが、髪長媛との確執は記事に無い。髪長媛は大日下(草香)皇子とハタビノワキイラツメ皇女を産んでいる。

このオオクサカ皇子は允恭天皇が天皇位に就かなければ、天皇になっていた可能性の高かった人物であるが、安康天皇によって殺害されてしまう。その代わり、妹のハタビノワキイラツメは後に雄略天皇の后妃となった。

髪長媛がわざわざ日向から輿入れしたということと、ヒメが産んだ皇子大草香が殺害されたこととは、セットで考えるべきで、ともに日向の一大勢力を抑えるための事績であったとしてよいだろう。それほど日向の勢力は大きかったのである。

しかし残念ながら応神天皇と武内宿祢およびその一族が君臨していた南九州古日向は、任那(旧弁韓)を拠点とする半島諸国との交渉、特に対高句麗戦などにより戦力を動員していたため、次第に疲弊しつつあった。

この状況を反映したのが、髪長媛の入内とその子のオオクサカ皇子殺害であろう。

髪長媛とは「神長媛」であり、神を主宰する能力を持ったヒメということであるから、そのヒメを入内させるということは、日向の祭祀権を奪う(取り上げる)ことでもあったし、併せて天皇就任に近かった日向の血筋のオオクサカ皇子は亡き者にされた。これで神功皇后及び応神時代に復活するかと思われた日向は埋没する羽目になってしまったのである。

  




吉備という国(記紀点描㉛)

2021-11-11 10:52:05 | 記紀点描
【吉備の児島と吉備海部直(あまべのあたい)】

ブログ「記紀点描㉚」では、敏達天皇の12年(583年)に百済の最高級官僚であった達率の日羅(にちら)を招こうとして「吉備海部直羽嶋(きびのあまべのあたい・はしま)」を派遣したことを書いたが、吉備は5世紀後半に「造山古墳」という全長が350メートルもあるような巨大古墳(全国で第4位の規模)を作るほどの大国であった。

吉備(のちの岡山県全域と広島県の東部)には東から吉井川、旭川、高梁川、芦田川という大きな川が、おおむね北から南に向かって流れており、水田の開発に適した地域である。

この吉備の記紀における初出は、古事記のいわゆる国生み神話で、「吉備児島」として登場する。そしてこの児島の古名を「建日方別(たけひかたわけ)」といった。

「建日別」とは筑紫(九州島)の4国のうち「熊曽国」の別名(古名)であったから、単純に演繹すれば「建日方別」とは「建日別」の「方分け」要するに「片割れ」であったことになる。

こんなことが有り得るだろうか?

私見では「神武東征」すなわち「南九州(クマソ国)に所在した投馬国の王タギシミミの東遷」は史実であったとしており、瀬戸内海を東へ移動した先に辿り着き、8年を過ごした吉備児島(当時は本当の島だった)を南九州(クマソ国)の片割れ(方別)とみなして名付けられたのが「建日方別」であって何ら齟齬はない。

この吉備児島は当然ながら海上に浮かぶ島であったから、住民は海民と言ってよく、「吉備海部直羽嶋(きびのあまべのあたい・はしま)」は吉備児島を領有した航海系の首長であったに違いない。

吉備海部直家からは羽嶋のほかにも難波や赤尾など、航海に習熟した首長がその役割を果たしている。

吉備海部直の一族、もしくは先祖の墓と思われる古墳が、児島半島の尾根筋に残されている。また吉井川の河口付近の牛窓地域には、天神山・鹿歩山・二塚山の古墳群があり、これも一族のものだろう。

吉備国は平野部では豊かな実りがあり、北部の山間地帯から産出される砂鉄による製鉄があり、さらにこの吉備海部直の航海(海運)業によって経済状況は全国でも屈指であったと思われる。

【吉備国豪族の系譜】

日本書紀では、最初に登場する吉備は第7代孝霊天皇の時で、天皇の妃ハエイロドの子として産まれた稚武彦(ワカタケヒコ)が、吉備臣の始祖であるという。(※一方、古事記ではその前の第6代孝安天皇の二皇子のひとりに「大吉備諸進(おおきびもろすす)命」が生まれていると書かれるが、この皇子の経歴については不明である。)

その後、第10代崇神天皇の時代になり、全国平定の武将として派遣されたいわ四道将軍の中に「吉備津彦」があらわれる。吉備津彦はいましがた述べた孝霊天皇時代に、天皇の子として生まれた「五十狭芹彦(いそさせりひこ)命」の別名であるが、西道(西海道)に派遣されている。

稚武彦(ワカタケヒコ)も五十狭芹彦(いそさせりひこ)も、私見では筑紫(九州島)に縁があり、前者は「武(たけ)」を持つことから南九州クマソ(建日別)とは近縁であり、後者は「五十(いそ)」を持つことから北部九州糸島郡(五十王国)との近縁である。

