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鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

日羅の招聘と倭語(記紀点描㊲)

2021-12-30 22:06:51 | 記紀点描
記紀点描㊱で取り上げた「仏教の事始め」は、百済から到来した仏像(釈迦仏・弥勒仏)、仏具、経典、寺大工、画工などを入手した大臣蘇我馬子が、我が家に仏殿を建てたことからである。敏達天皇の13年(584年)の事であった。

このことが物部氏との確執(崇仏論争)となり、ついに2年後には馬子軍が物部守屋大連を倒し、仏教が大和に定着していくことになった。

話は少し前後するが、百済から弥勒仏が送られて来た年の前年(583年)、敏達天皇は父の欽明天皇の遺言に等しい「任那の再興」策を立てるに当たり、百済に「達率(タッソツ)」という高官として仕えている「日羅(にちら)」という倭人を招いたのであった。

この日羅という倭人は、火(熊本)の葦北国造であった「刑部靫負部(ぎょうぶ・ゆげい)阿利斯登(ありしと)」の子で百済で生まれ、百済に仕え、臣下としては最高の位である達率(タッソツ)にまで上り詰めていた。

父の阿利斯登は宣化天皇の時代(在位536~539年)に大伴金村大連によって百済に派遣されており、向こうで生まれたのが日羅であった。

ところでこの父の名だが、前半分の「刑部靫負」は役職名で、国造になる前に朝廷で軍務に就いていたことを表している。面白いのは後半の阿利斯登(ありしと)である。

10代崇神天皇の最末期(西暦300年頃)に半島からやって来たのが蘇那葛叱智(ソナカシッチ)、別名「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」だった。別名の方が具体的であり、前半の「都怒我」は任那の地名である。そして後半の「阿羅斯等(アラシト)」。これは日羅の父の「阿利斯登(ありしと)」と「羅」と「利」の一字違いなのだ。

アラシトとアリシトはほぼ同じ意味かと思われるのだが、その意味は統治者として「○○を在らしめる」ということではないだろうか。天皇の和風諡号に多く見られる「足(タラシ)彦」の「タラシ」(足らす・満足させる)にも通う意味かと思われる。半島南部の言語と倭国(主として九州島)の言語には共通性が多々見られるが、その一つとして考えておきたい。

さて日羅は百済で高官になっており、当然、百済語を使っていたと思われる。敏達天皇が派遣した吉備海部直羽島という吉備臣の豪族は百済らに到着して日羅の屋敷を訪問するのだが、その時に不可解な出来事があった。

日羅屋敷を訪問すると下女が出て来て「韓語(からさえずり)」で「どうぞ私の後についてお入りください」といたというのである。

下女がしゃべったのは韓語で、具体的に言えば「百済語」である。ところが使者の羽島と日羅の会談は「通訳」を介していない、つまり倭語で行われたようなのだ。

日羅は父が存命中に倭語を習ったであろうから、通訳を介せずとも倭語が話せたとは考えられる。だが下女の「百済語」が不審である。なぜ倭語を使わなかったのか。

任那(旧弁韓)は倭人による国家であったから倭語が普通語であった。したがって任那と一卵性双生児のようだった辰韓(新羅)も倭語がほぼ普通語として使われていた(弁韓と辰韓は雑居していた――と魏志倭人伝は記している)。

百済でも倭語は通用していたことは、今しがた指摘したように、向こうで生まれ育った日羅と敏達天皇が派遣した羽島との間に通訳(曰佐=おさ)を介さずに交渉を進めたことで分かる。

そこへもってきて「韓語(からさえずり)」を下女はしゃべった。これは倭語センターであった「任那」が西暦562年(欽明天皇23年)に新羅によって滅ぼされたことに端を発しているのだろう。

つまり任那が滅ぶことにより、倭語から独立して新羅語、百済語という倭語から見れば「方言」が発生し、定着しつつあったということを意味しているのだ。

大陸を通して仏教文化が半島に浸透して来たことも大きく作用したに違いない。倭語も仏教経典の読誦や学習を通して、日常の中に「漢語・漢字」が取り入れられ、変化していったのと同じである。

