古事記の「国生み説話」に見えるクマソ国
古事記にも日本書紀にもイザナギ・イザナミによる大八島国の国土創成の「国生み説話」があるのだが、内容に大きな違いがある。
それは古事記の方には「別名」があることだ。大八島国として淡路島、四国、隠岐の島、九州、壱岐、対馬、佐渡そして大倭豊秋津島(本州)の8つの島だが、これらそれぞれには倭語による別名が付いている。
これらを一応すべて挙げてみよう。
淡路島・・・淡島の穂の狭別(さわけ)島
伊予二名島(四国)・・・伊予国(愛比売)讃岐国(飯依比古)粟国(大宣都比売)土佐国(建依別)
隠岐三子島・・・天之忍許呂別
筑紫島(九州)・・・筑紫国(白日別)豊国(豊日別)肥国(建日向日豊久士比泥別)熊曽国(建日別)
伊伎島(壱岐)・・・天比登都柱
津島(対馬)・・・天之狭手依比売
佐度島(佐渡)・・・(別名なし)
大倭豊秋津島(本州)・・・天御虚空豊秋津根別
以上の八つの島だが、佐渡だけは別名の和名がない。これだけは例外で、日本書紀の国生み説話にもあるのだが、書紀にはそもそも和名がないので、補充のしようががない。
一見して不思議な思いに捉われるのは、淡路島・隠岐・壱岐・対馬・佐渡のような小さな島と四国・九州そして列島最大の島(本土)である本州とが同列に扱われていることだろう。
この意味を解説した学説は見当たらないのだが、この小さな島々が大八島(列島)の極めて重要な場所だからであろう。特に島々を領土とする航海民(漁業と物資運搬を兼ねる)の重要性を高く評価したために違いない。
古事記では淡路島(穂の狭別)に「穂」が付けられているが、日本書紀では「胞(ゑ)」であり、この島を拠点にして国生みしたことになっている。航海民ならこの島がおおむね列島の中心であろうことを知っていたのではないだろうか。
さてこれらの国々のうちクマソ国の登場するのが、筑紫島(九州)である。
クマソ国は「建日別(たけひわけ)」
筑紫島には四つの国々があったとしている。それぞれに解釈を施してみたい。
1筑紫国(白日別)
筑紫島の中の筑紫国だが、記紀編纂の時点では「九州」はそう呼ばれておらず、筑紫(島)が正式な呼称であった。だからダブっているわけだが、それだけ「筑紫国」が大和王権にとって重要な国であったことを示している。
何しろ半島との往来の拠点であり、人員(兵員・学問・僧侶)にしろ物資にしろ文化にしろ、ほとんどはここ北部九州にまず入り、それから大和王権のもとへ運ばれたのである。
のちに「遠の朝廷(みかど)」と呼ばれる太宰府もこの筑紫国にあった。さかのぼること200年の昔には、唐王朝の半島からの進駐拠点「筑紫都督府」が置かれたのもここ筑紫国であった。
この国が「白日別」(しらひわけ)と名付けられたのは、それら半島との交流の隆盛から名付けられたとしてよい。
一般に「白日」は半島国家の新羅を指すが、新羅との関連で言えるのは仲哀天皇紀および筑前風土記(逸文)に登場する糸島の豪族「五十迹手(いそとて)」が言った「先祖は半島の「意呂山」に下った」ことを反映している可能性が高いということだ。
当時の筑紫(九州)の中の「筑紫国」は今日でも使われる「筑前」だけを指していたと思われる。
2豊国(豊日別)
豊国は封建時代に確定した豊前と豊後に当てはまり、豊前の中津市から宇佐市が中心であった。
豊日別(とよひわけ)とは豊日の国ということだが、私はこの豊日は倭人伝に記載の邪馬台国2代目女王の「台与」(とよ)から来ている名と考えている。
西暦250年頃に卑弥呼の後継者となった台与(とよ)は、30年余りは女王の座にいたが、南の狗奴国の北進によってついに国を奪われて東の九州山地の中に逃れ、何とか山越えをして豊前の宇佐地方に落ち延びた。
そしてそこで迎え入れられ、小規模ながら王権の盟主となった。宇佐神宮に祭られている三柱の神々は応神天皇と神功皇后と「比売之(ヒメノ)神」であるが、このヒメノ神こそが台与女王だと考える。
トヨ(台与)が宇佐王権の中心であったがゆえに、「トヨの日(霊)」つまり「トヨヒ(豊日)」の国と名付けられたに違いない。
