goo blog サービス終了のお知らせ 

鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

古日向こそは投馬国(2)

2024-02-09 15:32:39 | 古日向の謎

  【投馬国(古日向)の官と副官】

古日向とは、律令制が導入され列島の大部分に令制国が置かれる以前の鹿児島県と宮崎県とを併せた領域で、魏志倭人伝が書かれた時代、古日向は「投馬国」であったことが分かった。

投馬国は戸数が5万戸もある倭人伝時代、屈指の大国であった。

官を彌彌(ミミ)といい、副官を彌彌那利(ミミナリ)といった、とある。

このミミといい、ミミナリといい、邪馬台国を含む他のどの倭人国にも無い官及び副官である。

邪馬台国では女王は別にして、官にイキマ・ミマシヲ・ミマワキ・ナカテがいるが、イキマは「生目」、ミマシヲは「孫之男」、ミマワキは「孫脇」、ナカテ「中手」とそれらしい倭語で復元でき、伊都国でも官はニキ(主)、副官はシマコ(島子)・ヒココ(彦子)、また多くの国々では官はヒコ(彦)、副はヒナモリ(夷守)である。

しかし投馬国の官ミミ、副官ミミナリはどの国にも見当たらない官名である。実に独特の呼び名である。

しかも彌彌はミミとしか読めず、彌彌那利はミミナリとしか読めないのも投馬国の官名の特徴だ。

 

  【ミミ名は記紀にもあった】

ところで記紀の天孫降臨神話にはこのミミが登場する。

ニニギノミコトが天照大神の命を受けて高千穂の峰から地上に降りるのが「天孫降臨」だが、実は最初は二ニギの父で天照大神の太子であるアメノオシホミミが降臨することになっていた。

ところが降臨の準備をしている間に、孫のニニギノミコトが生まれたので、二ニギを降すことになった。

この降臨者の変更は父のオシホミミの申告によるだけでなされており、本当の理由は不詳である。(※オシホミミがミミ名であることと関係するのだが、ここでは省略する。)

とにかく高千穂のクシフルタケに降臨したのは、孫のニニギノミコトであった。まさに天「孫」であり、皇「孫」であった。

高千穂のクシフルタケに降臨し、その後、鹿児島の山の神オオヤマツミの娘カムアタツヒメと出会った二ニギは聖婚をして、三皇子ホテリ・ホスセリ・ホオリを授かる。古事記によるとその内のホテリは阿多隼人の祖となり、第三子のホオリが兄のホテリを従え、皇孫2代目となった。

2代目のホオリは山幸彦として統治するが、兄海幸彦とのいさかいによって、海の中の宮(ワタツミ神の竜宮)を訪れることになる。ホオリはそこでワタツミの娘トヨタマヒメに出会い、恋仲となり、ヒメは地上に戻るホオリを追って海岸に至り、そこで3代目の皇子ウガヤフキアエズを生み、そのまま竜宮に帰る。

3代目のウガヤフキアエズは母トヨタマヒメの妹のタマヨリヒメによって養育され、成人ののちタマヨリヒメを妻として、四皇子(4代目)イツセ・イナヒ・ミケヌ・ワカミケヌを生む。最期のワカミケヌこそがのちの神武天皇である。

この皇孫4代目の神武天皇の時にいわゆる「神武東征」が行われたとする。

現在の日本史ではこの神武東征は有り得ない話で、火山灰に覆われた素寒貧の南九州からはるばるやって来て畿内に侵入し、橿原王朝を打ちたてたというのは、「日向という吉祥語を持った国名を生かしたおとぎ話の類である」と津田左右吉が一蹴して以来、歴史以前の妄説として顧みられなくなった。

ところが、記紀には神武天皇の皇子としてタギシミミとキスミミがいると書く。

このうち兄のタギシミミは父の神武と共に畿内を目指しているのだ。東征途上のタギシミミの存在感は極めて薄いが、とにかく橿原王朝が始まり、神武亡きあとに後継者となるはずだった。

