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鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

古日向人と「クマソ」(3)

2024-01-13 10:54:53 | 古日向の謎

  古事記の「国生み説話」に見えるクマソ国

古事記にも日本書紀にもイザナギ・イザナミによる大八島国の国土創成の「国生み説話」があるのだが、内容に大きな違いがある。

それは古事記の方には「別名」があることだ。大八島国として淡路島、四国、隠岐の島、九州、壱岐、対馬、佐渡そして大倭豊秋津島(本州)の8つの島だが、これらそれぞれには倭語による別名が付いている。

これらを一応すべて挙げてみよう。

淡路島・・・淡島の穂の狭別(さわけ)島

伊予二名島(四国)・・・伊予国(愛比売)讃岐国(飯依比古)粟国(大宣都比売)土佐国(建依別)

隠岐三子島・・・天之忍許呂別

筑紫島(九州)・・・筑紫国(白日別)豊国(豊日別)肥国(建日向日豊久士比泥別)熊曽国(建日別)

伊伎島(壱岐)・・・天比登都柱

津島(対馬)・・・天之狭手依比売

佐度島(佐渡)・・・(別名なし)

大倭豊秋津島(本州)・・・天御虚空豊秋津根別

以上の八つの島だが、佐渡だけは別名の和名がない。これだけは例外で、日本書紀の国生み説話にもあるのだが、書紀にはそもそも和名がないので、補充のしようががない。

一見して不思議な思いに捉われるのは、淡路島・隠岐・壱岐・対馬・佐渡のような小さな島と四国・九州そして列島最大の島(本土)である本州とが同列に扱われていることだろう。

この意味を解説した学説は見当たらないのだが、この小さな島々が大八島(列島)の極めて重要な場所だからであろう。特に島々を領土とする航海民(漁業と物資運搬を兼ねる)の重要性を高く評価したために違いない。

古事記では淡路島(穂の狭別)に「穂」が付けられているが、日本書紀では「胞(ゑ)」であり、この島を拠点にして国生みしたことになっている。航海民ならこの島がおおむね列島の中心であろうことを知っていたのではないだろうか。

さてこれらの国々のうちクマソ国の登場するのが、筑紫島(九州)である。

 

  クマソ国は「建日別(たけひわけ)」

筑紫島には四つの国々があったとしている。それぞれに解釈を施してみたい。

 1筑紫国(白日別)

 筑紫島の中の筑紫国だが、記紀編纂の時点では「九州」はそう呼ばれておらず、筑紫(島)が正式な呼称であった。だからダブっているわけだが、それだけ「筑紫国」が大和王権にとって重要な国であったことを示している。

何しろ半島との往来の拠点であり、人員(兵員・学問・僧侶)にしろ物資にしろ文化にしろ、ほとんどはここ北部九州にまず入り、それから大和王権のもとへ運ばれたのである。

のちに「遠の朝廷(みかど)」と呼ばれる太宰府もこの筑紫国にあった。さかのぼること200年の昔には、唐王朝の半島からの進駐拠点「筑紫都督府」が置かれたのもここ筑紫国であった。

この国が「白日別」(しらひわけ)と名付けられたのは、それら半島との交流の隆盛から名付けられたとしてよい。

一般に「白日」は半島国家の新羅を指すが、新羅との関連で言えるのは仲哀天皇紀および筑前風土記(逸文)に登場する糸島の豪族「五十迹手(いそとて)」が言った「先祖は半島の「意呂山」に下った」ことを反映している可能性が高いということだ。

当時の筑紫(九州)の中の「筑紫国」は今日でも使われる「筑前」だけを指していたと思われる。

 2豊国(豊日別)

豊国は封建時代に確定した豊前と豊後に当てはまり、豊前の中津市から宇佐市が中心であった。

豊日別(とよひわけ)とは豊日の国ということだが、私はこの豊日は倭人伝に記載の邪馬台国2代目女王の「台与」(とよ)から来ている名と考えている。

西暦250年頃に卑弥呼の後継者となった台与(とよ)は、30年余りは女王の座にいたが、南の狗奴国の北進によってついに国を奪われて東の九州山地の中に逃れ、何とか山越えをして豊前の宇佐地方に落ち延びた。