(※崇神王権の時に皇女のトヨスキイリヒメが「同床共殿」を嫌った天照大神を親祭することになったが、このトヨスキイリヒメこそが豊日国の盟主となった台与(トヨ)その人であろうとも考えている。)
3肥国(建日向日豊久士比泥別)
肥国は驚くほど長い和名が使われている。この和名についてほとんどの解釈は、
「九州には日向があるはずで、日向国が見当たらないのはおかしい。だが、この和名には「日向」があり、日向国があったことを示唆している。とすると筑紫(九州)は5か国でなければならない。」
と、筑紫5か国説を出す研究者も多い。そして、この日向こそ宮崎県域を指すのだろう――と結論付ける。
だが、日向なる国名を誤って肥国の和名に入れてしまったとするにはたった3文字の短い国名に過ぎず、誤入して4か国にしてしまったと考えることはできない。
この誤った見解は肥国の長い和名を解釈し切れていないことから生じている。
私はこの和名を「建日に向かい、日の豊かなる奇日(くしひ)の根分けの国」と読む。要するに単語の羅列ではなく意味を持つ文章と見るのだ。
もう少しこの和文を解釈すると「建日国に向かい合い、霊力の豊かな王と同根の国」となる。
「建日」とはこのあとに述べる「建日別(たてひわけ)」すなわち「熊曽国」のことで、肥国はその熊曽国と対峙していて、大王級の王国と同根の国だというのである。
この国はどこか? 私は倭人伝の時代に南の狗奴国と対立していた邪馬台国の姿だと考える。狗奴国を菊池川以南の熊本県域と比定している私見からすれば、肥国は筑後八女を含む肥前全域ではないかと思う。
4熊曽国(建日別)
筑紫(九州)4か国の最後はずばり「熊曽国」で、以上3か国の残りの領域ということになろう。
その領域とは上で触れた狗奴国の所在した菊池川以南の熊本県域および鹿児島県域、さらに宮崎県域までが熊曽国ということになる。面積で言えば九州島の半分近くを占める大国に他ならない。
この領域のうち熊本県域を含む部分、つまり狗奴国だった部分は3世紀末には八女の邪馬台国を併呑し、のちに筑紫国全域をカバーする筑紫の君「磐井」という大王級の人物を生み出したのだが、その頃には旧狗奴国は筑紫国の領域に入り、南の古日向とは一線を画し始めた。
従って熊曽国と言えば南九州に限られることになり、鹿児島県域と宮崎県域を併せ持つ古日向とはほぼ同一の国であった。
熊本県域が筑紫型の特徴的な装飾古墳を盛行させたのに対して、古日向域は畿内型の高塚古墳と共に古日向域にしか見られない「地下式横穴」や「地下式積み石塚」を盛行させたのは大きな違いだが、元はと言えば同根の国であったとしてよい。
以上から国生み説話における筑紫(九州)の4か国のうち、南九州すなわち古日向こそはクマソ国であった。
そして「熊」という名称が国名に与えられたのは、熊の本義が「火をものともしない」「火をコントロールしている」「火の中を果敢に生きる」という蔑称ではなく、むしろ敬称であったとしてよい。
ただ、曽人が「熊」を自称として使っていたのか、記紀編纂の時点で他称したのか、は判断するのは難しい。
神功皇后の統治が始まった時点で、九州北部にいた「熊鰐」や「羽白熊鷲」という「熊」を冠した豪族が登場するが、これらの豪族たちは自ら熊を名乗っていたのかもしれず、これからすれば熊を自称していた可能性を考えたくなる。
いずれにしても4世紀代中葉の一時期に使われた「熊」という敬称あるいは美称はさほど長くは続かなかった。
また神功皇后が吉備臣鴨別(かもわけ)に命じて熊襲国平定に当たらせたところ、「いまだ幾ばくもしないうちにクマソは自ずから恭順した」とあるが、この吉備臣の名の「鴨」は、古日向の航海民「鴨族」の名を共有しており、同族のよしみで反抗を控えたのかもしれない。
古日向域(鴨着く島)の海民を私は「鴨族」と捉えており、古日向からの「神武東征」の時に船団は吉備の高島宮では8年も滞在しているので、そこに鴨族の拠点があったと見て差し支えあるまい。
古日向の鴨人が、4世紀の一時期は「クマソ」と呼ばれ(自称の可能性あり)、その後ぐっと時代は下って7世紀の天武天皇時代からは「隼人」と蔑称で呼ばれたが、古来からの一貫した呼び名は「鴨」「鴨人」であったと思われる。