ところがタギシミミは、大和で生まれた三皇子ヒコヤイ・カムヤイミミ・カムヌマカワミミのうち、第三子のカムヌマカワミミによって殺害され、後継者はカムヌマカワミミになった。第2代綏靖天皇である。

 

  【大和で生まれた皇子の名がなぜ○○ミミなのか】

津田左右吉の学説以来、古日向を舞台にした神話は無論「神武東征」も全くのおとぎ話に格下げされたのだが、私は古日向を倭人伝上の「投馬国」としており、その官及び副官(実際には王と女王)の名がミミとミミナリであることから、古日向で生まれたとされるタギシミミとキスミミは実在性が極めて高いと考えるに至った。

そう考えると、さらに「神武東征」後に初代大和王権たる橿原王朝を樹立したあとに、神武が畿内の豪族の娘イスケヨリヒメを娶って生まれた三皇子がヒコヤイ・カムヤイミミ・カムヌマカワミミと、またまたミミを皇子名に付けたのはまさに古日向が投馬国であったことの傍証であり、「神武東征」は間違いなくあったと考えている。

古日向に生まれたタギシミミ・キスミミにしろ、また大和で生まれたカムヤイミミ・カムヌマカワミミにしろ、古日向を舞台にした神話やそこから出発して大和王権を生んだことなど全くのおとぎ話であるならば、皇子の名にタギシミミ・キスミミ・カムヤイミミ・カムヌマカワミミなどと奇妙な名を造作する必要など全くない。

皇子名として「○○彦」「彦○○」のような名付けなら、造作にしてももっともらしく見えるではないか。

このことから私は古日向が投馬国であったことに加えて、いわゆる「神武東征」の類があったと考えて何の不自然もないと思うのである。(終わり)

(※オシホミミが降臨しなかった理由とタギシミミがカムヌマカワミミに殺害されてしまう理由については別稿を考えている。)

 

 

 

 

 


古日向こそは投馬国(1)

2024-02-06 13:43:09 | 古日向の謎

  【古日向は投馬国である】

古日向とは奈良時代直前の大宝2(702)年に薩摩国が、また奈良時代最初期の和銅6(713)年に大隅国が分立して、南九州が日向国・薩摩国・大隅国の3か国になる前の、今日の宮崎県と鹿児島県を併せた広大な領域を言う。

この宮崎県と鹿児島県とを併せた古日向を、私は魏志倭人伝時代に九州にあった5万戸の大国「投馬国」(つまこく)に比定している。

投馬国を宮崎県西都市に「妻」という大字があることでここに比定する研究者が多いが、西都市域に5万戸を想定するのは無理で、せいぜい数千戸だろう。

(※西都市域も私見の投馬国の内あり、全くの誤謬というわけではない。)

投馬国(古日向)人は自分の国を「ソツマ」と称していたと思われる。「ソツマ」とは「ソ(曽・蘇)」「ツ(~の)」「マ(場所・地域・国)」と分解でき、「我々が住んでいるのは曽津間じゃ」と自称していた。

帯方郡に派遣されていた魏の官吏が九州にやって来て、南九州出自の海民に、「あんたの国は何と言うのだ」と尋ねた時、彼らは「曽津間(ソツマ)じゃ」要するに「曽の国である」と答えた。

帯方郡から来た魏の役人は「ツ」の強勢に押されて「ソ」が聴き取れなかった可能性が高く、よって「ツマ」と聴き取り、これに「投馬国」と当てた。私はそう考えている。

戸数五万戸というと、魏志倭人伝記載当時、一国でこのような多数の戸数を抱える国はない。

邪馬台国は「七万戸ほどだろう」と倭人伝は記載するが、これは「その余の傍国は遠絶にして詳しい情報はない」として挙げられた「斯馬国」以下「奴国」まで21か国を併せた戸数だろう。これを私は「邪馬台国連盟」と見なしている。

