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鴨着く島

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橿原王朝の樹立年代(記紀点描②)

2021-06-08 12:45:54 | 記紀点描
カテゴリー「記紀点描」の②は、①の「二人のハツクニシラスの謎」に続くものである。

私は前回の記紀点描①で、ハツクニシラススメラミコトと呼ばれた天皇が二人いたことの理由を述べたが、今回はその中の最初の「ハツクニシラス」すなわち「神武天皇」が年代としてどの時期に「橿原王朝」を樹立したかについて、考えてみたい。

「橿原王朝」は南九州(古日向)の投馬国から、大規模災害による避難的移住によって畿内大和に開かれたと考えている。その南九州投馬国による「東征」の証拠として、大隅半島のシラス台地と浸食谷とを縫うように建設が進む「東九州自動車道」の事前調査により、弥生時代後期の遺構と遺物が前代の弥生時代中期より著しく少ないことを挙げ、南九州人の大々的な移動があったのだろうとした。

そしてその移住団の出発年代は、「倭国が乱れた時代」と記す倭人伝と後漢書の「桓・霊の間」(後漢の桓帝と霊帝の統治期間=西暦148~186年)のうちでも早い方の140年代ではないかとした。

さらに出発後、いつの頃に橿原王朝が開かれかに関しては、古事記の記す移動期間、すなわち北九州岡田の宮の1年、安芸のタケリの宮の7年、吉備の高島宮での8年、都合16年で畿内河内に到達し、南下して紀州から大和の宇陀に入り、7年ほどのちに橿原に王朝を開いたことから、合計で23、4年かかったとした。(※この「東征」の期間は古事記に基づく)。

したがって西暦140年代の最後の頃「投馬国移住団」が南九州古日向を離れたとすれば、橿原王朝の樹立は148年+23年=171年。西暦171年の頃に大和に王朝を樹てたという結論になった。

これを別の観点から証明してみよう。

それは神武天皇から始まる「王朝年代記」である日本書紀における各天皇の寿命(宝算ともいう)を調べ、それぞれの年代を加算し、ある死亡年の確実な天皇から過去へ溯らせれば王朝の開始の年、つまり神武天皇の即位元年が決まるはずである。

もっとも、神武天皇の元年は「讖緯説」(辛酉の年に革命が起こり、新しい王朝が始まるという古代中国の思想)を取り入れたことによって辛酉の年に決められ、その間隔は干支の21巡というもので、推古天皇の9年(西暦601年)の辛酉年から21巡さかのぼらせた1260年前の紀元前660年が神武天皇の橿原王朝樹立の年ということになっている。

この考えが荒唐無稽なのは日本書紀の記載する各天皇の寿命を調べればすぐに分かる。記紀点描①でも指摘したように、日本書紀には寿命100年を超える超長寿天皇が、神武から16代の仁徳天皇までに13人もいるのである。(※神功皇后の寿命100年も含めている。神功皇后は天皇位にはいなかったが、摂政として幼い応神天皇の代わりを務めていた。)

これら超長寿命の天皇群の存在は、寿命を水増しすることで統治期間も長くし、初代をはるか遠くの紀元前660年へと持って行った結果出現したものである。その「手口」は古代中国の暦年法(干支による紀年)の言わば「悪用」であり、干支の一巡が60年であることをいいことに、各天皇の寿命を60年も引き延ばしたことの結果である。

それらの超長寿天皇をすべて挙げると、「神武127年」「考昭113年」「考安137年」「孝霊128年」「孝元116年」「開化111年」「崇神120年」「垂仁140年」「景行143年」「成務107年」「神功皇后100年」「応神天皇111年」「仁徳天皇143年」の13例で、この最後の仁徳天皇は古事記では83年であり、ちょうど60年の水増しがあることが分かっている。

以上の13人の寿命からそれぞれ60年を引いたのが各天皇の実寿命か、ほぼそれに近いものであろう。そこで次の計算となる。

13人の天皇が各60年の水増しであるから、水増しの総計は13×60=780年となる。これを1260年から引くと480年。これが推古天皇9年、すなわち西暦601年から(水増しをしない)本当の初代までの暦年であるから、601年から480年を引くと121年。これにより神武天皇元年は西暦121年であることが導かれる。

これは、私見の南九州古日向(投馬国)からの「東征(という名の移住)」は出発が140年代後半であり、その22,3年後の西暦170年の頃、畿内大和で「橿原王朝」が樹立されたとしたのに比べると約50年早いことになる。