さて日羅の献策は「むやみに半島に軍隊を送るのはやめ、まずは3年間人民を養うこと。たくさんの船を造り、要港に浮かべ、半島からの使者たちに見せて怖れを抱かしめること。百済王を招来すること。」などであった。(※当時の百済王は27代威徳王=在位554~598年)

しかし日羅の献策もむなしく、日羅はその年の暮れに、「難波館」という外交施設において百済から付き添ってきた重臣たちの手によって暗殺されてしまう。

朝廷では下手人の徳爾(トクニ)らを火の葦北国人に預けたが、悉く殺されたという。また日羅の遺骸を難波から引き取り、葦北のしかるべき地に埋葬している。

なお、日羅を「日羅上人」と表記する歴史資料があるが、書紀の敏達天皇紀に日羅が僧籍を得ていたという記述はない。

鹿児島の幕末近くの歴史書『三国名勝図会』の谷山郷の記録に「如意山清泉寺」の項があり、その開基は「百済の日羅」とし、「年紀詳らかならず」と書くが、日羅は僧侶ではないのだからこれは有り得ない。

徳爾たちは日羅を殺害しようとするが、

<時に、日羅、身の光、火焔の如きものあり。これによりて徳爾ら、恐れて殺さず。ついに12月の晦(つごもり=みそか)に、光失う候(とき)に殺しつ。日羅、さらに蘇生して曰く「これは我が使者奴の為せる所なり。新羅にはあらず」といふ。>

と、身から強いオーラが出ていたため殺しきれず、ようやくそれが衰えた12月末日に殺害に及んでいる。しかもその時に日羅は蘇生して「百済から一緒に来た連中の仕業で、新羅とは関係がない」と言ったという奇跡が、日羅を「修行を積んだ高僧」に仕立てたのだと思われる。





物部氏の没落と仏教の興隆(記紀点描㊱)

2021-12-26 09:23:04 | 記紀点描
【物部氏の没落】

敏達天皇(在位572~585年)が崩御してその余韻冷めやらぬ次代の用明天皇(在位586~587年)の2年(587年)、再び仏教論争が熾烈になり、今度は力づくの闘争となった。

まず排仏派の重鎮の一人中臣勝海が、蘇我馬子大臣の舎人によって殺害された。さらに馬子は、物部守屋大連が天皇に擁立しようとした穴穂部皇子をも殺害する。

そしていよいよ物部守屋との戦争が始まる。河内の守屋の屋敷(現大阪府八尾市)に押し寄せた馬子部隊に中に、若き甥っ子厩戸皇子(聖徳太子)がいた。かれは四天王に願をかけ、「もしわが陣営が勝利したならば、四天王護国寺を建立する」と祈った。

それかあらぬか、馬子軍は物部守屋を殺害し、一族を捕らえることに成功した(用明天皇2年7月)。

この時、守屋側の将軍「鳥取部萬(よろず)」が奮戦をして超人的な働きをしたが殺害され、飼っていた大きな白い犬が萬の死骸の傍らを離れずに守り、ついに餓死した――という悲話があり、八つ裂きの刑に処せられるべきところを変更して犬ともども丁重に葬ることが許されたという。血生臭い戦いの中の、心温まるエピソードだ。

(※物部守屋一族は多く四天王寺建立後にその下僕として抱えられたらしいが、中には各地に逃げおおせた一群もいたようである。)

【仏道の始まりは女性たちから】

聖徳太子は誕生に奇瑞があったり、「10人の話を一度に聴き分けることができた」などという伝説があるうえ、仏教経典の解釈に非常に秀でており、余りにも出来過ぎているというのでその実在を疑う論調もあるのだが、潤色を拭い去れば、このような若き学識者が生まれておかしくない時代状況でもあったのだ。

というのは、百済から最初に仏具と仏像(釈迦仏)が到来したのは欽明天皇(在位540~571年)の13年(552年)であったが、蘇我稲目がその仏を祭って日本最初の仏堂を建立しているからである。聖徳太子はその稲目の孫に当たり、稲目という祖父と馬子という伯父の薫陶を受けるに十分な環境に育っているのだ。幼い時から仏典に親しむ機会は十分にあった。

敏達天皇の13年(584年)には、百済から再び仏像の伝来があった。今度のは弥勒仏であったが、敏達天皇は神と仏の狭間に立たされて困惑しつつ、その弥勒仏を馬子に託した。

