goo blog サービス終了のお知らせ 

鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

縄文系のゲノムは朝鮮半島にも

2023-12-04 19:57:53 | 古日向の謎

3日前だったか、高山町(現・肝付町)出身で東京在住の中村さんという方からファックスが送られてきた。

何かと思えば、中村さんの主張を何かの雑誌に載せたのか、そのコピーと同時に「ゲノムの多様性」という全国紙Y新聞に載った物のコピーの2枚がファックスされていた。

中村氏の主張は「戦争回避に日本は役割を果たせ!」というタイトルで、B5の雑誌の2ページにわたる論考を披歴していた。その中で氏の最も肝心な内容が次の書き込みだろう。

<世界的に自然との共生を理念とする精神をDNAの中に持っている日本が見直される中で、平和の精神をDNAの中に持っている日本の政治家、宗教家が新たな世界平和の構築に役割を果たす余地は少なくない。

と私は思っています。>

さらにその根拠を、

<初代神武天皇が、即位の時に「世界は一家、人類みな兄弟」の世界観を述べられたのです。このことは

神武の祖先がはるか彼方から苦難を乗り越えて渡来した平和志向の民族だったことを思わせます。>

日本が平和へのDNAを持っているのは神武天皇の代から継続している、と考えている。そして、

<神武の世界観と共に世界に波及させる日本の出番を世界が待望しています。>

と結論している。

(私注)「世界は一家、人類みな兄弟」の世界観というのは日本書紀の<神武天皇即位前紀>にある「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩(おお)いて宇にせむこと、また良からずや」という宣言(詔)のことで、六合は国の内、八紘は天の下、宇は家と訓読みされている。

日本人がもともと平和志向であるのは初代天皇である神武の頃からで、その時の精神を受け継ぐDNAによって世界に平和をもたらす役割を自覚せよ――というのが中村氏の訴えであろう。

この考えには賛成だが、日本列島の歴史の中でどれだけ多くの戦乱があったかを思うと疑問が残る。

また上の引用文の中で下線を施した部分についても疑問を感じる。

氏が神武天皇の祖先であるニニギノミコトがはるか彼方から列島に渡来してから日本の皇室が始まった、つまり南方から「天孫降臨して」始まったという考えには賛成できないのだ。

それは同時に送られてきた「ゲノムの多様性」という全国紙Y新聞のコラム(11月26日付)によっても指摘できる。

この「ゲノムの多様性」は国立科学博物館の篠田教授へのインタビューから構成されたもので、列島の縄文人の成り立ちについて最先端の分子生物学(遺伝子情報学)の新知見によっている。

それによると朝鮮半島や大陸から陸続と渡来した人たちと、列島生え抜きの縄文人とが混血することによって弥生時代の文化が始まったとする学説は否定されたそうだ。

ゲノムの分析によると半島の釜山の6000年前の遺跡から発見された人骨から採取したゲノムからは縄文人のゲノムが優勢だったそうで、6000年前の時代にそこに縄文系の人が住んでいたことが明らかになった。

また、弥生人77体のゲノム分析でも、現代の大陸人のゲノムよりも縄文人のゲノムが優勢だったそうである。

半島の釜山に居住していた縄文人は九州との関係を持つもので、九州の縄文人が向こうへ渡ったのだろう。私はその理由を「鬼界カルデラ」の大噴火によって逃れた古日向の縄文人(早期)がいたからだと考える。

この九州から逃れた(ディアスポラした)人々のグループが何百年か経って、九州南部(古日向)の植生が回復したのちに故郷の古日向へ帰還した。これが「天孫降臨」ではないかと思うのである。

現代に喩えれば、ユダヤ人は2000年前に世界各地に離散(ディアスポラ)したが、2000年のちに当時居住していたパレスチナの「シオンの聖なる地」に帰って来た(シオニズム)のとかなり似ている。

パレスチナ人は差し当たりその地(パレスチナ)に住んでいた「オオクニヌシ」であり、その土地を我らに譲れと迫ったのがユダヤ人の「天孫降臨」(シオニズム運動)であった。

※オオクニヌシは国を譲り「八十隈手」(隅っこの方)に引きこもり、その代わり大きな神殿を所望し、平和のために祈ろうとした。オオクニヌシたるパレスチナ人も矛を収めて大局的な見地から平和を祈って欲しいものだ。