そしてそこで迎え入れられ、小規模ながら王権の盟主となった。宇佐神宮に祭られている三柱の神々は応神天皇と神功皇后と「比売之(ヒメノ)神」であるが、このヒメノ神こそが台与女王だと考える。

トヨ(台与)が宇佐王権の中心であったがゆえに、「トヨの日(霊)」つまり「トヨヒ(豊日)」の国と名付けられたに違いない。

(※崇神王権の時に皇女のトヨスキイリヒメが「同床共殿」を嫌った天照大神を親祭することになったが、このトヨスキイリヒメこそが豊日国の盟主となった台与(トヨ)その人であろうとも考えている。)

 3肥国(建日向日豊久士比泥別)

肥国は驚くほど長い和名が使われている。この和名についてほとんどの解釈は、

「九州には日向があるはずで、日向国が見当たらないのはおかしい。だが、この和名には「日向」があり、日向国があったことを示唆している。とすると筑紫(九州)は5か国でなければならない。」

と、筑紫5か国説を出す研究者も多い。そして、この日向こそ宮崎県域を指すのだろう――と結論付ける。

だが、日向なる国名を誤って肥国の和名に入れてしまったとするにはたった3文字の短い国名に過ぎず、誤入して4か国にしてしまったと考えることはできない。

この誤った見解は肥国の長い和名を解釈し切れていないことから生じている。

私はこの和名を「建日に向かい、日の豊かなる奇日(くしひ)の根分けの国」と読む。要するに単語の羅列ではなく意味を持つ文章と見るのだ。

もう少しこの和文を解釈すると「建日国に向かい合い、霊力の豊かな王と同根の国」となる。

「建日」とはこのあとに述べる「建日別(たてひわけ)」すなわち「熊曽国」のことで、肥国はその熊曽国と対峙していて、大王級の王国と同根の国だというのである。

この国はどこか? 私は倭人伝の時代に南の狗奴国と対立していた邪馬台国の姿だと考える。狗奴国を菊池川以南の熊本県域と比定している私見からすれば、肥国は筑後八女を含む肥前全域ではないかと思う。

 4熊曽国(建日別)

筑紫(九州)4か国の最後はずばり「熊曽国」で、以上3か国の残りの領域ということになろう。

その領域とは上で触れた狗奴国の所在した菊池川以南の熊本県域および鹿児島県域、さらに宮崎県域までが熊曽国ということになる。面積で言えば九州島の半分近くを占める大国に他ならない。

この領域のうち熊本県域を含む部分、つまり狗奴国だった部分は3世紀末には八女の邪馬台国を併呑し、のちに筑紫国全域をカバーする筑紫の君「磐井」という大王級の人物を生み出したのだが、その頃には旧狗奴国は筑紫国の領域に入り、南の古日向とは一線を画し始めた。

従って熊曽国と言えば南九州に限られることになり、鹿児島県域と宮崎県域を併せ持つ古日向とはほぼ同一の国であった。

熊本県域が筑紫型の特徴的な装飾古墳を盛行させたのに対して、古日向域は畿内型の高塚古墳と共に古日向域にしか見られない「地下式横穴」や「地下式積み石塚」を盛行させたのは大きな違いだが、元はと言えば同根の国であったとしてよい。

 

以上から国生み説話における筑紫(九州)の4か国のうち、南九州すなわち古日向こそはクマソ国であった。

そして「熊」という名称が国名に与えられたのは、熊の本義が「火をものともしない」「火をコントロールしている」「火の中を果敢に生きる」という蔑称ではなく、むしろ敬称であったとしてよい。

ただ、曽人が「熊」を自称として使っていたのか、記紀編纂の時点で他称したのか、は判断するのは難しい。

神功皇后の統治が始まった時点で、九州北部にいた「熊鰐」や「羽白熊鷲」という「熊」を冠した豪族が登場するが、これらの豪族たちは自ら熊を名乗っていたのかもしれず、これからすれば熊を自称していた可能性を考えたくなる。