そのために西道(西海道)に派遣されたのだろう。

(※古事記によるとワカタケヒコ(若建吉備津彦)は下道臣・笠臣(備中)の祖で、吉備津彦(大吉備津彦)は上道臣(備前)の祖であるとされる。そして二人のキビツヒコが共に「吉備を言向け和した」と書くが、ワカタケヒコが最初に吉備を統治していた中に、あとから大吉備津彦が備前の方を分割統治した可能性が高い。)

この次はぐっと飛んで、応神天皇時代となるが、応神天皇の妃の一人に「兄媛(エヒメ)」がいたが、この人は吉備の出身であった(割注によると吉備の御友別の妹)。

このヒメが難波から海を眺め、ため息をついた。天皇がそのわけを聞くと、「父母が懐かしいので、ふるさとの吉備に帰りたい」とのこと。天皇は「嫁に来て何年も経つが、そういえば吉備には一度も帰らなかったな」と、帰省を許した(応神天皇22年3~4月条)。

諸天皇に関する記事で、嫁(皇后・妃)がホームシックに罹り、そのため天皇が実家に帰ることを許すなどという記事はここのほかに無い。それだけ稀有なことなのだろうが、この記事が堂々と載せられたのは、いかに吉備の勢力が強かったかを示唆する意味があるようだ。

同じ年の9月、応神天皇は淡路島に狩に出かけたが、その際に吉備に立ち寄ったという。ここで天皇が吉備の実家に帰った兄媛(エヒメ)を見舞う(?)かと思いきや、エヒメの兄の御友別(みともわけ)が饗応しただけで、肝心のエヒメの姿は現れないのだ。

では天皇はどうしたかというと、吉備を御友別の子供たちに分割支配させるようにしたのである。

吉備を六つの領域に分けて治めさせたと書く。それぞれの領有地によって下道臣、上道臣、香屋臣、三野臣、笠臣、苑臣という名の豪族の始祖になったという。そして、最後に何とエヒメが登場し、織部(はたおりべ)が授けられたのであった。

エヒメの吉備への里帰りが、結局、応神天皇の吉備分割政策につながるという記事なのだが、この分割政策に対して吉備側は抵抗をしていない。エヒメが実家に帰ることができたことを悦べばこそなのか、それとも実家に逃げ帰った嫁の実家が、かたじけないから天皇の思し召しのままにということなのか、分割統治になんら異議を唱えなかった理由は一体何なのか?

そのヒントが笠臣の始祖になった御友別の弟の「鴨別」の存在にあった。

鴨別(かもわけ)は実は神功皇后が夫の仲哀天皇が亡くなった後、神意を悟らなかったため夫が急逝したわけを知りたくて神がかりになっていろいろな神を下ろしたあと、クマソ征伐に派遣されている。

その結果は「いまだ時を経ずして、クマソは自ずから恭順した」というのである。ここは首をかしげるところだが、鴨別が吉備つまり「建日方別」の出身であれば、クマソすなわち「建日別」とは同族の関係になる。したがって戦わずして向こうから恭順して来たのだろう。

このことはまた、南九州(クマソ国)に本拠地のある応神天皇への恭順にもつながるのである。だから吉備最大の豪族御友別は分割統治を受け入れたのである。

次に雄略天皇の時代に吉備国を巡って注目に値する出来事が二つあった。

二つの事件は同じ年(雄略天皇7年=463年)に起きているが、一つは吉備下道臣前津屋(さきつや)一族の没落事変であり、もう一つは吉備上道臣田狭(たさ)の左遷事件である。

最初の前津屋は、少女たちを闘わせ、雄略天皇とみなした小さいほうの少女が勝つとこれを殺し、また闘鶏で、やはり小さい雄鶏を天皇とみなし、小さい方が勝つとこれを殺したという。このことが天皇に知れ渡ることになり、物部の兵士を30人派遣して、一族を皆殺しにした。

次の田狭は、田狭の妻自慢が天皇の耳に入り、天皇はその妻を我が物にしようと、田狭を「任那国司」に任命して赴任させ、その間に田狭の妻ワカヒメを略奪されたという。

田狭はそのことを聞き、任那にとっては敵であった新羅に救援を頼もうとした。天皇はさらに田狭の子弟君を半島に送り新羅を討たせようとしたが、弟君は百済に行き、新羅を討とうとしなかった。そのため弟君は殺害されてしまう。

田狭のその後は情報がないが、おそらく任那にそのまま居着いたのだろう。

この二つの事件は雄略天皇の吉備弱体化政策の一環を示すものだ。吉備の国力は最初に触れたように陸海の活力がともに高く、特に「真金(まがね)吹く吉備」と言われるように製鉄が盛んであり、塩をはじめとする海産・農産に富んでおり、天皇家もうかうかとしていられないほどの実力があった。

巨大古墳である「造山古墳」(350メートル)「作山古墳」(280メートル)などは、ひそかに雄略天皇と覇を争った下道臣前津屋一族の残したものではないかと思われる。



漢字の伝来と使用(記紀点描㉚)

