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鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

夏日がさらに更新

2024-11-15 09:54:52 | おおすみの風景
今朝の新聞によれば、県都鹿児島市ではこれまでに夏日(最高気温25度以上)が189日になったとあり、年間の夏日が一年のうちの半分をはるかに超えてしまった。

大隅の鹿屋地区でもそこまではないが、おそらく100日くらいにはなったと思われる。

11月に入ってから夏日は2日くらいで、10日以降は最高気温25℃を下回る日が続く。

それでもこの頃は湿度の多い曇り空で、ときおり日が差すとかなり暑苦しい。

今月は鹿屋市の鉄道記念館でシルバーの仕事があり、来館者の中に大阪や千葉県などからの遠出組がいて、話を聞くと「やはり、暑いですね」と言われる。

大隅半島から大隅線98キロと志布志線38キロの鉄路と39の駅が消えて37年になるが、記念館として管理人がいるのはもうここだけになった。

昨日はたまたま長崎県でかつて鉄道マンだった人と、地元大隅で鉄道マンだった人が来館したが、館内を案内するこちらの方が勉強になった。

どちらも国鉄が民営化される前に勤めていた人で、その後の身の振り方は明かさなかったが、それぞれに苦労があったに違いない。


昨夜からの小雨は菜園をほど良く湿らせてくれた。

9月一杯続いたうだるような暑さは、その前に蒔いたダイコンにしろハクサイにしろ高温によるダメージを与え続け、ひょっとしたら育たないのではと思っていたのだが、10月の中旬以降は持ち直し、ようやく一息ついた感がする。

巻き始めたハクサイ。葉っぱに虫食いが多いがめげずに育っている。ダイコンも太さ2寸くらいのが地上に立ち上がって来た。

虫食いの全くないのがサニーレタスで、サラダ用に重宝している。

花の方も暑さの影響だろう、真夏日の下で咲き誇っていた鳳仙花のこぼれ種が芽を出し、十分な大きさになってまた咲いている。

向こうに見えるのはポーチュランカだが、これもこぼれ種からの二番手だ。だが太陽光をめっぽう好むタイプだから、花が哀れなくらい小さくなっている。

どちらも高温性の花だが、いつまで咲き続けるだろうか。

115回目の吾平町敬老会

2024-11-04 09:34:43 | おおすみの風景
毎年11月の第1日曜日、鹿屋市吾平町では合併前の旧町時代から文化祭が行われていて本年で46回目、今年も「美(うまし)里うたごえ同好会」の一員として参加した。

去年からは、毎年10月の最終日曜日に開催されていた敬老会がこの文化祭と合同で行われるようになった。

吾平町単独での敬老会は今年で何と115回を数えるそうだ。単純に引き算すると最初の開催は1909年、明治32年ということになる。途中、戦時中で開催不可能の年もあったろうから、もう少し前から行われていたに違いない。

とにかく古い。明治の30年というと吾平町がまだ姶良村だった時代だ。

もしかしたら敬老会はまだ現在の吾平町域全体で催されていたのではなかったかもしれない。今の大字で言うと麓、上名、下名・・・という小村単位だったのではないか。

その小村単位が合併して「姶良村」になり、「敬老こそが村是」という指導者の下、各大字単位で行われていた敬老会が合同で催されることになった。それも明治の「大合併」の余波だったのだろう。

敬老の理念がこれほど長く自治体で続いた例は寡聞にして知らないが、戦後になって、たしか兵庫県の某町で長く続く「老人の日」が毎年9月15日に行われていたのを参考に政府が採用して「敬老の日」が制定されたと聞くが、その某町の敬老会はいつから始まっていたのだろうか。

おそらく明治からではあるまい。吾平町(姶良村)こそが先駆者だったと思われる。

その穿鑿は置くとして、吾平町がなぜ姶良町ではないのか。吾平町を流れる母なる川は「姶良川」であり、明治20年代はまだ姶良郷であり、確実に江戸時代から続いている地名である。