 


広田遺跡の変形頭骨

2023-10-17 21:20:43 | 古日向の謎

昨日の新聞だが、鹿児島県の有名な遺跡である種子島の南種子町には弥生時代から古墳時代にかけての広田遺跡があり、そこで発見されていた100体以上の人骨を先端技術の画像で再現したところ、それら頭蓋骨の特徴が明らかになった、という。

この遺跡に眠る集団は頭蓋骨を変形させており、同時期の弥生時代人骨と比べて明らかに大きな違いがある。

変形の仕方は明らかではないが、後頭部が絶壁のようになり、頭蓋骨そのものにも窪んだような跡があるそうだ。

3Dスキャンで立体的な画像に再現した九州大学の研究者は、「男女を問わず、赤ん坊の頃から頭に何かを巻いていたと考えられる。集団のアイデンティティーを示すためではないか」と言っている。

形質人類学では上の段の山口県出土の弥生人の頭蓋骨は「長頭」(前後に長い)に属すとし、下段の広田出土の頭蓋骨は縄文人に多い「短頭」のタイプだとしている。

縄文人はもともと広田遺跡の人骨ほどではないが、短頭に属するとされており、弥生時代から古墳時代になって長頭化が顕著になったというのが形質人類学の結論である。

その違いは何故なのかに関しては、弥生人の多くが半島由来の集団であり、彼らが長頭であったがゆえに、縄文人と混血をしたあとも、長頭の遺伝子が強く働いたのではないだろうか。

というのは魏志韓伝の「辰韓人」について彼らの風習の中で、次のような変わった習俗が見られると書いてあるのだ。

<児を生むや、すなわち石を以てその頭を圧す。その褊(ヘン=狭い)なるを欲すればなり。今、辰韓人みな褊頭(ヘントウ)なり。男女倭に近く、また文身せり。>

(訳)赤ん坊が生まれるとすぐに石を頭に押し当てるが、頭の幅を狭くする習俗なのである。狭い方がいいというのだ。たしかに辰韓人はみな頭の幅が狭い。彼らは倭人に近い集団である。文身(入れ墨)も施している。

辰韓人のこの習俗が列島の弥生人や古墳人に取り入れられたという証拠はないが、遺伝的な影響を受けた可能性は高いと思われる。

それでは広田遺跡の極端な「短頭」集団はどうして生まれたのか。これについての文献はないから、推測するしかないが、上の研究で明らかになったように、何らかの後頭部への圧迫が習俗としてあったのは間違いないだろう。

ただその理由がはっきりしない。単に他の集団と区別するためのアイデンティティー確保のための短頭化なのだろうか。

広田遺跡は砂丘の上にあったという。しかも遺跡からは有名な「貝符(かいふ)」が多数見つかっている。他にもイモガイ製の腕輪があるから、彼らの集団はいわゆる「海人」であり、南海産の貝を求めて船で縦横に往来していたのだろう。

南海産の貝殻は薩摩半島の金峰町に所在する高橋貝塚でも多数が見つかっており、しかもそこでは加工がなされていたようである。

これらの結びつきはもちろん文献では確認できないが、船のルートによれば比較的たやすく行き来ができるから、繋がりが無いと決めることはできない。

また人骨の身長は150センチメートル内外と低身長であるという。このことから思い出したのだが、魏志韓伝に戻ると、三韓人とは異質なタイプの島人がいるという記事がある。

<三韓の中の馬韓の海の中に大きな島があり、そこに住む「州胡」(島の蛮人、と貶めた言い方)は短躯であり、話す言葉が馬韓人とは違う。頭髪を剃ってしまい、鮮卑のようである。好んで牛と猪を飼いならす。(中略)船に乗って往来し、韓の中に行って物を売り買いしている。>

という集団がいた。この集団は具体的には済州島の住民だが、「短躯」(低身長)といい、「船で往来している」といい、広田遺跡人を彷彿とさせる。

済州島の同時代人の遺骨が発掘されればはっきりするのだが、今のところ見つかっていない。しかし同じ海人族であることは間違いないだろう。

さて「短頭」にしたのは宗教的な理由とも考えられるが、今回の研究によって赤ん坊の頃から何か頭に巻いていた可能性が指摘された。しかし単なるアイデンティティーつまり集団的なファッションではないだろう。