2021-10-27 14:39:11 | 記紀点描
【漢字の伝来】

漢字そのものが公式に列島に伝来したのは、記紀によれば応神天皇の時代である。

応神天皇の15年8月の記事に、<百済の王、阿直伎(アチキ)を派遣して、良馬を二匹貢献した。(中略)阿直伎、よく経典を読めり。即ち太子ウジノワキイラツコは師とし給う。>とあり、応神天皇の皇太子であるウジノワキイラツコが、百済からやって来た阿直伎(アチキ)という使者に経典を習ったという。

この時漢字で書かれた正式な経典を阿直伎が持参していたのかどうかは分からないが、応神天皇は「もっと学識の優れた師匠はいないか」と催促したところ、阿直伎はそれならということで、王仁(ワニ)という者を紹介したので、荒田別と巫別の2名を百済に派遣して連れて来させた。

応神16年に王仁が渡来し、この時は正式な経典を種々持参しており、ウジノワキイラツコは本格的に漢文を習得し始めた。

これが正式な漢字伝来ということになる。同じ16年条には、<この年、百済の阿花王(第17代阿莘王)みまかりぬ。>とあることから、この年とは西暦405年であると分かる。皇太子のウジノワキイラツコが列島で最初の漢字習熟者だということも。

(※古事記「応神記」によると、応神天皇の崩御年は412年であり、その後皇子のウジノワキイラツコとオオサザキが後継を3年間譲り合い、結局ウジノワキイラツコが自殺したので、オオサザキが即位した。仁徳天皇である。しかし播磨風土記には「宇治天皇」という記載があり、後継の譲り合いをしたという3年は、実質的に宇治天皇すなわちウジノワキイラツコが天皇であった可能性が高い。

 宇治地方(淀川から木津川流域)と奈良県北部の和珥氏の勢力を背景にしたウジノワキイラツコと、河内地方から大和川流域を勢力下においたオオサザキ(仁徳)との後継争いがあり、結果として仁徳側が勝利を収めたのである。)

ところで、『三国史記』の「百済本記」第13代近肖古王の項によると、その時代(346~375年)以前には、百済はまだ文字を記すことができず、高興という博士を招来して初めて記録ができるようになった、とあり、百済もウジノワキイラツコが漢字を習得した頃からわずか50年前まで文字の使用はなかったと言っている。

要するに魏書などでいう「東夷諸国」(朝鮮半島と倭人列島)で、文字(漢字)が正式に使用されるようになったのは、4世紀後半ということになる。

【漢字使用の証拠】

列島で漢字を正式に紙もしくは木片(木札)に書き記すようになったのは7世紀以降だが、それ以前ではいくつかの「金石文」の発見・発掘によって、わが国で最初期の「漢字の使用」が明らかになっている。

その証拠の金石文とは(1)東大寺山古墳出土の鉄刀銘 (2)石上神宮の七枝刀銘 (3)隅田八幡宮の人物画像鏡銘 (4)稲荷山古墳出土の鉄剣銘 (5)江田船山古墳出土の太刀銘 (6)千葉稲荷台1号墳出土の鉄剣銘 (7)島根岡田山1号墳出土の鉄刀銘 などである。

(1)東大寺山古墳出土の鉄刀銘(意訳して示してある)

 <中平〇年五月、良き練がね(良質の鉄)で作ったもので、天上でも天下でも幸運をもたらす・・・>

東大寺山古墳は奈良県天理市櫟本町にある前方後円墳で、全長130メートル、4世紀半ばの造営とされており、一帯は和珥氏の勢力圏であったので、和珥氏の首長が埋葬されていると考えられている。

副葬品は数千点に及び、鉄刀だけでも7振りもあったという途轍もない権力者の墓であった。その一本に「中平〇年」と金象嵌がされていた。中平は後漢の霊帝時代の年号で、西暦184年から190年までを指すから、上にあげた7つの金石文では最も古い。

この銘文からわかるのは鉄刀が造られた年号だけで、誰が、誰に、何のために作ったかは不明である。しかもこの銘文を刻んだのは倭人でないことも明白で、列島に漢字がもたらされた400年頃からすれば、200年以上もさかのぼることになる。

おそらく和珥氏の祖先にあたる人物(おそらく武将)が、半島に居た頃に後漢の誰かから手に入れた伝世物だろう。一番可能性が高いのは、神功皇后が長門の豊浦宮から畿内に向かう途中で押熊王の叛乱に出くわすのだが、その押熊王と戦って勝利した「武振熊(たけふるくま)」という将軍だろう。この人物は「和珥氏の祖」と形容されている。ただし東大寺山古墳に葬られた時期としては4世紀末頃ではないか?