(※もっと古いことを言えば、「あいら」を「姶﨟郷(姶羅郡)」と書いているのが『倭名類聚抄』の郡郷一覧中の大隅国の地名に登場する。この類聚抄が著されたのは平安時代前半で、約1100年前のこと。)

それを「吾平町」に改めたのは戦後の昭和22年のことだった。

というのも現在の姶良市の前身が「姶良郡姶良町」だったからである。向こうにも「姶良」こっちも「姶良」では紛らわしいとのことで、こちらには同じ「あいら」でも日本書紀に「吾平津媛」という女性の故事があり、「吾平」を名乗ることにしたのである。

37年前の昭和62年(1987年)に廃線になった国鉄大隅線の駅に「姶良駅」があったのだが、この駅名も同じ理由で「吾平駅」に変更されている。

幾多の郷村、市町村の合併等の変遷を経ても、吾平町の旧村時代に開始された敬老会が115年以上も続いているというのは奇跡に近い。

大ホールでは午前9時から10時までが「敬老会式典」で、そのあと吾平の小中学校生徒の合唱や吹奏楽演奏があり、引き続いて各サークルによる文化祭の舞台発表が行われた(会場を半分に仕切った片方は作品展示)。

発表するサークルではとにかく舞踊が多い。その参加者はほとんどが女性である。長生きする理由の一つがここにある。



大水害の予兆?

2024-10-22 11:28:37 | おおすみの風景
昨日の午後2時半の頃、テレビで緊急大雨情報が出されたのでよく見ると、そこは大隅半島の肝付町だった。

ここ鹿屋市の南部に位置する我が家辺りでも、当時、弱い雨が降っていたのだが、その情報には驚きだった。

何と午後2時10分までの一時間雨量が「120ミリ」だったのである。

たしかに昨日から東風が強く、それは太平洋から北上して来た高気圧の西側の縁から吹き出す東風で、それに乗って太平洋上の高い温度かつ湿った空気が大隅半島の東側(太平洋側)に突き当り、線状降水帯を形成したものに違いない。

それにしても台風がらみでもない限りこんな120ミリという激雨は経験したことがない。

2か月前の台風10号の時には、中心が九州にあるのに思いもよらない遠方の東北地方で南からの強風に乗って線状降水帯が発生し、甚大な雨量を観測したばかりだが、今度のは台風でも何でもない普通の高気圧の移動中の現象だった。

昔ならこの高気圧は「すがすがしい秋晴れ」をもたらす配置にあるのだが、何しろ太平洋を流れる黒潮の水温が高過ぎる。太平洋側に日本列島がすっぽり入ってしまうような広域で異常に水温が高い。

昭和13年の10月15日、今からもう86年も前の話だが、秋台風が今度線状降水帯が発生した肝付町の太平洋岸(旧内之浦町)に接近し、大雨をもたらしている。

雨は内之浦・高山・吾平で特に強く降り、山津波が発生し、広瀬川・高山川・姶良川はすべて氾濫し、川筋にある田はことごとく泥流のなすがままだった。

この水害による大飢饉などの発生はなかったようだが、実は隠れた大きな被害があった。

それは国鉄大隅線である。

当時の大隅線は志布志から大崎・東串良・串良・高山・吾平・鹿屋の主要駅を通って錦江湾沿いにある港町・古江まで、約45キロの単線の鉄路であった。その当時はまだ国鉄「古江線」と言っていた。

古江線が国有化されたのは昭和10(1935)年。

その当時、志布志から東串良までの線路幅は1067ミリの狭軌だったのだが、串良から古江までは762ミリの軽便鉄道仕様だったので、東串良で列車の交代が行われるという不便な路線であった。