また邪馬台国連盟の最南端の国「奴国」の南には「狗奴国」があるとしており、宿敵の男王・卑弥弓呼(これは卑弓弥呼=ヒコミコの誤り)がいて、大官に狗古智卑狗(クコチヒク=菊池彦)がいるとしているが、この狗奴国については戸数の情報はない(魏とは通交がないためだろう)が、3万戸程度はあったと思っている。

 

  【投馬国・邪馬台国への行程】

帯方郡からの使い(役人)が、九州島に上陸したあと、「郡使の往来に際して、常に駐まる所」という唐津に比定される「末盧国」から東南陸行500里の所にある「伊都国」の位置が大問題である。

この国をほとんどの研究者は福岡県糸島市(旧前原町・志摩町)に比定するのだが、糸島市なら壱岐国から直接ここへ水行すればよく、どうして唐津で船を降り、少なからぬ携行品の数々を背負いながら海岸沿いの険しい道を歩く必要があるのだろうか。

そもそも東南へ歩くというのに、唐津から糸島市へは東北であることも否定される理由だ。さらに日本書紀の仲哀天皇紀や肥前国風土記逸文には、怡土郡(糸島市の旧郡名)は最初は「伊蘇(イソ)国」と呼ばれていたのだが、転訛によって「イト郡」になったが、それは誤りである――と書かれているのだ。

「糸島=伊都国」説は完全に比定されなければならない。糸島には「伊都国歴史資料館」があるが、糸島に住んでいた豪族「五十迹手(いそとて)」に因んで「五十国歴史資料館」とすべきだ。

(※五十(イソ)はまた崇神天皇と垂仁天皇の和風諡号にあり、それは崇神の九州時代における王権が、この糸島五十(イソ)の地から始まったことを示している。)

私は伊都国を「イツ国」と読み、唐津市から東南へ松浦川沿いの道をとり、上流部にある「厳木町」(きゆらぎ町)を「イツキ町」と読み替えて「伊都城(イツキ)」とする。まさにそこは「伊都(イツ)国」の王城があったと考えている。戸数は当時わずか1000戸になっていたが、かつては佐賀平野部を占める大国であった。

この伊都国からさらに東南へ100里(1日行程)の所に奴国があるが、この奴国は戸数が2万戸と巨大である。佐賀平野の西部に位置する多久市から小城市一帯にかけて、有明海の海の幸にも恵まれた気候温暖な平野部だろう。

この次の国「不弥国」はその東100里で、現在の佐賀市がまだ海中にあり、かなり陸奥に入った大和町あたりかと思われる。

 

  【距離表記と日数表記】

さて以上の不弥国までは帯方郡から○○里という「距離表記」によって記載されている。この不弥国までの距離は合計すると1万700里である。またもう一つの距離表記があり、それには「郡より女王国に至る、1万2千余里」とある。

そうすると不弥国から邪馬台国まではあと1300里ということになる。この時点で畿内説は全く成り立たないことが分かる。

当時もちろん地図はなかったが、当てはめてみると唐津から厳木町(伊都国)を通り、佐賀平野に下って多久・小城、そして大和町まで700里のさらにおよそ2倍ほどの1300里を行った先に邪馬台国があることになる。

私はそこを八女市とした。

ところがここで悩ましい問題が生じる。帯方郡から半島の西海岸を経由し、朝鮮海峡を渡り、唐津に上陸してから松浦川沿いに東南500里の厳木町、さらに東南の奴国を経て東の不弥国まで帯方郡からの距離表記は10700里。

この不弥国のあとは、次のように投馬国と邪馬台国が登場するのだが、これが日数表記なのだ。

<(東行至る不弥国、百里。官に曰く多模、副に曰く卑奴母離、二千余家有り。)南至る、投馬国、水行20日。官に曰く彌彌(ミミ)、副に曰く彌彌那利(ミミナリ)。五万余戸なるべし。南至る邪馬台国、女王の都する所。水行10日、陸行1月。(以下省略)>