(2)石上神宮の七枝刀銘(同上)

<泰和4年5月16日、百錬の鉄をもって七枝刀を造る。百人の兵を遠ざけることができる。(中略)先の世以来、このような刀は有らず。百済王の世子(太子)奇生聖音、それゆえ倭王旨のために造りて、後世に伝えたい。>

泰和とは東晋の年号で「太和」というのがありその誤字だろうと言われている。西暦の369年である。

制作の年月日まで記録されているのは稀であるが、それだけこの七枝刀の贈り主は貰い主に対し、強く明確な贈呈の意志を持っていたということでもある。

その贈り主とは「百済王の太子(跡継ぎ)である奇生聖音」という人物で、倭王で旨(し)に対して贈った物である。

この西暦369年時点での百済の王は「百済本記」によると「近肖古王」で治世年代は346年から375年である。すると太子は子の「近仇首王」であるが、ここに刻まれた「奇生聖音」という名とは似ても似つかない。強いて言えば近仇首王の幼名は「貴須」(キス・キシュ)であるから、「奇生(キショウ)」と重なり、「聖音」は美称ででもあろうか。

実はこの話を裏付ける記事が日本書紀にはあるのだ。それは神功皇后の52年条の記事である。(以下の引用は例によって省略かつ意訳してある)

<秋9月10日に、久氐(クテイ)等(百済の臣)、千熊長彦(ちくま・ながひこ=倭人)に従いて参りけり。すなわち七枝刀一振りと七子鏡一面、そのほか種々の貢献物があった。使者の久氐は「我が国の西を流れる川の源の谷那鉄山から採れた鉄を使って作りました。永きよしみのため聖朝(倭国)に奉納いたします。」と言った。>

この記事の後の55年条には「百済王の近肖古が死んだ」とあり、また翌年56年条には「百済の王子貴須、立ちて王となる」と書かれている。近肖古王の死亡年は西暦375年で、翌376年に太子の貴須が即位して近仇首王となっていることは分かっているので、この52年条の出来事は372年のことになる。

369年(太和4年)に百済の谷那鉄山で採れた鉄を練りに練って作り上げた世にも珍しい「七枝刀」は、倭王「旨」が百済のために支援してくれたことと、これからも支援を頼みたいがゆえに、特別に製作した――ということがよく伝わる銘文である。

この倭王旨(し)とは普通に考えれば神功皇后のことだろう。「オキナガタラシ」という和風諡号の最後の「シ」をとり略号化して「シ(旨)」としたと思われる。神功皇后はいわゆる「新羅征伐」を敢行しており、任那のみならず百済にとっては同盟国倭の王でもあった。

この銘文は同時にまた、369年という時点で、百済ではすでにこのような漢文を取り入れたことを示す貴重な証拠品でもある。倭人はまだ漢文は作れなかったが、読んで意味をとることくらいはできたに違いない。(※もっとも、漢字の読み書きのできる渡来人はいただろう。)

(3)隅田(すだ)八幡宮の人物画像鏡

これは剣または太刀に刻まれたものではなく、鏡の周縁にレリーフされた銘文である。

<癸未年八月、日十大王年(与)、〇弟王、在意柴沙加宮時、斯麻、念長寿、遣開中費直・穢人今州利、二人等、取白上同二百旱、作此鏡。>

「癸未(みずのと・ひつじ)は西暦年で表した場合、383年・443年・503年という候補があり、いまだに史学者の間で決着を見ていない。

「日十大王」とは「日下王」(大草香皇子)であり、次の「年」は「与(~と)」に見立てる考えがあるが、その方がいいようである。

というのは次の「意柴沙加宮」が「おしさかのみや」であるのは確実で、この「おしさか」は「押坂」であり、允恭天皇の皇后が「押坂オオナカツヒメ」であった。したがって私見ではこの癸未(みずのと・ひつじ)の年は443年ということになる。

すると前半は「日下大王たる大草香皇子と、腹違いの弟に当たるオアサヅマワクゴ皇子(允恭天皇)とが、押坂の宮に居た時に」となる。大草香皇子は仁徳と日向髪長媛との間の子であり、オアサヅマワクゴ皇子は仁徳と葛城イワノヒメとの間の子であり、腹違いの皇子同士なのだが、オアサヅマの方は子供の頃極めて体が弱く、新羅から来た使者(薬師)によって救われたという事績があった。

一方の大草香皇子はそのような問題なく、反正天皇亡きあとは大草香皇子が天皇位に就いて何らおかしくはなかった。

允恭天皇の即位前紀にあるように、病弱のオアサヅマ皇子は即位を逡巡していたのだが、その間、暫定的に大草香皇子が「摂政」的に天皇の代行をしていた。その場所が「意柴沙加宮(押坂宮)」ではなかったか。

しかし結局は、半島への出兵で勢力を消耗していた日向系の大草香皇子に対して、仁徳勢力の本流を担ったオアサヅマ皇子を推す勢力が、大草香皇子の即位を阻んだのだろう。

いずれにしても、半島系の倭人「斯麻(シマ)」という人物が、大草香とオアサヅマ両皇子のために、「開中費直(かわちのあたい)」と「穢人(わいじん)今州利(いますり・コンスリ)の二人に命じて銅を製錬して、二人の長寿を願い、鏡を作って上納した、という銘文である。

「開中費直(かわちのあたい)」とはおそらく列島に経典を持参した王仁の子孫「西文直(かわちのあたい)」の一人で、銘文作成を担当したようだ。この開中費直(かわちのあたい)を倭人と考えるならば、倭人として初めてまとまった漢文を作った人物になる。