そこで3年後の13(1938)年の10月に古江駅から東串良駅までの線路幅を762ミリから1067ミリに変えるという「改軌」が行われた。その竣工は10日であった。

ところがその5日後の10月15日に、先に述べた台風が大隅半島に甚大な水害をもたらしたのである。

改軌したばかりの新しい鉄路は至る所で寸断され、特に洪水が起きた河川に架かる橋は無残にも橋桁だけを残して流れ去ってしまった。

しかし九州の国鉄各地の管理署からの応援隊が集まり、まさに日に夜を継いでの復旧工事が行われ、何とか生き延びた。

もしこの時までに国有化されていなかったら、つまり私営鉄道のままであったら間違いなく倒産し廃線となっていたに違いない。

国鉄大隅線の廃線は1987(昭和62)年であったから、大水害後ほぼ半世紀は動いていたが、時あたかもモータリゼーション時代に突入し、まさに「水(時代の趨勢)に流された」ことになる。

垂水から国分(霧島市)まで1972(昭和47)年に延伸されて「国鉄大隅線」となったのだが、赤字路線(地方特定交通線)として国鉄民営化の直前に廃止となった。

志布志駅から国分駅まで33駅、98キロの国鉄大隅線は、全線開通したのも束の間、わずか15年で廃線となり、大隅半島から鉄路が消えたのであった。


「上野原縄文の森」で研修

2024-10-19 11:07:48 | おおすみの風景
10月18日、鹿屋市のリナシティで開かれている市民講座『考古学と郷土史』を受けている講座生ほか12名で霧島市国分の上野原縄文の森を訪れ、講師の前の縄文の森園長であった堂込さんに、施設案内と研修を兼ねて指導していただいた。

この10月からリニューアルオープンしたばかりである。

そのリニューアルの目玉は「上野原に居住していた人々の年代が、かねてより1100年早まった」というものだ。

上野原縄文の森は、上野原遺跡の発掘によって南九州の早期縄文時代の様相が明らかになり、また住居跡の調査研究により開園当時は「9500年前の住居跡が継続して見つかり、その数は52軒」という古さも古い上に、軒数も驚くべき数だということでセンセーションを巻き起こした。
このクリアファイルは開園10周年(2012年)に見物した時、購入したと思うのだが、ファイルの上部には白抜きで「9500年前の時間旅行」とタイトルが入っている。

今年は開園22周年だが、10周年の時点では明らかに、上野原縄文人は9500年前の人たち――という認識だったのだが、ここへきて1100年も時代がさかのぼることになり、何と「10600年前の人たち」と1万年を超える太古に生きた人々ということになった。

講師の堂込前園長はリニューアルした展示を中心に解説していただいた。奄美諸島の縄文時代や縄文時代から続く弥生時代の展示の中で、旧大根占町の南部の海岸段丘で蹉跌の採取中に発見された「山ノ口遺跡」のコーナーは注目に値した。
秀麗極まりない「山之口式土器」の中に、なんと取っ手の付いた大型のカップがある。思わずこれでビールを飲んだら・・・と快哉かつ驚きであった。

その下にある二つの軽石製の岩偶も面白い。かつて写真で見たことがあったが想像よりはるかに大きい。何に使われたか不明とされているが、子孫繁栄のシンボルのようだ。
とにかくすごいのが、高さ5mほどもある土器群の展示だ。最も古い向こうからこちらまで96個体あり、年代も13000年前から3000年前の物まで、1万年にわたる縄文土器群が南九州ではほぼ途切れることなく発掘されている。

中でも向こうの柱から3番目と4番目の間に置いてある8000年前の「壺型土器」だが、首の部分から下はまるで人間の肩が張り出したような形で、底部は平底である。

どうしてそんな形に作ったのだろうかと首を傾げ、同時に、よくバラバラにならずに発見されたものだと感心するほかなかった。

土器群を一通り見て回った後、県内最新の発掘調査状況を展示する一室で解説を受けたあと、少し休憩をとり、休憩後は外のフィールドにある住居群を訪れた。

住居跡の床面に桜島由来の黄色味を帯びた火山噴出物(軽石)が見られたことから、その噴出年代は10600年前なので居住年代も以前の9500年前から1100年繰り下げられた。