不弥国にはタモ(玉?)という大官がおり、ヒナモリ(夷守?)という副官がいて、戸数は2千戸程度だという情報を書き記したあと、「南至る投馬国、水行20日」とくる。さらに投馬国の戸数は5万余戸ばかりだという情報を書いたあと、「南至る邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行1月」とくる。

多くの研究者は不弥国から船出して南へ20日の所に投馬国があると考える。不弥国を多くの研究者は福岡県の宇美町とするのだが、そこからは南へ行けるような海はない。投馬国までの20日の水行を悪戦苦闘して、遠賀川を逆上らせたりする。それでも20日は多過ぎる。

また宇美町から東へ水行し、下関海峡を通過して大分・宮崎の海岸を「水行」させたりする。これだと一見南へ下るようだが、その前の玄界灘を東行する過程を全く考慮しないで無視する。

仮に宮崎方面に南下し、宮崎を投馬国に比定したとしても、邪馬台国はそこからさらに南へ水行10日し、上陸したら1か月歩いた場所であり、鹿児島の大隅半島か薩摩半島に上陸したあと、徒歩で1か月もかかる地域はない。

 

  【距離表記と日数表記は同値である】

ここで考慮しなければならないのは、段落というものを無視した漢文の書き方である。

上で引用した不弥国から投馬国、投馬国から邪馬台国の日数表記記事は連続しているけれども、どちらの「南至る」も共に帯方郡からの日数表記なのだ。

つまり帯方郡から邪馬台国までの距離表記「1万2千里」と「(帯方郡から)南至る水行10日、陸行1月」という日数表記は同値なのである。

「水行10日」とは「帯方郡から半島の西海岸経由で朝鮮海峡を渡り末盧国(唐津市)までの1万里」と同値であり、「陸行1月」とは「末盧国から伊都国・奴国・不弥国を経由して邪馬台国までの2千里」と同値なのである。

投馬国が後になったが、この日数表記も「帯方郡からの水行20日」であり、不弥国からの水行20日ではない。距離表記では書かれていないが、もし書くとすれば「帯方郡より投馬国まで2万里」となろう。まず「水行10日(距離表記では1万里)」は帯方郡から末盧国までの1万里。

末盧国からは、さらに南へ水行10日(距離表記では1万里)の九州南部域が広く該当する。

したがって戸数5万戸という大国は鹿児島県と宮崎県とを併せた古日向ということになる。

倭人伝の行程記事では距離表記と日数表記とが混在しているのだが、距離表記と日数表記が同じことを別の表現で表しているのだと気が付けば、九州説にとって臆説は存在しないことになろう。

 


古日向と吉備(3)

2024-01-30 16:02:44 | 古日向の謎

(※(2)より続く)

 【大国吉備と大和王権】

吉備は国生み神話で「吉備児島」としてあらわれ、別名を「建日方別(たけひかたわけ)」と言ったが、その名称の由来は「建日別」こと古日向クマソ国に因んでおり、具体的には古日向からの神武東征(私見では神武の皇子とされているタギシミミによる移住)の途上で、吉備に定住した古日向人が吉備南部の児島地域に繁衍したが故だろうというのが、(1)の結論であった。

また児島地域からははるかに遠い旧美作国の津山市にウガヤフキアエズ命を祭る「高野神社」が建立されたのは、私が「崇神東征」と名付ける北部九州糸島を中心に勢力を伸ばした「五十(イソ)国」発祥の「大倭」による畿内大和への東征の途上、もしくは、畿内大和で先の古日向王権である橿原王朝を倒して崇神王権を樹立したのちに、「四道将軍」の一人である吉備津彦(五十狭芹彦)の征伐によって児島地域の古日向系吉備人が土地を追われ、北部の山岳地帯に落ち延びた結果だろうというのが、(2)の結論であった。

吉備は「真金吹く吉備」と謳われており、古来、製鉄の盛んな先進的な大国であった。もちろん土地の条件も良く、田畑は無論、瀬戸内海を擁した沿岸部では漁撈も船運も盛んであった。