また、穢人(ワイ人)の「今州利(いますり)」という人物だが、この人が銅の精錬と鏡の制作技術を担当したのだろう。

「穢人」とは魏志濊(ワイ)伝によれば、漢が朝鮮半島の北部に楽浪郡を設置(前108年)するまではそこを本拠地としていた種族であり、楽浪郡の設置によって東側に追いやられ、また王族の多くはさらに北部の高句麗や扶余に移動している。

この440年代という時代にはすでに「濊国」は無く、半島は高句麗、百済、任那(倭国半島部)、新羅の4つの国に収れんしていたのだが、出身地としてかつては存在した国名(地方名)を名乗ることは不思議ではない。むしろ今州利(いますり)にしてみれば今は亡き祖国「濊」を誇りに思い、自称していたのかもしれない。

(4)さきたま古墳群の稲荷山古墳出土の金象嵌鉄剣銘

(表)<辛亥の年7月中に記す。乎獲居(おわけ)臣の上祖の名は意富比垝(おほひこ)・・・(中略)多加披次獲居(たかはしわけ)・・・。>

(裏)<・・・乎獲居(おわけ)臣は、世々、杖刀人の首(おびと)として仕えて今に至る。獲加多支鹵大王の王宮が斯鬼宮であった時、私は天下を佐治していた。この百錬の利刀を作らしめ、私が大王に仕え奉るその由来を記すものである。>

この金象嵌の銘文は、埼玉地方の豪族であった「オワケノ臣」の家系を記すとともに、ワカタケル大王が斯鬼宮(しきのみや)いた時に「杖刀人の首(おびと)」として仕えていたことを伝えようとしたものである。

ワカタケル大王とは雄略天皇のことだが、ここで不可解なのが「斯鬼宮(しきのみや)」である。雄略天皇の宮殿は桜井市の山間、初瀬川沿いの「長谷(はつせ)の朝倉宮」なのである。

では「斯鬼宮(しきのみや)」とはどこの誰の宮なのだろうか?

古事記にその解明の手掛かりがあった。

雄略記によれば、雄略天皇の皇后は大草香皇子の妹・若日下部(わかくさかべ)王であった。この皇女を訪ねて河内に出かけた時に、堅魚(かつお)木を上げて作られている立派な家があった。

堅魚木を上げて作られるのは天皇の宮殿しかないと思っていた雄略天皇が、その家の持ち主を尋ねると、「志幾(しき)の大県主」の家であった。

「斯鬼宮(しきのみや)」とは、この「志幾(しき)の大県主」が堅魚木を上げて作った宮のことではないだろうか?

行旅中に三重の能褒野で亡くなったヤマトタケルの霊魂が白鳥となって飛び、河内の志幾に留まったとされる(景行天皇記)が、そこを本拠とする
「志幾(しき)の大県主」こそが、大悪天皇と言われた時代の雄略天皇だった可能性を考えてみたい。

ワカタケル大王が初瀬の朝倉という桜井市の山間部に宮殿を作り、オワケ臣のような「杖刀人首」を侍らせていたとは考えにくいのである。

さて、この銘文が記す「辛亥」の年だが、これは西暦471年としてよい。雄略天皇の治世年代(457年~489年)に該当している。

この時代になると倭人でもこのような漢文が書けたのだ。乎獲居(おわけ)、意富比垝(おほひこ)、多加披次獲居(たかはしわけ)というように、すべて後の「万葉仮名」として使われる漢字の用法にかなっている。

(5)江田船山古墳出土の銀象嵌太刀銘

<天下を治めし獲〇〇〇鹵大王の世、典曹人である無利弖(むりて)が、八月中、よく練り上げた刀を奉納いたします。この刀は子孫の長寿を蒙らしめる物であります。刀作りを指揮した者の名は伊太加(いたか)であり、銘文を作成した者は張安(チョウアン)であります。>

熊本県玉名市の江田船山古墳はさほど大きな古墳ではないが、横穴式石室の中に立派な家形石棺が収められていた。

この銘文に見える「獲〇〇〇鹵大王」は埼玉の稲荷山古墳出土の鉄剣銘に刻まれたワカタケル大王と同じで、この古墳の主「無利弖(むりて)」も畿内のワカタケル大王に仕えた人物ということになる。向こうは杖刀人(武人)として、こちらは典曹人(文官)として仕えており、様々な仕え方があったと分かる点で興味深い。

稲荷山古墳の鉄剣銘には実際に作刀した人物とおよび銘文を作成した人物のことは刻まれていないが、こちらはそのどちらも書かれている。

それによると作刀者は伊太加(いたか)であり、銘文の作成者は張安(チョウアン)である。前者が倭人であることは疑いがないが、後者はおそらく渡来中国人であろう。

直接中国から渡って来たのか、半島を経由したのかは当然不明だが、江田船山古墳の所在する玉名市は倭人伝時代の「狗奴国」の領域であり、どちらにしても、畿内ではない地方豪族が渡来人を抱えていたことが分かるという点において貴重な史料である。