馬子は播磨で還俗していた高句麗出身の僧・恵便を招き、部下の娘を出家させて「善信尼」とし、さらに二名の「禅蔵尼」「恵善尼」を得た。そして自分の屋敷の一角に弥勒仏を安置した仏殿を建て、そこで三人の尼による「大会(だいえ)」を催している。

これを見ると、「仏教学」というべき経典の解釈については聖徳太子のような男子が担ったが、礼拝を中心とする「仏道」は女が担っていたことが分かる。

しかも、この善信尼は3年後の敏達天皇16年(587年)6月に、次のように馬子に請願しているのである。

<善信尼ら、(蘇我馬子)大臣に謂いて曰く。「出家の途は戒(いまし)むことを以て本とす。願わくば、百済に向かひて、戒むことの法(のり)を学び受けん」といふ。>

馬子の建立した仏殿で仏を礼拝していた善信尼ら三人の尼は、さらなる戒律を学ぶために百済に行きたいと願い出たのであった。

しかし当時は排仏派の物部守屋との戦いが迫っており、すぐには実行できなかった。翌年(588年)に百済から「仏舎利」とともに僧侶3名と寺大工、画工などが渡来したので、引率者の恩率(オンソツ=百済の王族)首信の帰国船に便乗して百済に渡ったのであった。これは遣唐使時代の「留学僧」の先駆けであり、日本最初の「留学生」といってよい。

また、2年後の崇峻天皇3年(600年)には、大伴狭手彦の娘、大伴狛の夫人、新羅媛善妙、百済媛妙光など10ほどの女たちが出家している。軍事氏族の雄である大伴氏の娘や奥方が交っているのは、仏教の教理もだが、漢文である経典の持つ「先進性・文化性」が求められる時代の流れを象徴しているのではないだろうか。

以上から言えることは、日本における仏道(仏教修行・勤行)は女姓たちから始まったということである。遣唐使以降の留学僧たちがすべて男性であるのとは全く一線を画している。

禅宗や密教が特にそうだが、中世になると「女人禁制」「女は不浄」「浮かばれない」と言われるようになる。その挙句、仏道から女が姿を消すのだが、初期の仏教受容ではむしろ女がその中心だったのである。

これは在来の「神道」においても同様で、邪馬台国の女王ヒミコはその典型と言える。「鬼道を能くして衆を惑わす」と魏志倭人伝にあるように、祖霊・祖神を祭るのは女性の役割であった。伊勢神宮祭祀でも担当したのは斎宮で、斎主は天皇の皇女が就任していた。

また、私見の投馬(つま)国は南九州古日向にあったが、国王(官)「彌彌(ミミ)」の女王(副官)を「彌彌那利(ミミナリ)」と言った。「ナリ」は「妻」の意味であり、このミミナリは後世の琉球王朝の「聞得大君(きこえおおきみ)」に該当し、祖霊や祖神の祭祀を担当していたと思われる。

古い時代ほど、日本では女性が祭祀を担っており、蘇我氏の全盛期、仏道礼拝を女性が担当したのはその伝統を受けての事であったに違いない。




蘇我氏の台頭(記紀点描㉟)

2021-12-18 11:29:42 | 記紀点描
【はじめに】

古事記では第26代継体天皇(在位507~531年)の事績について、越前が出自であるということと、この天皇の時代に筑紫の君・磐井の叛乱(527~8年)に対して物部アラカビと大伴金村を派遣して磐井を殺したことが事績らしい事績であり、あとは宮殿名と皇后・妃及びその間の子供(皇子・皇女)の列挙しかない。

この記述の仕方は、後続の安閑天皇以下、古事記の記載では最後の第33代推古天皇(在位593~628年)まで、ほぼ踏襲され、まるであの「欠史八代」と言われる第2代綏靖天皇から9代開化天皇の8代の天皇に比べられる「欠史」ぶりである。