ところで、吉備臣の始祖伝承としては上述の崇神王権由来の吉備津彦(五十狭芹彦)のほかに「稚武彦(わかたけひこ)」がいる(応神天皇紀22年条)。

この稚武彦も吉備津彦と同じく第7代孝霊天皇の皇子とされているが、私は疑問に感じている。

なぜならこの人の孫に当たる鴨別(かもわけ)が、神功皇后の命によってクマソ国を撃たせたところ「いまだいくばくも経ずして、自ずから服せり」(神功皇后摂政前紀3月条)とあり、鴨別がクマソ(古日向)と同根なればこそクマソも従順に従ったのだろうと思うからだ。

鴨別の「鴨」は「鴨着く島」でもある古日向の汎称であった。古日向系の吉備人の中に鴨を系譜のシンボル名とした族長がいて何ら不思議ではない。

この鴨別の兄弟に「御友別(みともわけ)」という人がおり、この人の子に「稲速別」「仲彦」「弟彦」がいて、それぞれ吉備下道臣、上道臣・香屋臣、三野臣の祖になっている(応神紀22年条)。

さて、この中の吉備下道臣の系譜に吉備下道臣「前津屋(さきつや)」がいた。時代は100年余り下って第21代雄略天皇の時である。前津屋が朝廷(天皇)を凌ごうかという勢力であった様子が分かる記事がある。

――朝廷に出仕していた吉備臣の一族「弓削部虚空(おおぞら)」が吉備に帰省してからなかなか戻ってこないのを不審に思った天皇は使いをやって連れ戻した。

戻った虚空は「前津屋は、小柄な女を天皇の代わりとし、大柄な女を自分に見立てて相撲を取らせ、小柄な女が勝つと殺してしまう。また小さな鶏を天皇の代わりとし、大きな鶏を自分に見立てて闘わせ、小さな鶏が勝つと殺してしまう」と天皇に讒言した。

これを聞いた天皇は物部の兵士30人を7吉備に向かわせ、前津屋及びその一族70人を誅殺させた(雄略紀7年8月条)――。

また同じ時期に吉備上道臣「田狭(たさ)」が自分の妻がいかに美人であるか自慢しているという噂を聞き、田狭を任那の国司に任命して半島に赴任させ、その妻を天皇が我が物にしたという(同上)。

このように雄略天皇は5世紀の後半当時、天皇家を凌ぐかと思われた吉備の勢力を削ぐことに腐心しており、こののち吉備は朝廷の傘下に入り、崇神王権のもとで吉備を攻略した英雄「吉備津彦」が吉備国の守護神となった。備前一宮「吉備津彦神社」、備中一宮「吉備津神社」はともに吉備津彦(祭神名は大吉備津彦)を祭って今日に至っている。

その一方で岡山県北部に位置する津山市の「高野神社」は、古日向からやって来て定住した古日向系吉備人の時代があったことを今に伝えている。

神社建立の時代を安閑天皇の2年(534年)としているが、下道臣前津屋が滅ぼされたのが雄略天皇7年で463年のことであるから、その時から70年後というそう遠くない時代に、古日向系吉備人が山間の津山に開拓に入ったことになる。

この古日向人の津山入りは前津屋の反乱との関係も考えられないことはないが、いずれにしても高野神社がウガヤフキアエズ命を祭神としていることは吉備と古日向との関係性を端的に表明している。(終わり)

 


古日向と吉備(2)

2024-01-29 09:24:08 | 古日向の謎

(※(1)より続く)

ウガヤフキアエズを祭る高野神社は、津山市内を流れる一級河川吉井川の流れに近い場所に建立されている。

神社の由緒によると、この川の流れの中にある「オノコロ石」に発祥するという。「オノコロ石」がどんな石なのかの詳細は書かれていないが、おそらく国生み神話の中の「オノゴロ島」からの転意だと思われる。