いずれにしても4世紀代中葉の一時期に使われた「熊」という敬称あるいは美称はさほど長くは続かなかった。

また神功皇后が吉備臣鴨別(かもわけ)に命じて熊襲国平定に当たらせたところ、「いまだ幾ばくもしないうちにクマソは自ずから恭順した」とあるが、この吉備臣の名の「鴨」は、古日向の航海民「鴨族」の名を共有しており、同族のよしみで反抗を控えたのかもしれない。

古日向域(鴨着く島)の海民を私は「鴨族」と捉えており、古日向からの「神武東征」の時に船団は吉備の高島宮では8年も滞在しているので、そこに鴨族の拠点があったと見て差し支えあるまい。

古日向の鴨人が、4世紀の一時期は「クマソ」と呼ばれ(自称の可能性あり)、その後ぐっと時代は下って7世紀の天武天皇時代からは「隼人」と蔑称で呼ばれたが、古来からの一貫した呼び名は「鴨」「鴨人」であったと思われる。

 

 

 


古日向人と「クマソ」(2)

2024-01-11 16:13:34 | 古日向の謎

  応神天皇は「クマソ」か

父である仲哀天皇が崩御した同じ年に、吉備臣鴨別(かもわけ)がクマソを懐柔し、それからはクマソが記事からぷっつりと途絶えたのだが、このことから神功皇后の皇子である応神天皇こそがクマソの出であり、それゆえにクマソ記事は応神天皇紀に「吸収され」書く必要がなくなった。

この応神天皇クマソ説はとくに南九州では根強いのだが、これは確かに一理ある見解だと思う。

かつて王朝交代説を唱えて一時代を築いた早稲田大学教授だった水野祐は、応神天皇を河内王朝の初代としており、仁徳王朝と共に「ワケ王朝」と分類した。

この河内王朝を築いた応神天皇は大隅の宮に出向くことがあり、この大隅の宮については大阪府の茨木市にある「大隅神社」あたりに大隅宮があったとされる。

しかし私は大隅神社の所在する古代の淀川の川中島「大隅島」は安閑天皇の時代に牛を放牧した島であり、古代に天皇の宮があった場所に牛を放牧するとような事案にはどうしても首を傾げるのだ。

大隅の宮は「行宮」なのだが、そこは一種の聖地として保存されなければおかしい。牛の放牧地にするなどということはあり得ないだろう。

では大隅宮とはどこなのか?

これは鹿児島県の大隅国にあるとした方が理にかなう。もちろん大隅という名称は奈良時代の初期に名付けられたのだが、日本書紀の応神紀に載せる際に大隅をさかのぼらせて使用したものだろう。当時は古日向のしかるべき名があったはずだ。

そもそも神功皇后から生まれて間もない応神天皇を武内宿祢が保護して都を目指した。その様子は「皇子を懐きて、横しまに南海より出でて、紀伊の水門に泊まらしめ」たとある。

北部九州で応神天皇は生まれたのだから都に帰るのに瀬戸内海経由であれば最短距離なのに、下線部のようにわざわざ南海つまり九州南部の海域を経由して、荒波の太平洋を通って紀伊半島に行っているのだ。

このことからして武内宿祢も応神天皇も九州南部に所縁があったと考えられ、だからこそ古日向の航海民「鴨族」の支援もあったはずである。

  「熊」の本義

クマソは古事記では「熊曽」と書き、書紀では「熊襲」と書く。共通なのは「熊」である。

熊はもちろん動物の名称で、人間にとって一般的には恐ろしい存在であり、おどろおどろしい存在でもある。

ところが古代の朝鮮では天上の神「桓因」によって聖別された存在である。また古代中国の三国時代の楚では代々の王に「熊」が使われている。

中世中国の太公望を主人公にした小説「封神演義」では、太公望の号が「飛熊」(ヒユウ)とされているが、この号の「熊」には恐ろしい存在という意味は全くない。

文字通りというか「熊」の字は分解すると「能」と「列火(レッカ)」であり、意味としては「火を能(よ)くする」つまり「火をコントロールする」である。すなわち「火をうまく扱える」という属性なのである。