フィールドの手前には「地層観察館」、奥の方に「住居跡」の床面を展示する施設があり、当時の縄文人(上野原人)が生活していた匂いのような物が感じられた。

これと似たのが福岡県の春日市に「奴国の丘」とかいう施設があったのを思い出したが、あちらは弥生時代、こちらは1万年以上前だから比較のしようがないが・・・。




竹田恒泰の日本史教科書

2024-10-13 16:14:26 | おおすみの風景
「そこまで言って委員会」(読売テレビ)は日曜の午後の番組として人気があるが、今回はレギュラーコメンテーターの竹田恒泰氏が中学校用の日本史の教科書を執筆し、文科省に申告していることを取り上げていた。

竹田恒泰氏は旧皇族の竹田宮の出身で、父の恒和氏はオリンピック委員としてその名が高かったが、国際オリンピック連盟(IOC)の某委員に賄賂を贈ったとして取り沙汰されたことがあった。

ただし私腹を肥やしたわけではないので、今回の2021東京オリンピックの開催に当たって私腹を肥やした某広告会社の人物とは一線を画せる人であった。

それはそれとして息子の恒泰氏は才気煥発の人で、歴史には並々ならぬ関心と知識を持ち併せており、歴史教科書を書いたことにさほどの驚きはない。
他のコメンテーターたちの質問に答える竹田氏。

ただ旧皇族という立場であるから、一般的に天皇制擁護の論陣を張るのは予想ができる。

中でも古代史以前の日本文化の発展に関して、一般史学的には中国発祥のものが朝鮮半島経由で日本にもたらされた結果とされているが、そこに異議を唱え、中国大陸からの直接的な伝播の方にシフトすべきだとしているようだ。

稲作にしろ鉄器にしろ銅鏡にしろ、朝鮮経由が全くないとは言えないが、むしろ大陸との直接の交流によってもたらされたとする方が、受動した文物の多様性から見て本流の可能性が高い。

(※先日、鹿屋市の吾平振興会館で肝付町(旧高山町)出身という元新聞記者だった古代史研究家のU氏の講演を聞いたが、氏の説では南九州のクマソは中国南部(呉越)あたりからの渡来人で、先進的な文物を携えて来たゆえ、南九州をはじめ九州各地に勢力を拡大して「九州王朝」をつくり、そこから全国に打って出たそうである。竹田氏のはクマソと特定するものではないが、中国勢力の流れが列島の古代を彩ったと考えているのとは当たらずと言えども遠からずか。)

中で某女史が投げかけたのが「竹田日本史は邪馬台国問題を避けているのでは?」という質問だった。
皇族とはつまり大和王権の系譜につながる者だから、山口女史は当然「邪馬台国畿内説」を教科書に書くものと思っていたらしい。

ところが竹田氏の見解は邪馬台国九州説であった。その論拠は示さなかったが、解釈の上で様々な説があり、中学校の生徒対象の教科書としては煩雑過ぎると考えて、あえて邪馬台国の所在地問題については触れなかったのだろう。

賢いと言えば賢いやり方である。

氏が最も提起したかったのは、古墳時代を「大和時代」とすることだったという。

平安・平城(奈良)・飛鳥と時代をさかのぼり、その次は「古墳時代」となるわけだが、古墳時代にはすでに奈良の古称である大和地方に王権があったのだから「王都としての大和」を時代名にすべきだという考えである。

3~6世紀に古墳という埋葬施設が大小多様に作られたのは史実だが、古墳という考古学的な物だけでは歴史を語るには不十分過ぎる。記紀やその他の文献を捨て去っては歴史の神髄は得られない。

当時の王権の都合のいいように書かれたのも史実であり、そこをどう拾捨勘案して再構成するかが歴史家の腕の見せ所だろう。