(6)及び(7)

(6)は千葉県稲荷台1号墳から出土したもので、「敬安」という人物が○○王から賜与されたことが刻まれている。

また(7)は島根県岡田山1号墳出土の鉄刀銘で、「額田部」という部民制度の存在をうかがわせる史料である。

どちらも倭人自身の作文であると思われる。作刀年代は不明であるが、6世紀以前であることは間違いない。


以上が7世紀になって文字(漢字)が公式に採用される前の文字資料である。

5世紀の初めに応神天皇の子のウジノワキイラツコが最初に学んだ漢文はおそらく儒教の経典であったが、6世紀に仏教の経典がもたらされて以降、漢字文化は倭人の間に急速に浸透していったものと思われる。













雄略天皇②~倭の五王の「武」か~(記紀点描㉙)

2021-10-24 11:18:06 | 記紀点描
雄略天皇の幼名(和風諡号)は古事記では「大長谷若建」であり、また日本書紀では「大泊瀬幼武」と書き、ともに「オオハツセワカタケル」と読ませる。「オオハツセ」は宮殿のあった大和の地名であるから、基本の幼名は「ワカタケル」である。

このワカタケル名が「大王」を付けて、熊本と埼玉の二か所の古墳から発掘された鉄刀と鉄剣に刻まれた銘文中にあったということで、雄略天皇の実在性が俄然、確実性を帯びた。

熊本県のは江田船山古墳で、銀象嵌の大刀の刀身に漢字75文字が刻まれており、「治天下〇〇〇〇〇大王世」とある部分が「ワカタケロ」と読め、「ロ」は「ル」とも重なるので、これは「ワカタケル大王」としてよいとなった。

また、埼玉県のは崎玉古墳中の稲荷山古墳で、金象嵌の鉄剣の身に漢字115文字で刻まれており、当地の豪族「乎獲居臣(おわけのおみ)」が先祖名および今仕えている大王に対して「奉事根源」(仕え奉まつりし根源=由来)を書いたものである。

最後の方に、乎獲居臣は代々武人として仕えており、今の「獲加多支鹵(ワカタケロ)大王」に到るまで「杖刀人首」(杖刀人=武人の長)であったことが見え、ここにも「ワカタケル大王」が刻まれていた。

しかもこの稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文には「辛亥の年の7月に記す」という年月まで刻まれており、この辛亥年を西暦471年と特定し得ることから雄略天皇の統治時代(457年~489年)に収まるとして、両銘文に記された「ワカタケル大王」は雄略天皇で間違いないことになった。

【倭の五王】

邪馬台国関連の記事の載った「魏志倭人伝」(魏書)と後継の王朝「晋」についての『晋書』からは、倭国についての記事が西暦289年までしか見られない。その後、西暦413年になって倭国の記事が再び『晋書』に現れる。したがって300年代については「空白の4世紀」と呼ばれている。

400年代に入ってからは中国の正史に「倭王」の名が記されるのが当たり前になる。というのは倭王が大陸王朝に対して「爵号」を求めて朝貢することが多くなったためである。

『宋書』によると、倭王「讃」が421年と425年の2回、「珍」が438年に1回、「済」が443年と451年の2回、「興」が462年に1回、「武」が478年に1回、合計7回だが、倭王の名は出さない「遣使貢献」の記事がその間に1回(430年)あるから、宋王朝の時代に倭国から8回の遣使貢献があったことになる。

ここに出てくる倭王の讃・珍・済・興・武を「倭の五王」と言っている。

さらに宋王朝の後継である南斉王朝に対して、倭王「武」が「鎮東大将軍」の爵号を受け(479年)、次の王朝である梁から同じ倭王「武」が「征東将軍」の爵号を授与されている(502年)。

この五王を記紀上の天皇と考えると、名に天皇に相当するのかが古くから探求されてきた。

大雑把に言って候補は400年代とされている「応神」「仁徳」「履中」「反正」「允恭」「安康」「雄略」の各天皇である。

これでは7天皇なので、5天皇に絞らなければならない。

そこで、まず『宋書』の記事に記されている親子関係と兄弟関係を見ると、讃と珍は兄弟とある。そうなるとこの7天皇の中では「応神」と「仁徳」は外され、「履中」と「反正」が該当する。

次に済だが、済は誰の子とも兄弟とも書かれずに独立して記され、子に興と武がいるように書かれている。そうなると済は「允恭」に当たり、確かに二人の皇子がいる。それは「安康」と「雄略」である(允恭は履中・反正と兄弟だが、その点は抜けてしまったと考えておく)。

しかし讃を「履中」とすると、履中天皇は在位が426年から432年であるから、宋書の讃の遣使貢献年(421年・425年)に該当せず、また珍が「反正」では、これもまた在位年代(433年~437年)と遣使貢献年(438年)とは合致しない。