もしかしたら生涯にわたって頭に鉢巻のような物を巻き付ける日常があり、鉢巻がしやすく、ずれ落ちにくいよう頭にフィットさせるための「実用的な変形」だったのかもしれない。


日向国と古日向

2022-12-06 11:22:12 | 古日向の謎
私は史論で日向(日向国)を使用する場合は、奈良時代の和銅6(713年)に古代の日向国から大隅国が分立される前までの古代日向国は「古日向」と呼んでいる。

専門用語を使うと、一般的に今日の宮崎県を指して使う日向(日向国)は律令制制定以後の「日向令制国」で、この「日向令制国」には大隅国も薩摩国も含まない。

「日向令制国」という同じ使い方をすると、大隅国は「大隅令制国」であり、薩摩国は「薩摩令制国」となる。

「日向令制国」はほぼ今日の宮崎県であり、「大隅令制国」と「薩摩令制国」はともに今日の鹿児島県である。

「大隅令制国」と「薩摩令制国」とはもともと古代日向国に属していた。そして無論「日向令制国」も古代日向国の内にあった。

つまり「古代日向国=大隅令制国+薩摩令制国+日向令制国」ということである。

ただ、大隅国が古代日向から分離したことは『続日本紀』元明天皇の和銅6(713)年4月3日の条にはっきりと記されているのだが、薩摩国の分離独立については明確な記述はない。

(※薩摩国の独立は多禰国=種子島と同時だったらしいことが、元明天皇和銅2(709)年6月条に両国の国名が記述されているのが確認され、少なくとも大隅国の独立よりは早かったことが分かっている。)

上の等式で示したように、もともとあった古代日向国は今日の宮崎県と鹿児島県を併せ持った広大な国であったのだが、薩摩(令制)国と大隅(令制)国が分離したあとの宮崎県の領域が「日向国」として古代からの日向の名乗りをそのまま継続したため、歴史を学ぶ際に誤解を生んでいるケースが多い。

もっとも誤解を生むのは神話であり、特にその中でも天孫降臨神話が別名「日向神話」と呼ばれる場合である。

この神話に登場する「日向」は宮崎県と鹿児島県を併せた古代の日向であるのだが、律令制制定以後の「日向国」つまり宮崎県の神話と矮小化されてしまうことが多い。これは意外と根強い先入観であり、神話の解釈を複雑にしている。

端的に言うと「日向神話って宮崎県の話なんだ」という誤解である。

ニニギノミコトの天孫降臨の場所が鹿児島県の霧島山だったり、宮崎県の高千穂町だったり、神武天皇の父とされるウガヤフキアエズノミコトの御陵が鹿児島県鹿屋市吾平町の吾平山上陵だったり、宮崎県日南市の鵜戸神宮裏手の吾平山だったり、と鹿児島県と宮崎県で張り合っているようにも見える。

日向神話のニニギノミコト以下3代の生まれた場所も葬られた場所も、両県で何か所もあり、旅行者はもとより研究者も手古摺っている状況である。

しかしいずれにせよこの論争は鹿児島県か宮崎県かの両県に限定されるので、次のような考え方をすれば解決になるだろうと思う。

要するに両県は律令制制定以前は単にまとめて「日向」と称されていたのだが、律令制以降は3か国に分離独立し「日向・大隅・薩摩」となった。この際、新しい生まれた日向(令制)国を「新日向国」と改称すればややこしいことは何も起こらなかったはずだ。

しかし今さら「新日向国」と言うには「日向国」が長く使われ過ぎているので変えるのは至難の業である。そこで私は律令制制定以前の広大な「日向」を「古日向」と称して使うことにした。

この「古日向」とは今日の鹿児島県と宮崎県を併せた領域であるが、実は南九州のこの古日向こそが私の邪馬台国論の中では戸数5万戸の「投馬(つま)国」そのものであった。

『魏志倭人伝』によると、投馬国では王名を「彌彌(ミミ)」といい、女王を「彌彌那利(ミミナリ)」と言ったが、『記紀』によれば古日向生まれの神武の皇子たちがタギシミミといい、キスミミといい、また「神武東征」後の大和で生まれた皇子たちがカムヤイミミと言い、カムヌマカワミミと言ったとある。