火は「日(陽)」「霊」に通じ、朝鮮神話の「熊」も古代王国楚の王たちも、共に霊力の盛んな存在であった。また太公望の号「飛熊」もそれに準じる名付けだろう。

長谷川伸の名作『瞼の母』は、5歳の時に家を出て行った実母を慕って諸国を訪ね歩いた番場の忠太郎が20年ののちに江戸の柳橋で母の経営する茶屋を探し当てるという筋書きだが、その母の茶屋の名は「水熊」であった。

熊がおどろおどろしい存在であるなら「水熊」などという茶屋名など付けなかったはずである。

このことからも「熊」なる名称は決して蔑称ではなく、むしろ畏敬すべき名称だったことになる。

  古日向人は火をコントロールできた

古日向は飛び切りの火山地帯である。南九州を貫く阿蘇カルデラから南海の鬼界カルデラまで5つもの巨大なカルデラ火山が中心部を貫いている。こんな火山地帯は世界でも稀である。

このような火の洗礼を浴び、かつうまくかわしながら暮らしている古日向人は「熊」の本義そのものの存在だろう。熊とは火をコントロールするという意味であった。

この火をうまくかわしつつ果敢に暮らしている古日向人は「熊なる人」であり、当時の古日向を現地では「ソ(襲・曽)」と名付けていた。これに形容の「熊」を付ければ、「火をものともせずに暮らしているソビト」つまり「熊曽・熊襲」になる。

ここまで来たら驚くべき発見がある。

それは古日向神話(天孫降臨神話)で、古日向人の蔑称「隼人」が二代目のヒコホホデミ(ホオリ)の兄でホホデミから懲らしめられて天皇の守り人になったとされるホスセリ(古事記ではホデリ)が先祖とされていることだ。

ホスセリ(ホデリ)とは「火(ホ)がはげしく燃える」という意味で、これはまさに火山の噴火そのものだろう。

要するに天皇家の祖となったホホデミ(=ホオリ=古事記による)に対して古日向の現地に残った古日向人にはホスセリがふさわしく、このホスセリに対応するのが「熊曽」だということである。

クマソは「熊なる曽人(ソビト)」つまり「ホスセリの属性=はげしい噴火をやり過ごす=を持つ曽人」であり、この名称は決して蔑称の類ではなかった。

 

 

 


古日向人と「クマソ」(1)

2024-01-10 15:10:03 | 古日向の謎

 「隼人」は天武天皇時代に名付けられた蔑称

古日向人が「隼人」と呼ばれるようになったのは、天武天皇時代に唐・新羅連合軍に敗れた倭国(やがて日本という名称に変わる)が朝鮮半島経営から手を引いたこと。

そして列島だけの国家として中央集権的なまとまりのある統治に最適な形、つまり唐王朝の諸制度、とくに「律令制度」及び「仏教の普及」を推し進めたこと。

この両方の施策に大きく抵抗したのが南の辺境に住む古日向人だった。朝廷は度々調査団を派遣して懐柔に努め、南西の島々や日向・大隅の古日向人を上京(朝貢)させたりした。

さらに朝廷は列島の歴史を語る史書「日本書」を編纂し、天皇家は列島限定の出自を持ち神代から連綿と続いてきたという大和王朝の「列島内自生史観」を披歴し、唐王朝にもそれを伝えた。

この日本書は我が国内では「日本書紀」として通用しているが、その中の天武天皇及び持統天皇の時代に古日向人は、国の四方を守る四神相応思想の中の南の辺境を守る「朱雀」になぞらえるべきところ「雀」を忌避して「隼」になぞらえられ、「隼人(はやびと・はやと)」という呼称になった。

南の辺境を守る「隼人」は一種の人質的な年期奉公制度を与えられて宮城の警備に従事し、「隼人司」という官僚組織によって支配されることになった。

この宮城警護という役割は一概に蔑まされたわけではないが、年期奉公人という待遇であり、また都の角々で「吠声(ベイセイ)」(犬の遠吠え)という邪気払いの声を発したりするので、都人には異族的な蔑称として使われた。

(※明治維新で薩摩藩が主導権を握ったことで、かつては蔑称だった隼人が「薩摩隼人」という勇猛果敢なイメージに改変され、今日では男子の美称となり、男の子に隼人と名付ける親は常に一定数いる。逆転現象である。)