継体天皇から推古天皇まではあの「欠史八代」の数字に合わせたかのように同じ8代であり、古事記最後の推古天皇までの8代を「第2次欠史八代」と呼びたい。

さてこの「第2次欠史8代」の時代に、物部氏や大伴氏に代わって大きく勢力を伸ばしたのが「蘇我氏」である。

【蘇我氏の台頭】

記紀に蘇我氏の名が現れるのは、第8代孝元天皇の系譜においてであり、それによると蘇我氏は武内(タケシウチ)宿祢の苗裔である。

古事記「孝元天皇記」によると、孝元天皇とイカガシコメ(ウチシコメの娘)との間に生まれた「比古布都押之信(ヒコフツオシのマコト)」がヤマシタカゲヒメ(ウズヒコの妹)を娶って生まれたのが武内宿祢であった。武内宿祢は孝元天皇の孫ということになる。(※腹違いに味師内宿祢=ウマシウチ宿祢がいる。)

この武内宿祢には9人の男子が生まれており、その一人が蘇我氏の祖の「蘇我の石河宿祢」で、割注によると「蘇我臣、川邉臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣等」に岐れている。

「宣化天皇紀」の元年(536年)条には、「大伴金村大連、物部麁鹿火大連に並んで蘇我稲目宿祢が大臣に就任した」(意訳)とある。蘇我氏で最初に政府高官として登場したのが「蘇我稲目(イナメ)」であり、稲目は始祖の石河宿祢から数えて5代目の当主ということになっている。

大伴氏と物部氏がいわゆる「軍事氏族」であるのに対して、蘇我氏は大臣すなわち文官系の最高執政者として朝廷の中枢に加えられたということである。

最高執政官としての蘇我稲目は朝鮮半島に兵力を送って勢力が削がれていく大伴氏や物部氏を尻目に、地方の豪族たちの米を中心とする経済基盤に着目し、それを中央王権に貢がせるべく置かれてきた「屯倉」をより一層掌握したことで、自らの権力を強固にしている。

【屯倉の歴史と蘇我氏】

記紀に登場する最初の屯倉は、垂仁天皇の時代、大和に「来目屯倉」である(垂仁天皇27年条)。その後はずっと飛んで仁徳天皇の17年に「茨田屯倉」が置かれたとある。淀川水系の新田開発によるものであった。

また継体天皇の時に反乱を起こして成敗された筑紫君磐井の子の葛子が、朝廷に献上して罪を逃れようとした「糟屋屯倉」の話は有名である。

しかし何と言っても屯倉設置が国策となるのは安閑天皇の時代である。

安閑元年には皇后と妃の財政強化のために三か所の屯倉を定めたり、国造が罪を犯したので国を取り上げて屯倉(伊甚屯倉)としたり、武蔵国造が2派に分かれて争ったが、朝廷が支援した現国造が4か所の屯倉を献上した――などとある。

安閑天皇の2年(535年)には、ついに全国的に26か所もの屯倉設置を強行した。

筑紫国に2か所、豊国に5か所、火の国(肥前)に1か所、播磨国に2か所、備後国に5か所、婀娜(あな)国に2か所、阿波国に1か所、紀国に2か所、丹波国に1か所、尾張国に2か所、駿河国に1か所、上毛野国に1か所の26か所だが、西は筑紫(九州)から東は上毛野(群馬)まで、まさに6世紀当時の大和王権の範囲が網羅されている。

さらに次代の宣化天皇は、「筑紫は応神天皇の時代から海外(半島)との交流の要衝であり、そこには穀物の貯えが必要である」という詔を出し、阿蘇の君に茨田屯倉(難波)から、蘇我稲目に尾張国の屯倉から、物部麁鹿火に新家屯倉(伊勢)から、阿部臣に伊賀屯倉からそれぞれモミを出させ、那の津に新しく建てた「宮家(みやけ)」に搬入させている。

宮家も屯倉も同じく「みやけ」と読ませるのだが、詔勅によって建設された宮家は、単なる倉庫に近い屯倉ではなく、そこに王権から派遣された管理者が常駐し、おそらく半島との交流に備えて文官と武官を備えた施設だったと思われる。

尾張の屯倉からのコメの搬出を差配した蘇我稲目はこの後も、多くの屯倉管理を任されており、文書管理にも明るく、欽明天皇の世になっても引き続き大臣(おおおみ)に就任した。しかも娘の堅塩媛(きたしひめ)を欽明天皇の第2妃として入内させている。