イザナギとイザナミがそこに降りて「ミト(夫婦)のマグワイ(交接)」をして、大八島国はじめ様々な神々(地上の自然や生物)を生み出したところが「オノゴロ島」であった。

ここに住み始めた人々がこのオノコロ石をオノゴロ島に見立てて「磐境」(いわさか=神聖な場所)として祭り、豊かな自然の中で開拓に取り組んだ証として社を建てたのだろう。

一般に神社はそこを開拓した初代の偉人を祭神とすることが多いものだが、この高野神社の祭神ウガヤフキアエズ命はそれには当てはまらない。

ウガヤフキアエズはあくまでも古日向に君臨していた人であり、その子に当たる神武天皇(私見では神武とアイラツヒメとの間に生まれたタギシミミ)が東征の途上、ここ吉備に高島宮を造営して8年滞在したことはあっても、ウガヤフキアエズその人が吉備にいたのではない。

それなのになぜウガヤフキアエズが祭神なのか。

岡山県神社庁のホームページによると、創建は安閑天皇の2年(534年)という古社である。

また同社は美作国の二宮であり、延喜式内社として国幣にあずかる大社でもあった。美作国が備中国から分離されて建国されたのは、何と大隅国が和銅6年(713年)に旧日向国から分離建国されたのと同時であった(『続日本紀』和銅6年4月3日条)。偶然の一致であろうが、興味ある史実である。

さて古日向に縁のあるウガヤフキアエズが、このような中国地方の山中と言える美作国の津山の高野神社に奉斎された経緯はどのようなものだったのだろうか。

まず言えることは、ウガヤフキアエズ命をあがめる(祭祀する)人々がいて、ここ津山に定住したがゆえに、祭り所として神社が建立されたということである。

どこからか――は、古日向からという他なく、「神武東征」の途上に吉備に8年も滞在している際に、神武の父に当たるウガヤフキアエズ命の御霊を祭祀したことに因んだ、と考えて不合理はないだろう。

最初の祭祀地は、当然、息子に当たる神武(私見ではタギシミミ)が8年間住んでいた「高島宮」であろう。この宮のあった場所は特定できないが、児島湾の周辺だと思われる。

神武東征を私は「古日向からの移住」と考えるので、中にはこの吉備の穏やかな土地に定住した者もいたに違いなく、この人たちが神武勢が畿内方面に更なる移動を開始したあとも吉備に残り、定住への取り組みを続けたのだろう。

倉敷市から岡山市にかけての遠浅な河川堆積地は肥沃で、火山性の堆積物(シラス)に覆われた古日向の開拓民にとっては夢のような土地であったに違いない。

しかし肥沃な土地であればあるほどそれを求める勢力は多かった。

 

 【吉備津彦の進出と古日向人への圧迫】

吉備に定住を始めた古日向人にとって最大の敵対勢力は北部九州の一大勢力「五十国」であり、糸島を皮切りに巨大化した崇神天皇の王統であった。この勢力が魏志倭人伝中の「大倭」である。

崇神天皇王統の「大倭」は、魏王朝が植民地化しようとしていた朝鮮半島情勢の緊迫化により、北部九州から安全地帯の畿内を目指した。この「東遷」こそが実の「東征」であり、武力による討伐を手段としていた。これを私は「崇神東征」と呼ぶ。

北部九州からの「崇神東征」は、古事記記載の20年近くかかった神武東征(移住)ではなく、日本書紀に記載の3年余りという短い期間で成し遂げられている。

いわゆる「神武東征」(私見ではタギシミミ率いる移住)の時代は2世紀(弥生時代後期)の半ばであり、崇神東征の時代はそれより120年ほど後の3世紀後半としてよい。

北部九州からの崇神東征も瀬戸内海経由であり、当然のこと吉備児島に長期間停泊して武器食料の補給基地としただろうが、吉備は単にそれだけの存在ではなかった。

吉備に定住していた古日向人は崇神船団が吉備にやって来た時に、すでに120年5世代ほども代を重ねており、かなりの勢力になっていたものと思われる。古日向系の吉備人は児島周辺に多くいたと考えて差し支えなく、中には非友好的な態度をあらわにする者もいたはずである。