 

 古日向人と「クマソ」

この隼人呼称が古日向人に名付けられる前に、一時期、古日向人が「クマソ」と言われたことがあった。

日本書紀によるとその時期は、第12代景行天皇時代から神功皇后時代で、正確に言うと景行天皇の12年から神功皇后が夫の仲哀天皇が崩御した年までである。

景行天皇の12年に「熊襲が朝貢しなかった」というので、天皇自らが熊襲征伐を兼ねて九州各地の豪族を支配下に置きつつ巡回した、という。この景行天皇12年が西暦で何年なのかについては、景行天皇の存在そのものを認めないのが現在の日本史学だが、私は実在を認めている。

私見ではおおよそ330年前後と考えている。さらに父の垂仁天皇は320年頃、祖父の崇神天皇は300年頃とする。

330年の頃、古日向人は景行天皇の統治に反旗を翻したのだろう。それに対して景行天皇自らが征伐に動いたというのが景行12年で、天皇は九州北東部の今の中津市あたりに上陸した。

豊後各地の首領を平らげながら南下して日向の高屋宮に入った。天皇はここで6年も滞在し、襲国(そのくに)に厚鹿文・迮鹿文(アツカヤ・サカヤ)というクマソの首領がいて、大変勢いがあるという。

天皇が「どうしたら血塗らずして平らげられるだろうか」と言ったところ、臣下が「彼らにはイチカヤ・イチヒカヤという娘がいるので、彼女らをうまく篭絡して味方にしてやっつけませ」と応じた。

その計略によって、クマソの棟梁であるアツカヤもサカヤも討ち取り、さしもの強大なクマソも鳴りをひそめたという。

景行天皇紀ではもう一度クマソが反旗を翻したが、今度は皇子の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が征伐に行き、古日向の川上タケルを討ち取る。景行27年のことであった。

ところが2代後の14代仲哀天皇の時代にも熊襲が朝貢しなかったというので、九州に遠征する。

だが、このクマソ征伐は失敗し、仲哀天皇は神の祟りによって崩御する(仲哀天皇はクマソとの戦いで死んだという説もある)。

後を受けた神功皇后が神々を祭ったところ、神示を受けたのだが、それによると吉備臣鴨別(かもわけ)に命じて熊襲国を撃たせた。そうしたら、それほど時を置かずしてクマソは服従した――という。

この神功皇后の神祭によるクマソの平定は仲哀天皇の死の年であり、この時を以て日本書紀のクマソ記事は終わる。この年を私は西暦360年頃と見ており、そうするとクマソ記事は景行天皇の12年に始まって神功皇后の吉備臣鴨別の平定まで、およそ30年ほどの期間でしかない。

これらの記事に共通するのは古日向のクマソは、景行天皇及び仲哀天皇の2代に関してのみ反旗を翻したことになるが、平定ののちはぷっつりとクマソという呼称は使われなくなっている。

もしクマソがその後も強大ぶりを示していたら、また征伐の対象となり後の天皇紀にもクマソ記事は載せられたろうが、それは全くない。

神功皇后時代に完全に消えたクマソ。このことから神功皇后の子である応神天皇こそがクマソ出身ではないか――という説を唱える研究者もいる。(続く)

 


古日向人が「隼人」になった経緯

2024-01-08 10:44:58 | 古日向の謎

古日向とは和銅年間に薩摩国・大隅国が分離建国される前の「日向」のことで、今日は日向と聞くと「ああ宮崎県だけのことだ」となるが、これは誤りである。それ以前の「日向」は鹿児島県域も含んでいた。

私はこの奈良時代以前の(令制国制確立前の)日向を「古日向」と呼んで区別している。

記紀に天孫降臨神話つまり「日向神話」が書かれているが、この場合の日向は「古日向」でなければならない。したがって神話学などで使う「日向神話」は「古日向神話」とすべきだと考えている。

