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鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

ダイコンの収穫(2024.12.18)

2024-12-18 10:57:50 | おおすみの風景
朝食後居間で新聞を読んでいたら、南の窓越しに見える畑でオレンジ色のトラクターが西から東に動いているのに気付いた。しかも後ろのロータリーの部分でたくさんの葉が揺れている。

よく見るとその葉っぱは連続して動いていて、そのまま下に落ちて行っているようだ。

ダイコンの収穫に違いない。
デジカメを持って家を出、50mほど先の畑に行ってみた。

ちょうど向こう(東)へ折り返したばかりで、ふた畝目の抜き取りにかかっていた。

普通なら耕運用のロータリー(回転刃)が装着される部分に、ダイコン抜き取り専用のアタッチメントが着けられている。

ダイコンは向かって右手から掘り起こしつつ抜き取られる仕組みで、抜かれたダイコンは今度はアタッチメントを右から左へ「空中移動」し、左手の畑面に落とされて行く。

抜き取りに人手はまったく不用である。

この機械は近年さらに高齢化した農家の助っ人で、1本の重さ1キロ足らずとはいえ、抜き取る際に腰をかがめなければならなかった高齢農家の救世主というべきだろう。

何しろ広い畑である。聞くところによると1反当たりの栽培本数は1万本だそうだから大変だ。この畑は3反はある。

もっとも抜き取ったあとのダイコンの葉っぱを切り落とす作業は人手によらなければならない。それでも見事な大根を眼にしながらの作業は嬉しさもあり、楽しいのではないか。

近年はサツマイモにしろ、ジャガイモにしろ根菜類の機械掘りが普及し、農家の体力的な負担は大きく軽減している。

実際に目にしたことはないが、ゴボウの掘り取りやニンジンなどにも機械掘りがあるという。

機械化には金がかかるから、どうも、という人もいるが、機械は借りればよく、ダイコンの掘り取りに使うこの機械の借り賃は知らないが、田んぼで活躍する収獲機械コンバインが1反当たり1万5~6千円だから、それよりは若干安いと思われる。

畑作にしろ米作にしろ、露地物は収穫は年に一回だから、よほどの面積を栽培しない限り、機械を保有する必要はないのが常識である。

こちらは我が家のダイコンの畝。まだ暑かった十月の初めに蒔いたのだが、ここ2週間ほど続く寒波のおかげで身が締まって来たようだ。

今日は何本か抜いてみよう。あの機械だったらこの畝のダイコン全部をほんの数秒でさっと綺麗に抜くだろうが・・・。

吾平山陵の紅葉

2024-12-10 10:01:36 | おおすみの風景
大隅地区で紅葉の名所はそれほど多くないが、山間の清流流れる吾平山陵(天孫3代目のウガヤフキアエズノミコトの陵墓)に行くと深まる秋の色が感じられる。

昨日今日と二日続けて霜が降りたのだが、我が家の庭のモミジは葉の先端だけが少し赤くなった程度である。

そこで今朝出掛けてみたところ、やはりそれなりに紅葉が始まっていた。

吾平山陵の入り口には案内所があるが、その前面にある苔の生えた広場のモミジは半分ほど色づいていた。

あと3日も冷え込みが続けばきれいな紅葉が見られるに違いない。

宮内庁書陵部管轄の吾平山陵に入っていくと、2番目の橋の下を流れる清流の川岸周辺には数本のモミジが見られる。

川にせり出しているのは自然生の山モミジだろうか。こんなのはむしろ春の新緑の頃の方が水面に映って清々しい感じがする。


吾平山陵のモミジで最も美しいのは3番目の橋のたもとに生えているモミジだろう。

湾曲して流れる清流の先の崖は柱状節理という天然の崖で、これはこれで見事だが、一本のモミジがなお一層風情を添えている。

また河岸の火山噴出物由来の白い軽石の集まりも独特の味わいがある。

吾平山陵には入り口の橋を入れて3つの橋あり、どの橋も欄干は花崗岩を加工した重厚な造りで、足元も玉砂利を固めていて滑らないようになっている。

昭和47年に現上皇ご夫妻が親拝されて以来、御親拝は途絶えているが、御親拝の際はもちろん、毎年派遣される宮内庁職員による代拝の時にも、また一般参賀者にもこの配慮は必要だ。

吾平山陵(あいらさんりょう)とわれわれは普通に呼んでいるが、正確には「吾平山上陵(アイラヤマノウエノミササギ)」である。

だが面白いことに道路標識では「吾平山上陵」と表示されているにもかかわらず、ローマ字では「Aira-Sanryou」と、「上(jou)」の音がない場合が多い。

そもそも吾平山上陵は、「山上」にあるわけでもないのになぜそう呼ばれているのだろうか――が問われよう。

皇室の祖先である天孫第1代のニニギノミコトの陵墓は薩摩川内市の「可愛(エノ)山上陵」であり、2代目のホホデミノミコトの陵墓は霧島市溝辺町にある「高屋(タカヤ)山上陵」で、どちらも実際の山の上に比定されている。