堅塩媛(きたしひめ)は実に7男6女を生み、そのうち橘豊日(たちばなのとよひ)皇子は用明天皇となり、豊御食炊屋(とよみけかしきや)皇女は推古天皇として即位している。稲目は二人の天皇の外祖父であり、当時の臣下としては他に並ぶ者がいない権力者に上り詰めたのであった。

大臣・蘇我稲目の強みは何と言っても屯倉という経済基盤を掌握し、それを王権と密接に結びつけたことだろう。その一方で大連の家系である大伴氏と物部氏は半島情勢の不穏化に直面しており、軍事力の消耗と保持のために勢力を削がざるを得なかった。

稲目に管理を任された屯倉は吉備国の「白猪屯倉」「児島屯倉」、紀国の「海部屯倉」、大和の「韓人大身狭屯倉」「高麗人小身狭屯倉」など多数あった(設置年代は557年から558年にかけて)。

特に巨大なのが「白猪屯倉」で、美作国大庭郡内の5つの郡を兼ねた大きさであった。この屯倉の管理者には帰化人を当てた。のちに屯倉の名を襲って白猪史(しらいのふびと)という姓を得ている。また「韓人大身狭屯倉」「高麗人小身狭屯倉」は「韓人」「高麗人」で分かるように、半島からの渡来人(亡命または捕虜)を住まわせ屯倉としたものである。

いずれにしても蘇我稲目は文官として最高の大臣であり、かつ半島からの渡来人を積極的に活用しており、これまでにはないタイプの開明な権力者であった。その極め付けが「仏教への傾倒」であったろう。

【仏教の受容と蘇我氏】

百済の聖明王(在位523~553年)から仏教(仏像と経典)が倭国に伝えられたのは西暦538年であった(「上宮聖億法王帝説」)。宣化天皇の3年のこととされる。

しかし書紀では欽明天皇の6(545)年に、聖明王から、まず「丈六(高さ1丈6尺)の仏像」が送られ、7年後の13(552)年になって「仏像・仏具・経典」が献じられたと記す。538年か552年かで仏教の渡来時期が分かれるのだが、後々の仏教の長い受容期間(廃仏毀釈までの約1300年)を思えば、ほとんど問題にはなるまい。

さて、この仏教に最初に興味を示したのが蘇我稲目であった。稲目は欽明天皇13年の10月に百済の聖明王から送られてきた「金銅製の釈迦仏と幡(はた)蓋(きぬがさ)、経典」を目の当たりにして、「西の諸国はみな敬っておりますれば、わが国もそれに従わざるを得ますまい」と仏教の受容を進言したのである。

これに反対したのが物部氏と中臣氏であった。しかし欽明天皇は「そうしたいのであれば蘇我稲目よ、試みに拝礼すべし」と稲目を支持したのであった。

天皇のお墨付きを得て稲目は早速、飛鳥の小墾田の我が家に置いて拝礼を始めた。これが日本で最初の仏像安置の家屋、のちの豊浦寺の前身であった。その後、2度も仏像は反対派の物部氏によって堀に捨てられたりしたのだが、稲目の仏教崇拝が途切れることはなかった。

稲目は欽明天皇崩御の1年前の31(570)年に死ぬのだが、後を継いだ馬子はますます仏教に傾斜し、姉の堅塩媛の産んだ用明天皇の子・厩戸皇子こと聖徳太子が仏教の大家となるに及んで共同戦線を形成し、ついに仏教反対派の重鎮・物部守屋を打倒する。用明天皇の2年、天皇が崩御したその年、西暦587年の7月のことである。

翌588年、百済から僧侶と仏舎利が届き、馬子はこれにより「法興寺」を建立した。蘇我稲目・馬子2代こそ仏教受容の先駆けであった。漢字・漢文に精通した開明政治家の面目躍如と言うべきだろうか。







越前の大王(記紀点描㉞)

2021-12-11 22:40:00 | 記紀点描
【九州以外からは初めての大和王権】

武烈天皇で断絶した「河内王朝」と言われる仁徳王朝の系譜。

それを補ったのが、越前福井の大王だった「オホドノミコト」こと継体天皇であった。

オホドを古事記では「袁本杼」、書紀では「男大迹」と書くが、どちらにしても一般的には読み難い。そこに若干の編集者による創作があったように感じるのだが、そのことは置いておく。