次の済だけは「允恭」としたとき、允恭天皇の在位は438年から454年であるから、遣使貢献年の443年と451年が在位期間のうちに入っている。

興を「安康」とすると、興の遣使貢献年は462年であり、これは安康天皇の在位期間から外れてしまう。

最後の武だが、武を「雄略」とすると、雄略天皇の在位期間は457年から489年であるから、遣使貢献した478年というのは該当する。

以上の在位期間の内に宋への遣使貢献年が含まれているかどうかの比較検討からは、3番目の倭王「済」と5番目の倭王「武」については、400年代に在位した7天皇のうち允恭天皇と雄略天皇が該当する可能性が高いことが分かった。

しかし宋の次の南斉に代わって王朝を築いた梁の『梁書』には上で触れたように、梁の武帝が即位した西暦502年に、武帝は倭王武に対して「征東大将軍」の爵号を勅命しており、これが物議をかもしている。倭王武が雄略天皇であったとき、502年は雄略の在位期間(457年~489年)を大きく逸脱してしまうのである。

【狗奴国王の可能性はないか?】

『梁書』の「諸夷・東夷伝」によると、「倭国」についておおむね次のように書かれている。

正始年間(240年~248年)に卑弥呼が死んだので、男王を立てたが国中が服さず、・・・卑弥呼の宗女「台与」(トヨ)を立てて王とした。その後は男王を立て、みな中国の爵号を受けた。
  
 晋の安帝の時、倭王賛がいた。賛が死んで弥が立ち、弥が死んで子の済が立った。済が死に、子の興が立ち、興が死ぬと弟の武が立った。

 南斉の建元年間(479年~582年)、武を「安東大将軍」から「鎮東大将軍」に進めた。

 高祖(武帝)は即位すると、武を「征東大将軍」に任命した。>

以上のように、梁書では倭王済は弥(珍)の子であるとしており、この五王は家系を同じくする三世代だったことが分かる。ところがそうなると、済を生んだ弥(珍)は「仁徳」ということになってしまい、賛が浮いてしまう。賛が応神であれば弥(珍)と兄弟になってしまう。

結局、『宋書』においても『梁書』においても、「倭の五王」を記紀における400年代の天皇に当てはめようとしても無理があるのだ。

そこで、この『梁書』の下線部分の描写に注目してみたい。

この部分は邪馬台国こそが「倭国」であるとみなしているわけで、その倭国の女王卑弥呼が247年に死に、後継に一族の少女トヨが立ったことをまず記している。

注目すべきはその次の一文である。

「その後」とはつまり女王トヨが死んだ後で、トヨの後継は女王ではなく男王を立てたのである。さらに、その後の男王たちは「みな中国の爵号を受けた」とあるではないか。

ここから類推してみると、400年代当時の倭国とはかつて女王卑弥呼のいた邪馬台国に他ならず、卑弥呼が死に、次の女王トヨが死んだあとは男王たちが立ち、彼らはみな大陸王朝に遣使貢献し、それぞれが爵号を受けていた。その記事こそが宋書および梁書に記載されたいわゆる「倭の五王」に関する記事であった、となる。

もう一つ考察したいのが倭王武の「上表文」である。

そこには大略次のように書かれている。

<我が国ははるか遠くにございます。昔からわが祖先が甲冑を着て山川を跋渉して参りました。(中略)貴国に参上したいのですが、途中を高句麗が無道にも邪魔をしております。(中略)私の亡き父の済はこの強敵を打ち砕こうと大挙して攻めようとしましたが、にわかに父と兄を失い、今は諒闇に祈るばかりで、挙兵することができませんでした。

しかし今や亡き父と兄の志を遂げようと致しております。(中略)もし皇帝の徳を頂ければ、強敵を打ち破って平定し、初志を貫く所存です。願わくば、「開府儀同三司」の爵号を頂戴したいと存じます。>

このように上表しているのだが、「にわかに父と兄を失い」という下線の箇所が問題である。

記紀の描く400年代の天皇歴代で「にわかに父と兄を失う」という記事は存在しない。武を雄略天皇とした場合でも同様で、父の允恭天皇と兄の安康天皇が同時に死亡してはいない。したがってこの上表文を見る限りでは、武が雄略天皇である可能性は極めて低いのである。

以上から私は「倭の五王」というのは、梁書にあるように、当時の邪馬台国とそれの後継国家こそが倭国であり、大陸王朝へ遣使貢献していたと考えたい。

具体的に言うならば、私見の邪馬台国(八女邪馬台国)は二代目女王のトヨの時代に南の狗奴国(菊池川以南の熊本県領域)から侵略された。女王トヨは豊前方面に逃避したが、八女邪馬台国は狗奴国によって支配されることになった(西暦288年頃)。

つまり八女邪馬台国は狗奴国の領域になったのであり、そこには当然新しい王が赴任する。彼らはすべて男王だったはずで、大陸が南宋によって統一されると爵号を求めて、遣使貢献し始めたのだろう。

倭王武の上表文に書かれた「父兄をにわかに失う」目に遭った王が狗奴国にはいたに違いない。のちの「筑紫の君・磐井」の祖父か父であったのかもしれない。

(※以上は試論である。ただ、いずれにしても、「倭の五王」は400年代の畿内天皇家の系譜には合致しないということだけは言えるだろう。)


