昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

1969年。僕たちの宵山 ―昭和少年漂流記第二章―⑫

2017年02月04日 | 日記

約一週間後、梅雨入りが宣言された翌朝、とっちゃんはこれまでになく苛立っていた。

キスチョコを隠す手付きさえ荒っぽく、これみよがしに掴み取り、ポケットに大げさにねじ込んだかと思うと、わざわざ目の前で1個を取り出し食べてみせた。

“おっさん”との間に何かがあったのか。二人の関係に質変化があったのか。それとも、“おっさん”自身に何らかの変化が起きたのか。

みんなが沈黙する中、一言も発することなくとっちゃんは帰って行った。引き戸を閉める音は、ちょうど帰ってきたカズさんが驚くほど、大きな音だった。

「とっちゃん、どないしてん?」

カズさんの心配に、

「えらい不機嫌で。僕らも何がどうしたのか、全然わからへんのですわ」

大沢さんが僕たちを見回す。

「“おっさん”絡みちゃうかなあ、思うんですけど……」

桑原君の言葉に僕たちは頷く。カズさんの顔が渋く歪む。

「“おっさん”の正体見てみんとあかんなあ」

「調べてみんとなあ」

僕たちは小声で話し合った。カズさんも傍で小さく頷いていた。

 

そんな僕たちの心配をよそに、とっちゃんはふらりとその夜、僕の下宿にやってきた。

ちょうど、雨に濡れたシャツとジーンズをコタツの脚に張った紐に掛け終わった時だった。

「グリグリ~~~~」

大きな声が道路から聞こえてきた。僕は飛び上がった。窓を開けると、自転車にまたがったとっちゃんだった。

「グリグリ、ここやったんや~~」

雨に目をしばたたかせながら見上げる顔がにんまりと笑う。僕は階段を駆け下りる。早く自分の部屋に隔離しなくてはならない。

「なんでわかったんや?」

ゴム草履で飛び出す。雨の中、とっちゃんはタバコを咥えようとする。

「濡れる、濡れる。早う入り!」

僕の自転車の横に自転車を止めさせ、背中を押す。

「ようわかった思わへんか~~?」

声が下宿の玄関に響く。背中を押す手に力が篭る。突き飛ばすように部屋に押し込む。

「狭い部屋やの~~~」

よろけて布団の上にペタリと座り込むと、とっちゃんは、部屋をねめまわすように首を巡らす。部屋の中が重い湿気で満たされていく。

「紅茶飲むか?」

気を取り直し、電気ポットを持ち上げる。開いたままだった日記をひっくり返しながら、

「紅茶飲む?」

と聞くと、

「ええわ」

とあっさり断わられる。

とっちゃんの下から布団を引きずり出して畳む。灰皿を真ん中に置いて、向かい合わせに座る。

とっちゃんが濡れた手で持ったままだったタバコに火を点けようとする。

「どないしたん?」

点かないタバコを取り上げ、自分の一本を差し出しながら尋ねる。

「銭湯行った帰りにな、ちょっと行ってみよう思うてな」

「帰り言うても‥‥」

「そうや。方向反対なんやけどな」

「しかも雨やないか。せっかく銭湯入ったのに……」

「まだ頭乾いてへんかったから、ちょうどええな思うてな」

「ちょうどええ、か?」

「グリグリの部屋、よう知っとったなあ思うてるやろう?」

とっちゃんは、人差し指と中指の間深く挟んだタバコを、音高く引き抜く。タバコの火が僕の鼻先に届きそうだ。

「なんで知ってんの?」

僕は、尻を少し後ろにずらす。とっちゃんは前屈みになる。その顔に、今朝の不機嫌はもうない。

「グリグリの後をな、付いてったんや」

「え!?いつ?」

と訊いた直後、思い出した。5月5日、販売所から出てきたとっちゃんを見かけた、あの時に違いない。下宿へ帰る僕の後を、とっちゃんはそっと追ったのだろう。新聞配達を通じて土地勘が磨かれているとっちゃんのことだ。僕の下宿の所在地は、その時すっかり刷り込まれたに違いない。