ところがこちらの吾平山上陵は山上とは言いながら、「洞窟陵」なのだ。「高い山の上にある洞窟」ならまだしも、伊勢神宮の五十鈴川になぞらえられる姶良川の源流に近いとは言え、なだらかな流れの川の向こうに見える洞窟なのである。

この疑問については幕末の国学者・後醍院真柱という人が「山上という表現はこの地が姶良郷からかなりの距離の山間部にあるからそう名付けられたのだろう」という見解を出しており、明治以降も大筋でこれが認められている。

私の考えはそれとは違い、ウガヤフキアエズノミコトの子どもに当たるいわゆる「神武天皇(皇子時代はトヨミケヌ命)」が東征を果たす頃は大規模な火山活動など俗にいう天変地異が多発し、南九州を後にせざるを得なかった。

つまり父親の陵墓を山上に築くことができず、災害に強い洞窟の中に葬る必要性に迫られたからではないか、と考えている。

ところが日本書紀ではウガヤフキアエズの陵墓について「久しくましまして、西の洲の宮にかむあがりましぬ。よりて吾平山上の陵にはふりまつる。」(本文)とあり、この表現から「吾平山上陵」という名称が確定した。

初代の二ニギの陵墓が「可愛山上陵」であり、2代目のホホデミの陵墓が「高屋山上陵」であるから、その「山上陵」という名称を並称する意味合いもあったに違いない。

しかし現実には山の上の陵墓ではなく、洞窟陵だったのである。

この吾平山上陵が洞窟陵である理由については、私の見解以外にも言及されてしかるべきかと思う。




初霜(2024.12.09)

2024-12-09 09:31:20 | おおすみの風景
昨日は日中寒く、風もそこそこに吹いていたが、夕方以降はほとんど無風になった。

天気が良ければ降ると思っていたが、案の定、今朝は氷点下まで気温が下がり、霜の朝となった。

7時に玄関前の気温は1℃、おそらく日の出直前の最低気温はマイナスだったろう(後の地元の天気予報ではマイナス1度だったそうである)。

南側の畑地帯を見ると、朝焼けの中、畑土一面を薄い霜が覆い尽くしている。風は全くないが、デジカメを持つ手がかじかんで来る。

菜園のブロッコリーの大きな葉にもうっすらと霜が降りた。

今年は10月に入ってから苗を植えたのだが、その10月の気温がとても高く、高温障害で葉に茶色の枯れが見えたのでダメかと思ったのだが、何とか持ち直して、今ようやく株の中心に花芽が育って来た。

どうやら年末には収穫できそうだ。

この寒さで一番喜んでいる(?)のがアブラナ科のダイコンとハクサイだろう。

ダイコンは太くなるというよりは、寒さで中身が緻密になり、その分甘みが増すし、ハクサイも寒さで緑の葉よりも芯の方がしまってきて、煮るとうまみが出る。

どちらも種からだが、やはり10月の暑さには相当へばっていた。ハクサイはとくに葉を虫にやられ穴だらけになっている。

畑から目を垣根に転じたら、さざんかが一輪、濃い葉っぱの中に満開だった。

イルミネーションもいいが、自然界の電飾も乙なものだ。



快適トイレ!?

2024-12-04 10:50:30 | おおすみの風景
我が家の隣りの地区の農道の整備事業が始まったらしく、いつもの愛犬ウメの散歩コースから少し離れた場所の畑を整地して工事現場事務所が建てられた。

珍しいというか、自動販売機が広い道路に向かって置かれている。
普通は現場事務所の建つ敷地内に置かれ、作業に当たる人たちの喉を潤すためのものだ。

それが敷地内から出て、道路に面した置かれ方をしている。ということは道路の通行人の利用を見込んでいるわけで、ある意味で、商魂たくましい。

しかし道路に沿ったフェンスの敷地の入り口に近いところまで行くと、思わず吹き出しそうな看板が立っていた。
「快適トイレ」というタイトルの看板だ。

しかも「一般の方もご自由にご利用ください。」とあるではないか。

左側の看板の内容はよくある事業所の勤務体制をうたったものだが、右のは初めて目にする看板である。

勤務体制云々の看板はおそらく建設現場等の勤務に関する法律が定められ、そのために一般人にもわかりやすくするためのものに違いないが、「快適トイレ」云々はどうなんだろう。