武力討伐を辞さない崇神東征軍は、多くの吉備人を従えるのに成功した一方で、反抗する古日向系吉備人を討伐の対象にしたのかもしれない。

そのため古日向系吉備人は児島を捨てて吉備の内陸に移住避難した可能性が考えられる。

崇神東征軍団を率いていた最高指揮官と呼ばれるのが「五十狭芹彦(イソサセリヒコ)」であろう。第7代孝霊天皇の皇子で、「五十」は「イソ」と読むべきで、この人物が「五十(イソ)国」こと糸島由来であることを物語っている。

五十狭芹彦(イソサセリヒコ)は別名を「吉備津彦」という。

この別名は崇神東征の途上で吉備に停泊上陸したあと吉備の児島はじめのちの備前・備中までも掌中におさめたことに由来するのか、もしくは崇神軍団が畿内に入り、前王権の古日向由来の橿原王朝を倒し、崇神王権を樹立したのちに発遣した「四道将軍」の一人として吉備を平定したことに由来するのか、決定しがたい。

だが吉備という国は大国であるから一度の征伐ではなく、東征途上と崇神王権確立後の二回にわたる征伐によると考えるのが合理的だろう。(続く)

 


古日向と吉備(1)

2024-01-28 18:38:39 | 古日向の謎

先日、「古日向人とクマソ」(1)~(3)というテーマで、おおよそ

「古日向とは現在の鹿児島県と宮崎県を併せた領域であり、景行天皇のクマソ征伐から仲哀天皇の后・神功皇后の新羅征伐まで、わずか30年余りの時代にクマソの国と言われたに過ぎなかった。

白村江の海戦で倭軍が完敗したのち、天武天皇時代に列島限定の中央集権的な国家統治が急がれた際に採用された「律令制」と「仏教の国教化」が古日向にとっては受け入れがたい施策だったため、古日向人が反旗を翻した。

大和中心の中央集権の思想の中に東西南北の四方を守るとされた青龍・白虎・朱雀・玄武(亀)のうち、古日向人は南に住んでいたため「朱雀」があてがわれたのだが、「雀」は仁徳天皇の和名「大雀(オオサザキ)」を犯すため敬遠され、代わりに「隼」が選ばれて、古日向人の蔑称となった。

平城京には「隼人司」が置かれ、はるばる古日向から「隼人」が上番するようになった。隼人の「吠声(ベイセイ)」(犬の遠吠え)は魔を打ち払う霊力があるとされ、次第に古日向人への蔑視は少なくなって行った。

鹿児島藩が明治維新で長州藩・土佐藩・佐賀藩と共に立役者となってから、「隼人」は蔑称どころか敬称になって今日まで続いている」

と書いた。

一般に「クマソ」は熊襲というおどろおどろしい漢字が使われているため、本居宣長の『古事記伝』いらい「未開な、野蛮な」というイメージが定着してきたが、私は「熊」を「能+火」と捉え、「火を能く扱う、火をうまくコントロールする」と解釈して来た。

この「熊=火をうまくコントロールする」とは、古日向域に顕著な火山活動を念頭に置いての成語で、数知れぬ火山噴火や降灰を受けながらも逞しく生きて来た古日向人の属性をよくとらえたものと考える。

そして、カグツチ(輝く土=溶岩)の出産によってイザナミノミコトが焼けただれて死んだことや、古日向のクシフルタケに降臨したニニギノミコトが阿多の笠沙で出会ったカムアタツヒメ(別名コノハナサクヤヒメ)が出産する時に「産屋に火をつけ、その中で三皇子を無事に産み落とした」様子は、古日向の出来事として実に整合性を得ていると思う。

 