さて継体天皇は父が彦主人王(ひこぬしのみこ)、母は振媛(ふるひめ)で、彦主人王は応神天皇の5世孫であり、母は垂仁天皇の7世孫だという。

父方の応神天皇のほうは応神天皇の皇子「わかぬけふたまた皇子」から始まる系譜であることが書かれているのだが、母方の振媛のほうは系譜が不明である。書紀の記述では越前三国の出身である。

ところが彦主人王が若くして亡くなったので、振媛は我が子を連れて越前に帰って育てたという。

そして越前の大王となり、九頭竜川他の河川が集まって沼地のようになっていた地域から、排水事業を起こして今日の越前平野を造成した。

足羽山の麓に建てられた「継体天皇像」をインターネットで見ることができるが、その姿はオオクニヌシを彷彿とさせる。オオクニヌシは「大名持(オオナモチ)」であり、大きな土地を持っっているという意味で、広大な平野を生み出したオホド王(継体天皇)にふさわしい。

天皇の候補としてオホド王が挙げられ、当時の大和王権の大連・大伴金村が尽力してようやく後継者として受け入れたのだが、大和にはなかなか入れなかった。おそらく大和地方の豪族たちが難色を示していたからだろう。

天皇位を継いでから、最初の宮殿「河内楠葉宮」で5年、次に「山城筒城宮」で7年、そして「山背弟国宮」に8年を過ごし、合計20年の後にようやく大和入りし、「磐余玉穂宮」を築いた。この時、西暦526年であった。

私見では、よそから大和に入って王朝を築いたのは、西暦170年頃の南九州からの橿原王朝、270年頃の北部九州からの崇神王朝に次いで3例目である。

【筑紫君磐井の叛乱】

継体天皇が大和の磐余玉穂宮に入った翌年の527年、九州で反乱が起こった。

「筑紫君磐井(いわい)」が新羅征討のために九州に遠征して来た近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)率いる軍に抵抗したのである。

この反乱の陰に磐井と新羅との共謀があったと書紀は記述するが、百済の領土要求(4県割譲)にすんなりと応じてしまった継体王権に対する反感が根底にあり、筑紫君の持つ半島の利権が損なわれるとの危惧が新羅との接近を生んだと思われる。

近江毛野臣が引き連れて来た6万という新羅征討軍と対峙し、さらに大和から遣わされた物部麁鹿火(もののべのあらかび)将軍と戦った磐井は敗れるのだが、書紀と筑後風土記ではその最期に大きな違いがある。

書紀では翌528年に、<11月、大将軍・物部麁鹿火、みずから賊帥・磐井と筑紫の御井郡にて交戦す。(中略)ついに磐井を斬りて、果たして彊場を定む。12月、筑紫君葛子、父の罪によりて誅せられむことを恐れ、糟屋屯倉を献り、死罪を贖うことを求む。>

とあり、磐井は官軍と戦って死んだことになっている。

ところが筑後風土記逸文では、<(官軍の)勢い勝つまじきを知りて、ひとり豊前国の上膳の県に逃れて、南の山の峻しき峰の曲に見失せき。>

とあり、豊前方面の山中に逃れてしまったというのである。

戦死したのか、戦死はせず落ち延びたのかの両論併記だが、息子・葛子の「糟屋屯倉献上」まで書いてあることから、書紀の戦死説を採りたい。

【磐井は岩戸山古墳には眠っていない】

ところで、筑後風土記は磐井が山中に姿をくらましたことで官軍側が怒り狂い、磐井が生前に築いていた岩戸山古墳の周囲に立てられていた石人・石馬を打ち壊したと書いており、その描写はまさに今日の岩戸山古墳の様相を示している。この風土記の記述によって「岩戸山古墳は磐井の墓」という俗説が生まれたのであった。

しかし果たして岩戸山古墳に磐井が埋葬されているのだろうか?

