仮名日記

ネタと雑感

彼はとってもG(その1)

2005年12月25日 | 文化
 覚醒剤所持で日景忠男氏が逮捕されたので、映画『ゴジラ FINAL WARS』について書くことにします。
 最後のゴジラ映画と銘打たれたこの作品を、俺は2004年の公開時に映画館で観ました。実は、映画館でゴジラを観るのは『メカゴジラの逆襲』以来。1984年の復活が無ければ、それが最終作になっていたはず。しまった、『ゴジラvsデストロイア』も公開時に観ておけば、「最後のゴジラ映画」を3作全部劇場で観た、と自慢できたのに。
 それはさておき、『FINAL WARS』は、映画としては非常に欠点が多く、広くお薦めできるものではありません(実際に興行成績も振るわなかったらしい)。話が支離滅裂だ、他作品の模倣(インスパイヤでもオマージュでもパロディーでも何でもいいが)が多すぎる、アクションシーンが冗長だ、ヒロイン役の菊川怜がイモだ、キース・エマーソンの曲が安っぽい、衣装の生地がいくつかおかしい等々。はっきり言って大人の鑑賞には堪えられるものではない。しかし、そもそもこの映画は、賢い大人ではなく子供と特撮好きのアホが観るものとして作られているのだから、それで十分なのです。
 そのため肯定的な評価の理由も、ゴジラが強い、怪獣がいっぱい出る、ドン・フライがイカす、悪役が笑える、轟天号がドリル、と非常に頭の悪いことになります。物語もテーマも登場人物の内面も甚だしく薄っぺらく、深く考えるべきところなどは皆無と言っていい。どこかで使用済みのパーツの組み合わせ・積み重ねで成り立っており、その手際と思い切りの良さが見どころです。ありふれた記号が現れては消えていくのを、刹那的に楽しめればそれでいい。そうした基準で評価するならば、見事な出来映えとさえ言えるでしょう。
 この壮大な空虚さを体現しているのが、ドン・フライが演じた、万能戦艦轟天号艦長のゴードン大佐(「ゴーテン」の艦長だから「ゴードン」と命名されたのだろうか)。ドン・フライの演技は、強面で睨むことと不敵に笑うことの2種類しかないけれど、それで十分成立してしまうぐらいにこのキャラクターの実質は薄い。行動力と闘争心によって物語を推進する機能であり、他にやることといったら、要所要所で格好良くキメて場面を引き締めるだけ。それ「だけ」に徹しているからこそ、この映画の中での彼は魅力的なのです。ちなみにこのキャラクター、玄田哲章による吹き替え版で観るとアホらしさが増してさらに素敵。
 もうひとり、別の意味で注目すべきなのがケイン・コスギ(彼の日本語のたどたどしさについては軽く流すことにします。ドン・フライと同じく吹き替えにすればよかったのに、などという酷いことはとても言えません)。彼の役どころは、主人公の松岡昌宏の同僚で轟天号の乗組員。マッチョでスパルタンでストイックな人物なんだけれど、これがどうにもゲイっぽい。早い話が松岡に片思いをしているように見えます。松岡をライバル視して何かというと突っかかる姿は、想いを懸けた人が自分の理想どおりに行動してくれないことに苛立っているよう。菊川怜の護衛についた松岡にわざわざイヤミを言いに来るところなど、嫉妬心むきだしの見苦しさ。
 彼が松岡との和解を経て、敵の宇宙船に攻め込む血路を開くべく、戦闘機で特攻をして最期を迎えるのも、愛による究極的な献身であるとともに、死によって、相手の中での自らの価値を永遠のものにすることを意図した行動と解釈できます。異性愛者への叶わない気持ちを締めくくるためにそうせざるを得なかった、彼の悲痛な心情を汲みとって欲しい。如何せん、この映画ではまともに情緒が描かれないので、彼の死はその場限りであっさりと流されてしまうけれど。
 この特攻の場面は、『スター・ウォーズ』と『インディペンデンス・デイ』を足して4か5ぐらいで割ったようなしょぼさで失笑を誘いますが、直系のルーツと言うべき作品があることはある。それは、同じく東宝が製作し、同名の戦艦轟天号が登場する『惑星大戦争』。1977年に公開された宇宙モノの特撮映画で、似たような特攻の場面がちゃんと出てくるし、さらに言えば、映画としての底の抜け具合もよく似ています。
(続く)


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