しかし私見の南九州出発の時期をもう少し早く見るか、もしくは日本書紀における水増しの13代のほかに、干支一巡ほどではないにせよ、数十年の水増しがあったと考えると、両者は近接なものになる。いずれにせよ、南九州由来の橿原王朝が弥生時代後期のうちに樹立されたこと、これは動くことはない。

(※次回は二人目の「ハツクニシラス」である崇神天皇の即位年に迫りたい。崇神天皇は半島南部から九州北部の糸島(五十)に入り、そこを拠点として北部九州に勢力を広げ、「大倭」すなわち「北部九州倭人連合」の盟主となったが、半島情勢の逼迫により、子の垂仁天皇とともに王権を畿内に移動した天皇である。)

二人のハツクニシラススメラミコト(記紀点描①)

2021-05-21 13:17:41 | 記紀点描
カテゴリーの追加ができないので、タイトルに「記紀点描」を加えた。

今回は記紀を読んだ時によくある疑問「なぜ初代神武天皇も10代崇神天皇も<ハツクニシラススメラミコト>なのか」という誰もが首をかしげる疑問について考察してみたい。

古事記では初代を漢風諡号で「神武天皇」、和風諡号で「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)」といい、第10代を「し崇神天皇」、「ハツクニシラスミマキノスメラミコト」と書く。

日本書紀では初代を「神武天皇」、和風諡号で「カムヤマトイワレヒコホホデミノスメラミコト」、徳をたたえて「ハツクニシラススメラミコト」とし、第10代を「崇神天皇」、「ハツクニシラススメラミコト」と書く。

両書とも「神武天皇」「崇神天皇」という漢風諡号は同じなのだが、日本書紀では和風諡号の方に共通の「ハツクニシラス」が使われている。

神武天皇は初代であるから、日本書紀記載の「ハツクニシラススメラミコト(漢字で始馭天下之天皇)」という表記は正しいのだが、崇神天皇についての「ハツクニシラススメラミコト(漢字で御肇国天皇)」は神武天皇を差し置いてこう表記するのはちょっと変である。

もっとも子細に見ると神武天皇のは「はじめて天下を馭(統率)せし天皇」と「天下」を使用し、崇神天皇のは「国を肇(はじ)められし天皇」と「国」を使っており、厳密に言うと「天下を統率し」と「国を肇(はじ)め」では天下と国という概念に差があるのだが、いずれにせよ統一王権の開始を謳っていることにおいて変わりはない。

そこで最初に挙げた疑問「初代のみならず10代目の天皇に<ハツクニシラス>という和風諡号がなぜ与えられているのか」である。

古代史学者の多くは「神武天皇の東征」はおろか神武天皇の存在すら無かった、大和王権の成立を古くさかのぼらせるための創作(造作)に過ぎないとしており、そのため崇神天皇が本来の「ハツクニシラス」であり、神武天皇の「ハツクニシラス」は遡及して名付けたものだとしている。

しかしながらその論法だと、「じゃあ、崇神天皇は実在したのか」という当然の質問が投げかけられるのである。これには答えに窮してしまうだろう。

そこで「崇神天皇も実在性は薄いが、神武天皇および9代までの事績を全く欠いた天皇は全くの創作であり、崇神天皇のモデルとなった大王が大和に存在し、その大王の先祖の伝承を基に神武天皇以下9代の天皇を造作したのだろう」と取り繕う。

そのモデルとなった崇神天皇らしき大王とは「三輪山のふもとに展開する纏向遺跡を残した勢力(王権)の首長」ということになる。

そして三輪山を信仰するオオモノヌシとヤマトクニタマ及びアマテラスを祭ることによって大王位(天皇)に就いた首長を、後世になって崇神天皇と名付けて日本王権における「ハツクニシラススメラミコト」としたーーと。

この「崇神天皇初代説」の代表は早稲田大学教授だった水野佑という人で、崇神王権を「呪教王朝」として大和王権最初の王朝に比定した。
(※邪馬台国畿内説では女王卑弥呼をこの崇神天皇の叔母に当たる「ヤマトトトヒモモソヒメ」とし、箸墓という巨大前方後円墳の被葬者であるとして誤認の上塗りをしている。)

今日の古代史学では――九州熊本と関東の埼玉で発見された「ワカタケル大王」という銘文上の人名を雄略天皇に比定し、5世紀後半の雄略天皇からは実在性が高く、大王位も確実に存在していた。したがってそれ以前の天皇の実在性の確定はできず、記紀文献上の崇神天皇はやはり架空の天皇扱いとしている。