まず筑後風土記説は矛盾を抱えている。岩戸山古墳はたしかに磐井が生前に築いたのだが、官軍と戦う前に絶対の不利を悟って山中に逃げたと言っているのだから、磐井の遺体も当然行方不明であり、岩戸山古墳に埋葬されることは有り得ないのである。

次に書紀の説では、磐井を筑後御井郡(小郡市)の戦いで斬殺しており、その遺体を生前に築いた墓があるからそこに埋葬しようなどということは一切考えられない。反逆者の遺体はバラバラにされて無造作にそこかしこに埋められるのが一般である。

また筑後風土記の記す「官軍が磐井を取り逃がしたので腹立ちまぎれに生前墓の周りの石人・石馬を打ち壊した」くらいでは済まず、墓そのものを破壊したであろう。

墓は今に見るように立派な姿を留めているのである。(※全長150mの前方後円墳は、6世紀前半の当時、九州では最大、全国的に見ても最高ランクに入る規模である。)

【岩戸山古墳は卑弥呼の墓】

私のように邪馬台国八女説を採る場合、ネックというか弱点というか、一つだけ不問に付してしまったのが卑弥呼の墓である。

倭人伝には、西暦247年に魏王朝の「証書と黄幡(コウドウ)」すなわち皇帝から賜与された黄幡(戦旗)を持参した張政が邪馬台国の高官である「難升米」(なしおみ)に告諭(命令を下す)したあと、卑弥呼は命を絶つのだが、遺体は「径百余歩」の円墳状の墓を築いて葬った――とある。

この記述に従えば、邪馬台国内部に卑弥呼の円墳が無ければならないのだが、それを「これだ」と比定できなかったのが弱点であった。

ところが反逆者・磐井が築いた生前墓が主がいないままなぜ今日まで1500年近くもそのままの姿を留めているのかを考え、実際に訪ねて行った時、後円部に「伊勢神社旧跡」という表示を見て、あっと思ったのである。

伊勢神社と言えば御祭神はアマテラスオオミカミである。すると後円部には天照大神に比肩できるような人物が眠っているのではないか、大巫女である卑弥呼ならそれにふさわしいのではないか、と思い至ったのである。

しかしそう考えると、岩戸山古墳が磐井によって築かれたのは6世紀の前半で卑弥呼の死は247年であるから、築造年代が全く合わない。

そこで次のように考えた。

磐井は実は後円部(円墳)に卑弥呼が埋葬されているのは知っており、自分は前方部を繋ぎ足し、そこに自分の遺体を葬って欲しかったのではないかと。卑弥呼は天照大神そのものではないが、大神を祀れる霊能卯力を持っており、自分は地方豪族として前方部に埋葬されることによって少しでも大神に近づきたいと。

もともと前方後円墳の原型は円墳に祭りのためのテラスをつけ足したものであり、後世になってそのテラスが著しく巨大化した。築造の順番もまず後円部を造り、そこに前方部を接ぎ足すのが原則であった。磐井は前方部をタイムラグを無視して卑弥呼の眠る円墳に付け足したに違いない。

また直径だが、倭人伝の記す「径百余歩」は大陸では足を右に出し次に左を出すワンサイクルを「一歩」といい、150センチほどを一歩とするのだが、倭人が造った墓である以上、倭人の一歩すなわち右だけの一歩の単位で「百余歩」としたものだろう。およそ75mだが、現有の岩戸山古墳の後円部の直径は60m余りである。

若干少なめだが、1500年を経ているうちに雨風による浸食があったことは否めず、その点を勘案すれば卑弥呼の「径百余歩」の円墳と見て差し支えないと思う。









貴種流離譚(記紀点描㉝)

2021-12-06 23:06:17 | 記紀点描
【はじめに】

雄略天皇は「大悪天皇」として恐れられた。それは天皇就任前に多くの兄弟及び従兄弟を殺害しているからである。

兄弟では「黒比古王」「白比古王」、従兄弟では「市辺押羽(イチノベオシハ)皇子」、甥では「目弱(マヨワ)王」、臣下では「円大臣(ツブラノオトド)」がいる。

結局は「目弱(マヨワ)王」が継父の安康天皇を殺害したことに端を発している。

マヨワ(目弱・眉輪)は暗殺された大草香皇子(父は仁徳天皇、母は日向髪長媛)の遺児で、母と一緒に安康天皇のもとに連れていかれ、敵討ちをしたのだった。

この仕打ちに怒り心頭になったのが、安康天皇の弟で次代の雄略天皇であった。マヨワ王が逃げ込んだ円大臣の家を雄略天皇が差し向けた軍隊が取り囲み、とうとうすべて焼き殺されてしまう。

