前回は、映画の登場人物達をムキになって罵倒するというかなりイタい行為に熱中した結果、妙なテンションになってしまいました。おかげで「戦後60年」というテーマは忘却の彼方に。今回こそはこのテーマに沿った文章を書きたい、と言いながらまたもや映画の感想です。採り上げるのは、同じ日にハシゴして観てきた政治的題材の映画2本。
まず一つめは「ヒトラー~最期の12日間~」。
公式サイト入口
第二次世界大戦末期、ベルリンの地下要塞に籠もったヒトラーとその周囲の人々の「最期の日々」を、史実を元にしてあくまでもリアルに真正面から捉えた作品です。並行して地下要塞の外、苛烈な戦場となったベルリンでの市民達の惨状も描かれ、歴史劇としての厚みが加わっています。
作中では、時間・空間ともに限定された状況下に置かれた人物像や出来事を丹念に叙述することによって、「事実」を伝えることに力点が置かれています。そのため、ヒトラーやナチスを明確に批判する言葉は少ないのですが、そうした特定の過去への批判よりも根元的・普遍的と思われるメッセージを、二人の登場人物に仮託して発しているようです。
一人はヒトラーの若い女性秘書で、物語の狂言回しの役割を担っているトラウドゥル・ユンゲ。この映画の元になった証言を残した実在の人物です。映画の最後で老いた彼女自身が(映画の中では本人という注釈は無いけれど)「若かったことは言い訳にはならない。目を見開いていれば(ナチスの犯罪に)気づけたはずだ」と語ります。政治に関わった者はそれぞれの責任を負わなければならない、ということでしょう。
もう一人の人物は、武器も満足に無い状態でベルリンを防衛しようとする民兵に参加した少年。ヒトラーが少年兵たちを激励する実際の記録映像を見たことがありますが(映画でも役者を使って再現されています)、そこから創作された人物でしょう。無謀な戦いの中で彼の仲間たちは空しく死んでいき、民兵に参加しなかった彼の家族は非国民として同胞に処刑されてしまう。そんな過酷な体験を経てもなお、無益に戦って死ぬよりも生き延びることに価値がある、と彼の存在は示しています。
この少年とユンゲとの出会い、敵兵の包囲から抜け出そうとするユンゲを、少年が機転によって助け出す場面は、緊迫した状況と相まって映画の中でも特に鮮やかな印象を残します。地下要塞の中で独裁政権の崩壊を見つめ続けたユンゲと、破壊と無惨・瓦礫と死体に溢れた外の世界を彷徨い続けた少年。この二人の背負う運命が劇的に転換し、「戦後」へと踏み出していくさまを表しているようでした。
この暗くて重苦しい映画を観た後、精神的なバランスを取るべく観たのが「チーム☆アメリカ ワールド・ポリス」。
公式サイト入口(「ENTER~」で入ると音声が出ます)
世界の治安を乱すテロリスト達に立ち向かう「世界警察」〈チーム・アメリカ〉の活躍を、なぜか「サンダーバード」調の操り人形を使って描く、皮肉と風刺と悪趣味な笑いに満ちたアクション・コメディー映画。「アメリカが世界の中心」「アメリカの軍事力こそが世界の安定をもたらす」というアメリカ右派の世界観を極端に誇張し、そこに下ネタと暴力描写をありったけぶち込んで形にしたものと言えばよいでしょうか。表現が過激すぎたためか18禁になっています。
現実の世界状況をネタにしてはいますが、この映画はそれに対する左右両派の言説をことごとく虚仮にしており、どちらにも与しません。テロリストに対して過剰な暴力で対抗し、無関係の民間人・建物の犠牲も厭わない、というか眼中に無いチーム・アメリカの恐るべき無思慮さはブッシュ政権などの戯画化だし、それを批判するリベラル派のハリウッド俳優たちも、現実離れしたおめでたさを振りまく勘違い野郎でしかない。「華氏911」のマイケル・ムーアなどは社会主義者のテロリストシンパ扱いされており、文字どおり木っ端微塵にされます。
わざわざ作り物であることが一目瞭然の操り人形を使ったのは、陳腐かつ空疎なストーリーで薄っぺらいヒロイズムを謳い上げる、最近の大作映画のパロディーとしての意味合いもあるようですが(だから物語の骨格自体は類型的)、この映画に出てくる主義・主張がすべて虚偽であることを示してもいるのでしょう。強いて言えば、「すべてのイデオロギーを簡単に信用するな」という消極的なメッセージが根底にあるとも考えられます。