この古日向域はほぼ今日でも使われる「南九州」と重なる(ただし奄美トカラ等の南西諸島は入っていない)。

この古日向人が奈良時代を迎える直前の天武天皇・持統天皇時代には「隼人」として異族扱いを受けることになった。

その理由は簡単に言えば、天武天皇時代の特殊性に基づいている。

斉明天皇(女帝)の時に倭国は唐・新羅連合軍に敗れそうになった百済を支援しようと、上毛野稚子(かみつけのわくご)などの陸将率いる支援部隊2万7千名を派遣し、さらに水軍400隻を送り海路から支援を送った。

この海戦時の水軍が誰の指揮下にあったのか、どこの水軍が参加したのか、具体的な記述はなく、白村江の海戦で唐軍の大きな楼船による攻撃の前になす術もなく完敗してしまった。

この水軍はおそらく九州の部隊であり、北部の宗像水軍、松浦水軍などに加えて南の古日向域からも出陣したと思われる。

天智天皇がまだ中大兄皇子時代に母の斉明天皇に従って九州朝倉の本営にやって来ていたが、どうやら古日向にまで足を伸ばしていたことが、国分台明寺の「青葉の笛」伝承などでもうかがえるのだが、この古日向訪問は現地のつまり古日向水軍の出動要請のためだと考えられるからである。

ところが白村江の海戦で完膚なきまでにやられ、ほとんどの将兵や船を失ってしまったのだ。400隻にどれほどの将兵や水主(漕ぎ手)がいたものか、おそらく万をはるかに超える数であったに違いない。

かくて倭国は百済の立て直しも空しく敗戦の憂き目を見たのであった。特に九州地方の海民の損害は甚大で、敗戦後の九州は筑紫に唐軍による「筑紫都督府」が置かれ、占領政策に従うことになった打撃は大きい。

古日向域も例外ではなく、多数の子弟(健児)を失ったに違いない。戦費(軍事物資・船舶・食料)などの負担も重くのしかかったであろう。

倭国が一番恐れたのが、倭国の王権すなわち天皇の制度が廃絶されることだった。

唐からの使いが四度も倭国王権に迫る文書をもたらし、その中には天皇を戦犯処理するというような内容もあったと考えられる。

特に斉明天皇の死後に実権を握り、唐・新羅連合軍との陸戦海戦の実質上の指揮者であった中大兄皇子(のちの天智天皇)の天皇継承までの不可解な記述はそのことを考慮したほうがいいように思われるのだ。

結局、天智天皇は失意のうちに崩御し、あとを継いだのは天武天皇であったが、その継承の前に「壬申の乱」が起きて天智天皇の直系・大友皇子は殺害されている。

天武天皇が天智天皇と同じ斉明女帝の皇子であったというのは疑わしく、私は天智天皇がその死の間際に中臣鎌足に最高位の大織冠を授け、さらに「藤原姓」を賜与したのは、藤原氏に後継を託したことをほのめかしていると考えた。

そして藤原氏となった鎌足の長男で、遣唐使の一員として唐に渡って仏教等を修めた中臣改め藤原定恵(貞慧)こそが天武天皇として即位した可能性が高いと考えている。

唐王朝側としても中国語に精通し、仏教はじめ儒教などにも教養を深めた人物ならコントロールしやすいと推したのではないだろうか。

天武天皇は唐による占領政策には危機感を持ち、倭国(日本)を唐の政治制度である「律令制」を取り入れ、日本列島限定の中央集権国家を目指した。

この律令制と仏教受容によるスマート国家を創るべく腐心した挙句に起きたのが、古日向との軋轢であった。

白村江の敗戦以後、元気をなくし、かつ律令制及び仏教の普及に難色を示したのが古日向で、天武王権は度々使節を送って日本という国の境を調査し始め、原住民の上京を命じて懐柔を図った。

この時点で天武王権は列島の国土をひとかたまりと考え、そこに「四神相応思想」を適用した。北を守る玄武、南を守る朱雀、東を守る青龍、西を守る白虎がそれで、国土の四辺をそれぞれの聖獣が守ってくれるという考えである。

このうち南の守り神は朱雀(すざく)であった。古日向人にはこの朱雀を適用すべきであったが、「雀」と言えば古代の聖王と言われる第16代仁徳天皇の和風諡号の「大雀命」(おおさざきのみこと)に既に使われていた。