大草香皇子は隅田八幡所蔵の鏡に刻まれた「日十大王」であり、母が日向の髪長媛であった。允恭天皇が病弱で皇位を継げなかったら、大草香皇子が皇位を継承していてもおかしくなかった。

大草香皇子は妹のハタビヒメを雄略天皇の妃にしようとして派遣された根臣(ねのおみ)が、大草香皇子の妹入内の承認のしるしとして根臣に託したのが「押木玉葛(オシキノタマカズラ)」(金冠)であった。

金冠は主に半島の新羅製で、大草香皇子が所有していたということは、母の里の古日向が半島と海運によるつながりを持っていたことを示している。

【市辺押磐皇子の二人の遺児の流離】

雄略天皇に殺害された市辺押磐皇子(いちのべおしはおうじ)は雄略天皇の従兄弟で、父は履中天皇、母は葛城ソツヒコの孫でクロヒメといった。

クロヒメの子は男子がもう一人いて、御馬皇子(みまおうじ)といったが、この弟も雄略天皇の歯牙にかかっている。

雄略天皇の父は、市辺押磐皇子の父・履中天皇の弟の允恭天皇であるのだが、母方は押坂のオオナカツヒメで、母方の系統が全く違っている。

したがってこの惨劇は「母系違いの対立」が大きくかかわっていたと言えるだろう。古代の母系制社会を如実に物語るものだと考えたい。

さて、市辺押磐皇子には二人の男の子がいた。長男は億計(オケ)皇子、次男は弘計(ヲケ)皇子といった。

二人は、父が近江に狩に出かけた時に雄略天皇に殺害されたと知り、自分たちも危ういと悟り、逃避行を決断する。当時7歳と5歳であったというから、当然家臣の誘導による逃避行であった。

まず家臣の日下部連の先導で丹波の余社郡に逃れ、のちに播磨の志染(しじみ)の屯倉を管理する忍海部造細目(ほそめ)のもとに雇われ、「丹波少子(たんばにわらわ)」と名を替える(志染は今日の兵庫県三木市に属する)。

雄略天皇の代が終わり、次の清寧天皇の時に、転機が生じた。

清寧天皇2年(480年)の11月、播磨に遣わされた伊予来目部小楯(おだて)がたまたま忍海部造細目(ほそめ)の新築祝いの席に連なっていたところ、「丹波少子」の二人が祝いの舞を舞った。

その舞が堂に入っていたので、小楯は「上手なものじゃ、もっとやれ」と上機嫌であった。そこで二人は素性を明かす。舞とともに次のように雄叫びする。

<石上(いそのかみ) 振るの神杉 本伐り 末截ひ 市辺宮に 天下治めし 天万国万押磐尊の御裔 僕らま!!>

「石上に所在した市辺の宮で、天皇の位に就いていた市辺押磐皇子の子孫だよ、僕たちは!!」と訴えたのであった。

腰を抜かさんばかりに驚いたのは派遣された小楯である。志染屯倉の管理者細目とともに仮の宮を建てて二人の皇子に恭順した。そしてすぐに都の清寧天皇のもとに連絡を入れ、翌年(481年)、二人の皇子は都へ上がった。

清寧天皇には子がいなかったので喜びようは大層大きく、長男の億計皇子を皇太子とし、次男の弘計皇子は我が子にした。

2年後に清寧天皇が亡くなったので、弟の弘計皇子の方が先に即位し、「顕宗天皇」となった。

播磨の志染で見いだされた時の年齢は、雄略天皇の在位23年と清寧天皇の2年を加えて25年であるから、それぞれ32歳と30歳と若かったはずだが、顕宗天皇の在位はわずか3年、兄の仁賢天皇は11年と短いものであった。

おそらく志染の屯倉での、奴隷に等しい労働を経験したことによる心身の疲労が積もっていたのだろう。労しいことであった。

歴代天皇でこのような境遇に置かれた天皇はいなかったが、それでも何とか皇位に上ることができたのは慰めに違いない。

二人の治世の後に跡を継いだのは、あの雄略天皇の孫の武烈天皇であったが、祖父の性格に似たのか、残虐非道を尽くし、子もなかったために仁徳天皇から始まった「河内王朝」の血統はこの天皇で断絶してしまった。