雄略天皇①~大悪天皇~(記紀点描㉘)

2021-10-23 14:43:24 | 記紀点描
第21代雄略天皇は、父が允恭天皇で母はオオナカツヒメ(応神天皇の孫)である。

日本書紀ではこの天皇で初めて紀年(○○年条)に空白がなく、崩御したのが23年条にあるから統治期間は23年と確定できる最初の天皇である。

その23年は西暦で何年に当たるかというと、それは20年条を読めばわかる。その20年条には高句麗が百済を襲って滅ぼしたことが記録されており、その年は『三国史記』の高句麗本記および百済本記ともに476年のことと記されている。

したがって雄略天皇が崩御したのは479年で、即位したのは457年である。

雄略天皇の時代も半島の倭人権益(任那)をめぐって百済や新羅との交流の多い時代だったが、高句麗が第20代長寿王のその名の通りの長期の統治すなわち413年から491年まで80年近くにわたる統治で国力が旺盛になり、その余勢は百済への南進になって表れた。

高句麗の南進によって第22代百済文周王はついに戦死し、百済は王宮を南の熊津(クマナリ)に南下させ、何とか国家の崩壊はまぬかれた。雄略紀21年条には、

<天皇、百済が高句麗のために敗れたと聞き、クマナリをもって文周王に賜い、その国を救わしむ。>

と書くが、雄略天皇の力がそこにまで及んでいたか、は疑問である。

とにかく百済本記と高句麗本記の記述によって、雄略天皇時代の西暦年が確実になったことは極めて重要である。

雄略天皇は「大長谷若建(おおはつせワカタケル)」が幼名で、この「ワカタケル」がのちに取り上げるいわゆる「倭の五王」の問題と絡んでくる。この項では取り上げないが、一応記憶に入れておきたい。

さてこの項では、雄略天皇(ワカタケル)は「大悪天皇」と記述されるほどの、悪行の数々を取り上げておきたい。

【即位前の「悪行」】

(1)安康天皇が無理やり正妃にした、大日下王(大草香皇子)の妻だったナカシヒメには連れ子の「眉輪(まよわ)王」がいたのだが、安康天皇は彼によって暗殺されてしまう。そのことに怒ったワカタケルは実の兄を二人殺し、さらに眉輪王と王を庇護した円(つぶら)大臣をも殺害した。

(2)伯父である履中天皇の皇子、つまりいとこの市辺押磐(イチノベオシハ)皇子を狩猟に連れ出して射殺した。

(3)同じくその弟の御馬(ミマ)皇子も言いがかりをつけて弑逆した。

以上のように、同母腹の兄2人と、従兄の皇子2人を亡き者にしたうえで、安康天皇の後継となった。皇位継承順位の高いものを次々に葬って天皇位に就いているのである。

【即位後】

(1)吉野宮に行幸して狩猟をした際に、獲物の調理をめぐって怒り、御車係の大津馬飼を刺殺した。(2年条)

(2)舎人の吉備虚空(きびのおおぞら)が里に帰り、そのまま吉備下道臣前津屋(さきつや)に使われて帰京しなかったので使者を立てて迎えに行かせたのだが、帰って来た虚空は前津屋(さきつや)が現地で天皇に不忠なことを繰り返し行っていると暴露した。
 怒った天皇は、物部兵士を派遣して前津屋(さきつや)の一族70名を誅殺した。(7年条)

こういった人を人とも思わない所行が極めて多く、人は恐れて「大悪天皇」と呼んだという。

即位前と即位後では同じ殺害でも意味は大きく違う。即位前のはやはり皇位継承の争いが背景にあることは間違いないのだが、即位後の(2)の吉備の前津屋(さきつや)一族殺しは、天皇家と吉備国の勢力争い、平たく言えば「内戦」に近い状況が背景にある。

応神天皇の時代でも妃の兄媛(えひめ)が吉備出身であり、ヒメが吉備に帰りたいというので実際に返している。吉備は応神勢力にとって極めて有力な後ろ盾であったのである。

雄略天皇時代に、吉備に関しては、もう一件、前津屋(さきつや)の事件と同じ年に悶着を起こしている。

吉備上道臣田狭(たさ)が自分の嫁自慢をしたところ、それが天皇に聞こえ、天皇はその嫁をわが後宮に迎えようとして、田狭を任那国司に任命して遠ざけ、まんまと嫁を手に入れた。

田狭は任那にあってその噂を聞き、任那から帰ろうとはしなかったという。

その後の田狭はどうなったかわからないが、吉備に関しては、新羅を討伐しに行った吉備臣小梨(おなし)とか、将軍・紀小弓宿祢が身の世話をする吉備上道采女(うねめ)大海(おおあま)を連れて半島に渡ったという記事(9年条)が見え、吉備人は半島へ派遣される例が多い。

吉備国の勢力は、応神天皇の時代から半島への出征者を多く出していることが分かる。

吉備国の賀陽(カヤ)郡があるのも、それを裏付けているのかもしれない。