そこで「朱雀」を遠慮し、その代わり古日向人の身のこなしが「剽悍=すばしこい」であることから同じ鳥でも「隼」(はやぶさ)を取り入れたものと思われる。

古日向人が自ら「俺たちは隼人だ」と言ったのではなく、王権側が名付けた名称であったのである。

※文献上その嚆矢は、天孫降臨神話(古日向神話)に見える「(ニニギノミコトの次男の)ホスセリノミコト。これは隼人の祖。」であり、その後は第17代履中天皇の時代に住吉仲皇子に仕えていたソバカリ(書紀ではサシヒレ)という個人名を持った隼人や、第21代雄略天皇の葬儀の際に弔問した隼人などが登場するが、これらは天武時代に名称化された隼人をさかのぼって繰り入れたものだ。

 

 

 

 

 


糸島で象嵌入り鍔(つば)を確認

2024-01-05 09:35:32 | 古日向の謎

今朝のNHK7時台後半で、福岡県立糸島高校の全国的にも唯一という高校付属の「郷土資料館」を扱っていた。

その中で郷土資料にあった古墳時代の「鉄の鍔(つば)」から、CTスキャンによって鍔には象眼が施されていたことが判明したという。

サブタイトルに「お宝発見」とあったが、たしかにお宝には違いないが、その象嵌の文様を見て思い当たるものがあった。

鍔の表と裏では文様が違うのだが、表(向かって左)のは「ハート型」である。ハートの中に幾重にもハートを彫り込んでいる(専門的には「心葉文」という)。そして裏だが、これは俗に言う「蕨手(わらびて)文」ではないか。

表のハート紋の間にも向かい合った蕨手文が見える。

これらからこのハート紋の象形の意味は「植物の芽生え」を示していると思われる。裏は出たばかりの幼葉であり、表のは幼葉から本葉に進んで力強く伸びて行く姿だろう。

この鉄の鍔が発見されたのは50年も前らしく、単なる鉄の塊と思われていたようだ。しかし鍔に似ているということでCTスキャンにかけたら、鉄製の刀の鍔だったことが分かったという。

ただし、古墳時代の墓から出土したことは分かっているが、時代(前期・中期・後期の特定)は正確には分からないようだ。

だが、鉄製の鍔にハート型文様があるのが、平成16(2004)年に発掘調査された鹿屋市吾平町の「中尾地下式横穴墓」(6世紀後半)からも見つかっている。

中尾遺跡の中の地下式横穴8号墓の中で見つかった太刀(長さ72センチ)に銀象嵌で施されていたもので、鍔とそれを固定する鎺(はばき)と柄頭(つかがしら)にハート型文様が多数象嵌されていた。

当時の市教育委員会の説明資料によると、心葉文のある象嵌太刀が発見されたのは九州では福岡県で2例、大分県で1例あるだけという。今度の糸島高校は福岡県なので福岡県は3例目となるようだ。

また当時行われたシンポジウムでは、このハート型文様(心葉文)は「羽を広げた想像上の鳥鳳凰の簡略化されたもの」という見解が出されていた。

しかし私は「羽ばかりがなぜ鍔に8つも並べて彫られているのか。鳳凰だったら頭と尾羽・足なども簡略化して彫り込むのはさほど難しくはないだろうに」と首を傾げた。

だが、今度の糸島高校所蔵の郷土資料の発見によって心葉文は文字通り植物の葉の象形であり、「芽を出したばかりの葉のハート型の文様」から来たネーミングは正しかったことが判明したと思う。

生命力あふれる植物の芽出し・芽吹きの象形を彫り込むことで、太刀に「敵を打ち凝らす力」と「使う者の身を守る力」を込めた象嵌に違いない。

※古墳からの出土であれば被葬者の黄泉路への副葬であり、生前の被葬者の所有物ではなく、あくまでも迷いなき死出の旅路への副葬であった可能性も考えられる。

ただ今度の象嵌が金なのか銀なのかについては報告されていなかったが、いずれにしても中尾遺跡の「銀象嵌太刀」は南九州では唯一の事例であり、古日向域(南九州の鹿児島・宮崎)つまり隼人以前の先進性を示すものだ。