現在の緊迫した状況下において政治的態度を明らかにしないのは無責任な逃避だ、という批判も成り立つでしょう。しかし、それは他人から強いられて決めることではないし、そう言って迫る人々に嘘くささを嗅ぎつけるのも一つの見識と言えます。もっとも、この映画は政治をネタにして笑うこと自体が第一の目的であって、笑いでメッセージを伝えようという意図はそもそも薄いようですが。
この「政治的題材」で括るのはいささか無理があるほどに対照的な2作品、「チーム・アメリカ」の方が圧倒的に明るく楽しく、かなり悪趣味とはいえ大笑いできることは言うまでもありません。というか「ヒトラー」には逃げ場ナシの深刻さが渦巻いており、観ていて素直に笑えるようなシーンはまったく無い。にもかかわらず、作中で「希望」が描かれているのは「ヒトラー」の方なのです。
その希望はやはり民兵の少年に託されています。物語の結末まぎわ、彼とユンゲが自転車で何処かへ向かう姿を正面から捉えたシーンは、見通しのつかない先行きに厳しい現実が待っていることを暗示しつつも、新しい時代への解放感・期待感へとつながっていくようです。虚脱と不安の中の希望。それは戦後のドイツの人々が現実に感じていたものではないでしょうか。
一方の「チーム・アメリカ」。「アメリカ、ファック イエー!」という決め文句さながらに快活で威勢のいいハッピーエンドなのに、どうにも後味の悪さが残ります。それもそのはずで、最後に勝利を収めるチーム・アメリカが、結局は手に負えない単細胞のままで、今後も好き放題に他国をファックし続けることには変わりがないのだから。現実の世界に思いを馳せれば、大して変わらない状況であることを再認識させられてしまい、やりきれない気分にならざるを得ないのです(ブッシュ政権の支持者は違うのでしょうが)。作中で、チーム・アメリカの一人が「We have no intelligence!」と叫びますが、それがしゃれになってないところが考えてみれば恐ろしい。現実のチーム・アメリカ達が、「俺たちは無能だ!」と自覚する時は来るのでしょうか。
さて明日は8月15日、言わずと知れた「終戦記念日」です。もちろん靖國神社を公式参拝する所存でございます。小泉首相の参拝は見送られるかも知れませんが、それでも今年は、最近の国際情勢までが絡んで抜群の盛り上がりを示すこと請け合いであります。どんな面白い物が見られるかと今から胸が躍ります。
まず一つめは「ヒトラー~最期の12日間~」。
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第二次世界大戦末期、ベルリンの地下要塞に籠もったヒトラーとその周囲の人々の「最期の日々」を、史実を元にしてあくまでもリアルに真正面から捉えた作品です。並行して地下要塞の外、苛烈な戦場となったベルリンでの市民達の惨状も描かれ、歴史劇としての厚みが加わっています。
作中では、時間・空間ともに限定された状況下に置かれた人物像や出来事を丹念に叙述することによって、「事実」を伝えることに力点が置かれています。そのため、ヒトラーやナチスを明確に批判する言葉は少ないのですが、そうした特定の過去への批判よりも根元的・普遍的と思われるメッセージを、二人の登場人物に仮託して発しているようです。
一人はヒトラーの若い女性秘書で、物語の狂言回しの役割を担っているトラウドゥル・ユンゲ。この映画の元になった証言を残した実在の人物です。映画の最後で老いた彼女自身が(映画の中では本人という注釈は無いけれど)「若かったことは言い訳にはならない。目を見開いていれば(ナチスの犯罪に)気づけたはずだ」と語ります。政治に関わった者はそれぞれの責任を負わなければならない、ということでしょう。
もう一人の人物は、武器も満足に無い状態でベルリンを防衛しようとする民兵に参加した少年。ヒトラーが少年兵たちを激励する実際の記録映像を見たことがありますが(映画でも役者を使って再現されています)、そこから創作された人物でしょう。無謀な戦いの中で彼の仲間たちは空しく死んでいき、民兵に参加しなかった彼の家族は非国民として同胞に処刑されてしまう。そんな過酷な体験を経てもなお、無益に戦って死ぬよりも生き延びることに価値がある、と彼の存在は示しています。
この少年とユンゲとの出会い、敵兵の包囲から抜け出そうとするユンゲを、少年が機転によって助け出す場面は、緊迫した状況と相まって映画の中でも特に鮮やかな印象を残します。地下要塞の中で独裁政権の崩壊を見つめ続けたユンゲと、破壊と無惨・瓦礫と死体に溢れた外の世界を彷徨い続けた少年。この二人の背負う運命が劇的に転換し、「戦後」へと踏み出していくさまを表しているようでした。