そのような法令があったとは寡聞にして知らない。

それともこの工事現場を任された建設業者独自のサービスなのか。

後者なら事業者の懐の広さを感じざるを得ないが、はて、実際に通行人でこの「快適トイレ」を利用しようとする者がいるのか。

工事期間中の期間限定の「快適トイレ」だが、ユーモアがあり、かつ勇気があり、かつ必要に迫られた通行人は何人いるのだろうか。

何にしても面白い看板だ。



電車ジャック「池崎イエエエエーイ!!展」始まる

2024-11-30 10:56:56 | おおすみの風景
 鹿屋市の広告塔になったサンシャイン池崎が10月27日から11月13日にかけて東京の東急田園都市線の一部車両を借り切って行った「電車ジャック」という鹿屋市の知名度アップのためのイベントの再現が、鹿屋市鉄道記念館で昨日から始まった。


鹿屋市鉄道記念館はシルバー人材センターが管理を委任されており、その関係で1か月置きに8日くらい勤務しているのだが、ちょうど29日は勤務日に当たっていた。

サンシャイン池崎はお笑い芸人だが、保護猫活動でも知られており、今やむしろそっちの方がテレビ番組ではメインの仕事になっているようだ。

そのサンシャインが得意なのが一発芸としての奇声「イエ――イ」の叫びで、これがどう受けたのかよく分からないのだが、評判を得て全国区の芸人、というか、タレントになった。

そもそも電車ジャックというものを知らなかったので興味があったが、今度の「鹿屋市版電車ジャック展」の展示を見て了解した。

「キハ20 441」というディーゼル客車の中の網棚の上の細長い壁にはすべて「巨匠池崎」の顔写真と「イエ―イ」をコンセプトにした宣伝文句が書き連ねてあり、これでもかこれでもかのジャックぶりである。

ディーゼル車の進行方向の反対側には鹿屋女子高の美術部とコラボした油絵と小品が飾ってあり、こちらはちょっとした美術展の雰囲気だ。

12月20日まで展示するそうであるから、街なかに用事のある際は立ち寄るのも一興だろう。鉄道記念館を含めて観覧は無料である。

ところで鹿屋市鉄道記念館だが、この建物は大隅線が廃線となった昭和62(1987)年の翌年に建てられいる。

かつては大隅線各駅(有人駅)でも廃線後には何らかの記念物の展示施設があったのだが、37年後の現在では常時施設管理者がいるのはここだけになってしまった。

無人駅だったところは今はちょっとした公園になっているところが多い。当時をしのぶのよすがは、ホームだったり線路だったり踏切の警報器だったりといろいろだ。

歴史的な視点で見ると廃線からこのかた、たかだか37年でしかないのだが、日常的にかけがえのなかったにもかかわらず消えてしまった鉄道への哀惜は今でも根強い。

ここで大隅線の簡単な歴史を箇条書きに記しておきたい。

大正4年(1915) 鹿屋ー高須開通(南隅軽便鉄道)
同 9年(1920) 鹿屋ー高山開通(大隅鉄道=軽便)
同 10年(1921)鹿屋ー串良開通(軽便仕様)
同 12年(1923)高須ー古江開通(軽便仕様)
 ※古江から鹿屋経由で串良まで31キロ余。線路の幅は軽便仕様の762ミリ
  昭和10年(1935)古江から串良までが国有化され「古江線」となる。
同 11年(1936)志布志からの鉄路が串良まで伸びる。
 ※古江から串良まで31キロが古江西線、志布志から串良まで17キロが古江
  西線と改称される。
同 13年(1938)古江西線が古江東線と同じ軌間の1067ミリになり、志布志
 と古江を結ぶ線路幅が統一され全体が「国鉄古江線」と呼ばれる。
同 36年(1961)古江から垂水市の海潟まで17キロが延伸される。
同 47年(1972)海潟(温泉駅)から国分まで33.5キロが延伸され、志布志
 から国分までの98.3キロ(33駅)が「国鉄大隅線」と改称される。
同 62年(1987)特定地方交通線(赤字廃止対象路線)として廃止され、国 
 鉄民営化の犠牲となった。

大隅半島に鉄道があったのは大正5年(1915)から昭和62年(1987)の72年間であったが、垂水から国分まで伸びた鉄路はわずか15年で消えたことになる。ああ、惜しむべし。

こんな過去を持つ大隅線を偲んで私は「思い出の大隅線」という曲を作った。

※Youtubeにアップしてあるので聴いて下さい。
『思い出の大隅線』(詞曲唄:松下高明)(https://youtu.be/yVUBSUZWA4g?si=xZ29lzjMWu8s5lK7)・・・URLをペーストして右クリックし、さらに「移動」を左クリックしてアップする。