至極簡単に言えば、神武天皇は、架空と考えられる崇神天皇をモデルとして遡及的に過去にさかのぼって造作された天皇であって、どちらにも与えられている称号「ハツクニシラススメラミコト」も、当然、創作上の概念であるから、史実などと突き詰める必要もなく、その時代の記紀はただ「創作」として読めばよろしい――という答えになろうか。

しかし私見では全く違う。

まず神武天皇の東征。南九州では全国の統治ができないからそれの可能な適地すなわち畿内へ東征しようと兄弟のイツセノミコトや皇子のタギシミミなどを引き連れ船団を組んで出発したわけだが、

(1)古事記の記述では北部九州(岡田宮)に一年、安芸(広島)に7年、吉備(岡山の高島宮)に8年という長い行程を経て畿内に入り、さらに南紀州をぐるっと回って大和入りをしており、少なく見積もっても20年という長い「東征期間」が描かれている。
(2)日本書紀の記述では同じ「神武東征」が3年で畿内に入り、橿原王朝樹立をわずか4年という短期間で成し遂げたと書く。

以上の(1)(2)は同じ「東征」を描くにしても期間(年月)がなぜそんなに違うのか、どうせ造作なのだから、いや造作だからこそばれないように両書をすり合わせて期間くらい同じとして描けばよかろうにと長い間疑問を離れないでいた。

両書の神武天皇の東征譚と「欠史8代」の天皇の事績を読み通していて上の「東征期間」の違いのほかに「おや」と思った記述に気付いたのである。

それは第2代綏靖天皇の「即位前記」に見える、「庶兄タギシミミは歳すでに長じ、朝機(チョウキ)を経たり」という箇所で、この意味が豁然と分かったのであった。

つまり南九州から神武とともに東征して来たタギシミミは、「朝機」すなわち「朝廷のハタラキ」をして来ていたのであったのだ。言い換えれば「天皇位に居た」のである。

どういうことかと言うと、タギシミミは南九州で神武の子として生まれ父について東征に参加し、畿内に入って大和に橿原王朝を築いた一人なのであるが、どうもこのタギシミミこそが初代神武天皇ではないかと思われたのである。

南九州は「古日向」とも言うが、魏志倭人伝上の「投馬国」であったことは拙論でたびたび述べてきたが、その投馬国の王名は「〇〇ミミ」だったのであった。したがってタギシミミは南九州投馬国の正統の王に他ならない。(※もう一人キスミミがいたと古事記は記す)。

このタギシミミなら橿原王朝を築き「朝機」(朝廷のハタラキ)をしていて当然だろう。

したがって私は南九州からの「東征」は投馬国の東征であり、その主体はタギシミミであったとし、その神武天皇こと橿原王朝初代タギシミミが「ハツクニシラススメラミコト」だったと考え、史実とする。

次に崇神天皇。

日本書紀では「神武東征」に要した期間は瀬戸内海を経由して畿内に上陸するまで僅か「3年半」。これは古事記の記述では18年だったのと比べ大きく違っている。このことから私は「神武東征」は2回あったと結論付けたのである。

最初の東征は南九州からの「投馬国の東遷」で主体は投馬国王「タギシミミ」。二回目は北部九州からの「崇神東征」。

後者の崇神東征は「大倭東征」とも言い換えることができる。「大倭」とは魏志倭人伝の女王国の記事で「大倭をして(国々の市=交易を)監せしむ(監督する)」の「大倭」で、私はこれを、当時、北部九州(福岡県の北半分)を勢力圏とした倭人連合とした。その主体こそが半島南部から糸島(伊蘇国=五十国)に渡来して一大勢力を築いた崇神天皇家(ミマキイリヒコ五十ニヱ)であった。

この大倭が九州北部に一大王権を築いたころ、魏の大将軍・司馬懿が朝鮮半島を席巻しており、その後、魏が滅びると新たに晋王朝を確立した。この晋王朝のさらなる半島支配が高じて海を渡ってこないとも限らないという危機感のゆえに、大倭王の崇神が畿内への東征を敢行した。

これがわずか3年で畿内に入り、タギシミミの開いた橿原王朝に取って代わった崇神王権(纏向王権)である。したがってこの新王権を樹立した崇神天皇(ミマキイリヒコ五十ニヱ)をやはり「ハツクニシラススメラミコト」と尊称したのである。

以上が、初代神武天皇と10代崇神天皇がともに「ハツクニシラススメラミコト」と称されるゆえんである。

(※崇神天皇が大和地方にとってよそ者なのは、大和王朝の10代目でありながら、土地の神「大和国魂神」(おおやまとくにたま)を祭れなかった説話に端的に表現されている。まさに地元土着の王朝ではない証拠である。詳しくは「記紀点描シリーズ」で書いていく予定である。)