この暗くて重苦しい映画を観た後、精神的なバランスを取るべく観たのが「チーム☆アメリカ ワールド・ポリス」。
公式サイト入口(「ENTER~」で入ると音声が出ます)
世界の治安を乱すテロリスト達に立ち向かう「世界警察」〈チーム・アメリカ〉の活躍を、なぜか「サンダーバード」調の操り人形を使って描く、皮肉と風刺と悪趣味な笑いに満ちたアクション・コメディー映画。「アメリカが世界の中心」「アメリカの軍事力こそが世界の安定をもたらす」というアメリカ右派の世界観を極端に誇張し、そこに下ネタと暴力描写をありったけぶち込んで形にしたものと言えばよいでしょうか。表現が過激すぎたためか18禁になっています。
現実の世界状況をネタにしてはいますが、この映画はそれに対する左右両派の言説をことごとく虚仮にしており、どちらにも与しません。テロリストに対して過剰な暴力で対抗し、無関係の民間人・建物の犠牲も厭わない、というか眼中に無いチーム・アメリカの恐るべき無思慮さはブッシュ政権などの戯画化だし、それを批判するリベラル派のハリウッド俳優たちも、現実離れしたおめでたさを振りまく勘違い野郎でしかない。「華氏911」のマイケル・ムーアなどは社会主義者のテロリストシンパ扱いされており、文字どおり木っ端微塵にされます。
わざわざ作り物であることが一目瞭然の操り人形を使ったのは、陳腐かつ空疎なストーリーで薄っぺらいヒロイズムを謳い上げる、最近の大作映画のパロディーとしての意味合いもあるようですが(だから物語の骨格自体は類型的)、この映画に出てくる主義・主張がすべて虚偽であることを示してもいるのでしょう。強いて言えば、「すべてのイデオロギーを簡単に信用するな」という消極的なメッセージが根底にあるとも考えられます。
現在の緊迫した状況下において政治的態度を明らかにしないのは無責任な逃避だ、という批判も成り立つでしょう。しかし、それは他人から強いられて決めることではないし、そう言って迫る人々に嘘くささを嗅ぎつけるのも一つの見識と言えます。もっとも、この映画は政治をネタにして笑うこと自体が第一の目的であって、笑いでメッセージを伝えようという意図はそもそも薄いようですが。
この「政治的題材」で括るのはいささか無理があるほどに対照的な2作品、「チーム・アメリカ」の方が圧倒的に明るく楽しく、かなり悪趣味とはいえ大笑いできることは言うまでもありません。というか「ヒトラー」には逃げ場ナシの深刻さが渦巻いており、観ていて素直に笑えるようなシーンはまったく無い。にもかかわらず、作中で「希望」が描かれているのは「ヒトラー」の方なのです。
その希望はやはり民兵の少年に託されています。物語の結末まぎわ、彼とユンゲが自転車で何処かへ向かう姿を正面から捉えたシーンは、見通しのつかない先行きに厳しい現実が待っていることを暗示しつつも、新しい時代への解放感・期待感へとつながっていくようです。虚脱と不安の中の希望。それは戦後のドイツの人々が現実に感じていたものではないでしょうか。
一方の「チーム・アメリカ」。「アメリカ、ファック イエー!」という決め文句さながらに快活で威勢のいいハッピーエンドなのに、どうにも後味の悪さが残ります。それもそのはずで、最後に勝利を収めるチーム・アメリカが、結局は手に負えない単細胞のままで、今後も好き放題に他国をファックし続けることには変わりがないのだから。現実の世界に思いを馳せれば、大して変わらない状況であることを再認識させられてしまい、やりきれない気分にならざるを得ないのです(ブッシュ政権の支持者は違うのでしょうが)。作中で、チーム・アメリカの一人が「We have no intelligence!」と叫びますが、それがしゃれになってないところが考えてみれば恐ろしい。現実のチーム・アメリカ達が、「俺たちは無能だ!」と自覚する時は来るのでしょうか。
さて明日は8月15日、言わずと知れた「終戦記念日」です。もちろん靖國神社を公式参拝する所存でございます。小泉首相の参拝は見送られるかも知れませんが、それでも今年は、最近の国際情勢までが絡んで抜群の盛り上がりを示すこと請け合いであります。どんな面白い物が見られるかと今から胸が躍ります。
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