 【古日向と「建日別」及び「建日方別」】

古日向は古事記の国生み神話によると、クマソ国であり別名が「建日別」であった。

建日別という漢字の「建」は、あの長命だったという成務天皇から仁徳天皇の時代まで仕えた「武内宿祢」を古事記では「建内宿祢」と書くように、「建」は「武」でもあった。「武」とは武力の「武」であり、「猛々しい」というイメージが強い。

したがって「建日」とは「武日」であり、「猛々しい日」ということである。これは列島の最南端の気候風土を如実に表している。クマソ国である古日向が「建日別」と名付けられたことに全く違和感はない。

これに加えて「日」はまた「火」でもあるから、火山活動の猛々しさをも表現しており、古日向(クマソ国)の属性をよく捉えていると感心せざるを得ない。

ところで、古事記ではこの「建日」を使った国(島)が他にある。

それは吉備児島である。古事記には「(大八島を生み終えたのち)還ります時、吉備児島を生みき。またの名は建日方別という」とある。

吉備とは今日の岡山県で例の桃太郎の伝説で有名だが、吉備児島は岡山県でも南部の地域で倉敷から岡山市にかけての海沿いの一帯を指している。児島という街が下津井半島の根元にあるのでそこだけに限定しがちだが、児島湾干拓で著名な児島湾と児島半島は岡山市に近い。

また倉敷市と岡山市の間の広大な平野部に「松島」「早島」「簑島」という地名があり、かつてはその平野部も海中だったようである。

いずれにしても当時の吉備児島こと「建日方別」は広大な地域であった。

この「建日方別」と「建日別」との関係を考察してみよう。

建日までは同じだが、「方」とはどんな意味だろうか。

これは「地方」という言葉があるように、建日の「地方」という意味だろう。要するに「建日別の分国」ということである。

建日別(クマソ国)の分国がなぜ岡山県の南部にあったのか?

それは古日向からのいわゆる「神武東征」があったからである。東征の途上で神武一行は「吉備の高島」に宮殿を造り、そこに8年という長い歳月を送ったのであった。

岡山県南部は中国山地から瀬戸内海に向かって南流する3つの大きな川(吉井川・旭川・高梁川)によって海岸部の堆積が進んでいたから、広大な干潟があった。古日向を出発した東征船団にとって願ってもない開拓地になったに違いない。

私は古日向(クマソ国)からの「神武東征」は史実だと考えるのだが、その東征の中身は実は「移住」ではなかったかと思っている。

弥生時代の後期(1世紀~2世紀)に古日向域では活発な火山活動などの大規模災害があり、ようやく米作りが軌道に乗ろうかという矢先に降灰などによって不可能となるような事態が発生したための移住ではないかと考えるのである。(※東九州自動車道建設前の発掘調査で、弥生後期の遺跡・遺物が極端に少ないことが分かっている。)

ここ吉備の児島が「建日方別)(建日別の分国)という名称なのは、ここ吉備に定住した多くの古日向人がいたためではないだろうか。その一つの証左になるかもしれない神社が津山市にある。

 

 【ウガヤフキアエズを祭る高野神社】

先年、岡山県北の美作地方の中心都市である津山市を訪れた時、「大隅神社」というのがあるのに驚いたのだった。

調べてみるとそこに祭られているのは「豊手」という人物で、彼は出雲の「天日隅宮」(出雲大社)を美作に勧請し、開拓のシンボルとしたという。

私は「大隅神社」というからには大隅国関係の祭神が祭られているのかもしれないと期待したのだが、「隅」は「隅」でも「日隅宮」の「隅」だったのでややがっかりした。ところが同じ市内の美作国二宮と言われる「高野神社」を訪れて、びっくりしてしまった。

何と高野神社の祭神は「ウガヤフキアエズ命」だったのである。記紀によればまさに神武天皇の父に当たる。

なぜまたこんな山奥(中国山地の中ほど)に古日向に由緒のあるウガヤフキアエズが祭神として崇敬されているのだろうか?(続く)