投馬国を南九州古日向と比定したら、中国の史書と日本の歴史書の両書で極めて特徴のある王名に一致を見ることになった。これによって南九州古日向に投馬国が実在し、「神武東征説話は嘘ではない」ことの確信を得たのであった。

和銅6(713)年4月3日に古日向は完全に令制国の「日向・薩摩・大隅」の3か国に分割され、時の大和王権に隷属してしまうのだが、古日向時代の南九州の歴史には栄光ただならぬものがあったことも確信できたのである。

前平式土器(11000年前の土器)

2022-06-08 21:31:00 | 古日向の謎
都城歴史資料館で5月20日から、<食とくらしと縄文人>という特別展示が催されているというので見学に出かけた。

その特別展示の目玉は、何と言っても都城市山之口町の「相原第1遺跡」から大量に出土した縄文時代早期前葉の「前平式土器」である。

相原第1遺跡は山之口町と三股町との境に近く、令和2年から3年に掛けて行われた農地整備自事業に伴う発掘調査によって発見された。

資料館でもらったパンフによると次の特徴がある。

【(タイトル)11000年前の縄文村発見!

 相原第1遺跡では令和2~3年に調査を実施した結果、約11000年前の集落跡が発見されました。

 竪穴建物跡の中には、建物内で火を焚いていた跡(炉)が確認されたものもありました。南九州の早期前葉の竪穴建物跡から炉が発見される例は少なく、貴重な発見といえます。

 また、ツルマメとアキノエノコログサの圧痕土器も見つかっており、当時の植物利用が分かる遺跡です。】

パンフの説明通り、この遺跡は11000年前の当時の山之口町一帯の(広く言えば古日向一帯の)人が生活していた跡の基本的な条件を示している貴重な遺跡だ。竪穴式の住居跡の中に「炉」があったらしく、明治以前の日本家屋には必ず「囲炉裏」があったことにもつながって来るから不思議だ。

また土器に付いた「圧痕」にツルマメとエノコログサが見られたことは、当時の食糧事情の一端を示しており、これも重要な発見である。



特別展示室の真ん中に展示の「前平式土器」。二つの土器には大きさの違いがあるが、口縁の刻み方などは同じである。
左手のはやや小ぶりで高さ20センチくらい、平底で細長い円筒形(バケツ型)。右のは高さ30センチほどで、直径が2倍くらいあり、こっちは寸胴タイプだ。

錦江町田代の鶴園で発見された岩本式土器群は、この前平式と同じ時代で、同じく平底だがもっと図体の大きな物ばかりだった。(※他に最古級の土器としては吉田式というのがあるが、吉田式の方が貝殻文様がはっきりしているようだ。)

相原第1遺跡から発掘された土器は縄文早期前葉の前平式土器だけというから、ここの集落は前平式土器の起源地と言っていいのではないだろうか。

その一方でこの集落は他のデザインの土器を生み出す前か、もしくはよそからの土器型式を導入する時間を持たないうちになくなったようなのだ。いったい何があったのだろうか?

火山災害による拡散か、はたまた疫病による死滅か。

いずれにしても東日本の縄文文化よりはるかに早熟だった南の縄文(貝殻文)文化は、7300年前に起きた「鬼界カルデラ大噴火」の前になす術もなく、壊滅した。

ただし、逃げおおせた者たちがいたことは明らかで、7000年前以降に本格化する東日本の縄文文化に影響を与えたことは間違いないだろう。

中部から信越地方に見られる「火焔型土器」のデコレーションはまさしく「火焔」であり、そのモチーフは南九州をしばしば襲った巨大噴火だったのではないかと思われないこともないのである。

上野原遺跡の年代観

2022-05-25 09:54:23 | 古日向の謎
今朝の新聞によると、霧島市(旧国分市)の上野原にある「上野原遺跡」に関して、その年代が約1000年繰り上がった(古くなった)そうだ。

これまでは集落跡も遺構も9500年前とされていたのだが、これらが10500年前のものということになった。

そして日本はもちろん世界でも最も古い「壺型土器」はこれまで7500年前とされていたのが、これらは8500年から8800年前に繰り上がった。そうなると世界で最も古い壺よりも2500年から3000年古い時代に上野原では壺が作られていたことになる。


