その夜、僕は100円定食に生卵を追加した。
「新聞配達始めたんやてねえ」
食堂のお姉さんが声を掛けてくれる。何度か梅干をサービスしてくれたお姉さんだ。
「これからは雨ばっかりやし、大変やねえ」
追加した生卵にサービスの梅干も加わり、小鉢二つが前に置かれる。
「いつもすみません」
頭を下げ、彼女の目の前で梅干を頬張る。いつもより酸っぱい。やっと種を口先に押し出していると、お姉さんがお茶を持ってきてくれる。
「梅干、酸っぱかったん違う?」
「いえ、大丈夫です」
種を出しお姉さんの笑顔に答えると、お姉さんは少し真顔になった。
「疲れた時が頑張り時やからね」
隣のテーブルから急須を持ってきてくれる。
「大丈夫です」
酸っぱいままだった口に、お茶を含む。
「そう?そやったらええけど。えらい顔して入ってきはったえ」
「そうですか?」
「そう。そやから、酸っぱい思いさせたろう思うてね」
「え?!」
「“特酸っぱ”の梅干やったんよ。目え覚めたやろう」
お姉さんは笑って店の奥に消えていった。エプロンの結び目が、いつものように縦になっていた。
下宿に戻り、啓子への手紙の下書きを千切り捨てた。僕にはまだ恋文を書く資格はない、と思った。
「グリグリ~~。どうや?」
翌朝、いつもの席に陣取ったとっちゃんは、配達から帰ってきた僕を、後輩を迎える顔で待っていた。
「どうや、って?」
「びしょびしょやないか」
「平気、平気」
「濡らしてへんやろうなあ」
「新聞は濡らしてない!」
大沢さんと桑原君が様子を伺っている。
「グリグリも一人前になったもんや」
とっちゃんは煙を吹き出し、フィルター部分まですっぽり銜えると、タバコを挟んだ人さし指の先を鼻の穴に差し込んだ。しゃくれた顎が居丈高に見える。
「栗塚君。夕べは迷惑やったなあ」
おっちゃんの声に振り向く。
「とっちゃん、部屋に上げてやらんでもええのに。追い返してもらってかまへんのやで」
おっちゃんの表情を横目にしながら、とっちゃんはタバコをふかす。タバコの先から灰が垂れ下がっている。
「いえいえ。別に迷惑では‥‥」
とっちゃんが僕を訪ねてきたことは、もう販売所のみんなに知られているようだ。とっちゃんは、一体何をどんな風に語ったのだろう。
その日、夕刊を配り終わり下宿に戻ると、腹がじくじくと痛み始めた。数日間、朝夕の配達中ずっと梅雨の雨に晒されたからだろうか。全身を乾いたタオルで拭い、素っ裸で夏蒲団にくるまった。
微かな雨音を聞きながら、一時の眠りに落ちる。目覚めると、午後7時半。まだ腹の痛みは消えていない。空腹感はあるが起き上がる気にはなれない。うつ伏せになり、すっかり柔らかくなっているココナッツサブレ4枚をポットの水で飲み下す。100円定食は諦めることにした。
ただただ天井を見つめて過ごす。雨音は強くなっている。市電の窓越しに見た「頑張ってね」と言う啓子の口を何度も思い出す。雨音が、遠ざかっていく市電の音のように聞こえる。
とっちゃんの顔が浮かび上がってくる。しゃくれた顎が、僕を見下している。目は鋭く冷徹に心まで射抜くように光っている‥‥。
腹痛が下腹部へと熱く移動していく。僕の中に巣食いつづけている虫が蠢いているかのようだ。僕の尻からひり出されていく虫の姿を想像する‥‥。下腹部に集まっていた熱が、全 身を巡り始める。次第に頭の芯まで熱に覆われていく……。
「お兄さん!‥‥お兄さん!」
下宿のおばあさんの声に飛び起きた。裸の身体は汗にまみれている。ぬるぬるとした胸を一撫でし、濡れた布団を跳ね上げる。急がねばならない。窓の外はもう明るい。熱も引いたようだ。
爽やかな朝だった。空腹感はない。朝刊を配る足も軽い。僕の中に巣食っていた虫たちは加熱分解され、全身の毛穴から流れ出てしまったのかもしれない。
しかし、さすがに配り終わる頃には、耐え切れないほどの空腹感が断続的に襲ってくるようになった。販売所のおばさんの、お菓子のお盆を差し出す笑顔が浮かんでくる。
オルガンの音が耳に入ってきた。配達エリア最後の筋へと曲がった時だった。
懐かしいメロディだった。小学校高学年の頃耳にした、温かいメロディだった。曲名は思い出せない。空っぽになった身体に心地よく染み込んでくる。
足が止まった。メロディの主が気になった。高く白い塀を、無理と知りつつ背伸びをして覗き込んだ。
美しく剪定された巨大な松の木が目に入ってきた。その枝陰の向こうに、緑の洋館風の高い窓が見える。オルガンのメロディはその窓から流れ出ているらしい。
五角形の木製の外壁は鎧戸風になっていて、南に向いた高い窓の奥には飾り皿の掛かった壁が見える。オルガンは何処にあるのか‥‥。弾いているのは、どんな人か‥‥。
裏木戸が開いた。割烹着の女性が、箒とちり取りを手に出てくる。
「おはようございます」
声が上ずる。
「あ、おはようございます。ご苦労様~~」
少し戸惑った明るい声が返ってくる。僕は再び、走り始める。
繰り返し演奏されているオルガンのメロディが背中に遠のいていく。演奏している少女を思い描く。
真っ白な開襟の長袖シャツの、ギャザーの入った袖口は留められていて、手の甲の半ばから先がオルガンの鍵盤の上をしなやかに左右している‥‥。くすんだ草色のフォークロアのスカートで黒皮のストールに半分腰掛け‥‥。
販売所に戻ると、いつもの光景が待っていた。が、いつもより明るく新鮮に見える。雨が上がったせいばかりではないようだった。
Kakky(柿本)
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