この二つの壺は同じ場所に対になって縦に埋められていた。口縁が円形なのと正方形なのとの違いがあり、何かの祈りのために並んで埋められたと言われている。また、下部には若干の煤がついており、火にかけられた可能性が高い。8500年前の力強い作りの完形土器であり、これだけでも世界遺産級だ。

べらぼーな話である。

しかし残念ながら、上野原遺跡は7400年前とされる「鬼界カルデラ噴火」による火砕流と火山礫・火山灰によって壊滅したのであった。

この鬼界カルデラからの噴出物による壊滅は、前からそう説明されていたのだが、その実年代が考古学会でも定まらず、6400年前とか7400年前とか遺跡の説明会などで両説が飛び交っていたのだが、ここへ来て7300年前と確定された。

その確定は放射性炭素(C14)が試料中にどのくらい残っているかで判断されるのだが、さらに加速器質量分析装置によって精密に測れるようになり、ここ2,3年の研究により、今回発表の年代観を確定したという。


2年ほど前に上野原縄文の森で貰って来たパンフレットの中の一部。タイトルは「アカホヤ火山灰(約6400年前)以前土器」となっているが、今度からは「(約7300年前)」となる。また左手の二つの角筒形と円筒形のスマートな土器は11000年前に、右手の壺型土器と鉢型土器は8500年前に書き換えられよう。(※アカホヤ火山灰とは、鬼界カルデラ噴出由来の火山灰のことで、「色が赤(オレンジ色)の灰」という意味で、南九州では普通に使われる用語である。)

今さらながら上野原遺跡をトップとする南九州各地の早期縄文遺跡・遺物の古さと稀少性には驚かされる。

県内では縄文早期あるいは草創期の土器が、かなり広い範囲で確認されている。先日このブログで紹介した「ホケノ頭遺跡」(錦江町田代鶴園)の岩本式土器群もそうだし、お隣りの宮崎県三股町でも農道の整備工事中に前平式土器群が多量に見つかっている。いずれも1万年前の土器群である。

縄文時代の土器というと歴史の教科書でまず取り上げられるのが、北陸や中部地方から発掘される「火焔型土器」だろう。土器の口縁が炎のように造形されており、見るからに手の込んだ、したがって芸術的だとされる。

しかしこの火焔型土器の時代は縄文前期から中期(6000年~4000年前)であり、この時代になると世界的には多種多量の土器が発見されており、「火焔型」は確かに珍しく特筆に値するが、年代の古さでは南九州の前平式とか岩本式・吉田式などにははるかに及ばない。

もう10年近く前になるが、東京の国立上野博物館を訪れたことがある。その際、縄文時代の展示コーナーに火焔型土器は置かれていたが、上野原遺跡出土の土器は(前平式も壺型も)展示されていなかったのには首を傾げた。(※国の重要文化財なので展示は無理にしても、レプリカさえなかった。)

一体どういうわけか? 思うに「古過ぎるから」だろう。なにしろ南九州は蛮族「クマソ・ハヤト」の居住地であったから、そんな古い時代に日本(世界)に先駆けて土器など作るはずはない――というのが考古学者の見解なのだろう。

日本国内で最古のものが発掘されても、「もっと古いのがシベリアあたりから発掘されるかもしれない」などとのたもう一流の考古学者もいるくらいだ。

「クマソ・ハヤト」地方に限らず、とにかく日本国内で世界最古の土器が作られるはずはない――という、素人から見ると何とも自虐的な見方をする学者が多いようだ。「物自体に語らせよ」というのが物質科学の基本的なテーゼではなかったのか?

日本考古学会、中国考古学会、ロシア考古学会が何と言おうとも、「今の時点では南九州の縄文早期土器群と壺型土器が世界最古だ。文句あるか!」くらいな気持ちで声を上げないと南九州の超先進的土器群は無視されるだけだ。

上野原縄文の森では来年度までに、上記の年代観を取り入れた展示に模様替えをするというから楽しみだ。

一歩進めて「南九州の1万年前の定住遺構と土器群」を世界文化遺産に登録できないかを考えたい。期待は高まる。