「で、何でまた今日急に‥‥」

「それや、それやがな」

とっちゃんの目が光る。タバコを灰皿に揉み消し、僕を下から見上げる。

「“おっさん”が言うてたんやけどな」

とっちゃんの声が低く小さくなる。

僕はその瞬間、“おっさん”はとっちゃんが通う銭湯の知り合いに違いない、と思った。

聞いたばかりの話が刺激的だったのだろう。誰かに話したい。早く話したい。話すべきはグリグリだ‥‥。

「わしら、サクシュされてるんやて。サクシュされるいうのんは、ええことちゃうんやて。ず~~っとしんどい思いせんならんのやて。どない思う?」

ゆっくりと一語一語を思い出すように話しながら、僕のどんな小さな反応も見逃すまいと見つめている。“おっさん”に聞かされた言葉が、心に馴染んでいないのは明らかだ。

「僕はしんどい思いしてへんから、サクシュされてへんのやろうなあ?」

「やっぱりな。そうかあ、グリグリもそうなんや」

とっちゃんの探るような目が緩む。前屈みだった体勢が元に戻される。

「そういうもんらしいで、サクシュいうもんは。気い付かへんようになってるらしいんや。グリグリも、知らへんかったんやもんな。よかったやろう、わしが来て」

とっちゃんは、ゆっくりと次のタバコに火を点ける。いかにも満足げだ。

「僕、サクシュされてんの?」

「そうや。決まってるやないか。……しゃあないわなあ、せやけど。気い付かへんようになってるんやからなあ。‥‥しかし、グリグリもまだまだやなあ」

天井に煙を吹き上げたかと思うと、また僕を見上げる体勢に戻る。今度の表情は明らかに自信に満ちている。

「キバ抜かれんようにせんとあかんねやで。わかってるか、グリグリ~?」

「ジリツせんとあかんねんで、グリグリも」

「欲張ったらあかんのやで。欲いうもんはなあ、な~んもいいことないんやで」

「なんでもええ。好きなもの見つけんとあかんねや、わしら。そやなかったら、なんも始まらへんからな」

「集めて捨てられるやろ?ゴミいうもんは。捨てられるの嫌やったら、ゴミにならんこっちゃ」

「グリグリ、酒はあかんで。大丈夫や思うてるうちに、やられるさかいな」

矢継ぎ早だった。ほとんど口ごもることもなかった。

パラパラとしてつながりのないように思える言葉の一つひとつから、“おっさん”の人生観と現在が透けて見えるようだった。

そんな“おっさん”の言葉を精一杯頭に詰め込み、まず話すべき相手として僕を選んだのは将棋の相手をした効果というものだろうか。喜ばしいことではある。が、間近で話を聞いてみると、飛んでくる唾液の多さに驚かされる。

「水汲んでくる」

耐えきれず立ち上がり、電気ポットを手に取る。襖を勢いよく閉め、階段をゆっくりと下りる。

炊事場では、おばあさんが夕飯の米を研いでいた。土間を挟んだ居間では、宮大工だったというおじいさんが寝転び、テレビを見ている。

通り庭の奥にある洗濯場で蛇口をひねる。電気ポットから水が溢れ出る。その様子をわずかの間ぼんやりと見つめる。と突然、とっちゃんを一人で部屋に置いてきたことが気になり始めた。急いでおばあさんの後ろをすり抜け二階に上がった。

「グリグリ、机あるんやなあ」

襖を開けると、とっちゃんが首を伸ばし机の上を覗いている。その動きが、いかにも怪しい。後ろに何か隠しているようだ。

「とっちゃん、机ないの?」

「そんなもん、あるわけないやないか」

「勉強せえへんからやろう?」

「机あったらするがな」

後ろに隠していたものが目に入る。やっぱりだ!日記だ!嫌な予感は当たったようだ。しかし、不在の時間は短い。読まれたとしてもごくわずかだろう。

「おばはん怒るし、帰るわ~~」

電気ポットの電源を入れると、とっちゃんは突然立ち上がった。

「紅茶は?」

「ええて」

あっけなく帰っていく。

窓からとっちゃんの自転車が路地を曲がって行くのを見届け、急いで日記を開く。開いたまま伏せておいた箇所が怪しい。案の定、タバコの灰が挟まっている。啓子への手紙を下書きした部分だ。啓子まで穢されたような気分だ。窓から日記を出し、何度もはたく。

紅茶を淹れ、久しぶりに机に着く。とっちゃんが読んだと思われる箇所を読み始める。空虚で独りよがりな言葉の羅列に、読み続けることができない。顔が赤くなっていくのを感じる。とっちゃんから聞かされた“おっさん”の言葉の率直な力強さには遠く及ばない。とっちゃんに恥部を覗かれた思いだ。

紅茶を一口含んで、しかし、僕はふと気付く。実は僕は、啓子に対し恥部を晒し、押し付け、一人悦に入っていたんじゃないか。まるで自慰行為でもするかのように……。

日記を閉じ、もう一度開く。冒頭の“自立なくして自律なし!”という言葉の部分を引きちぎる。新しいページに、“自律なくして自立なし!”と書き直す。そして、数行空けて“恋もなし!”と書き加えた。

                 Kakky(柿本洋一)

  *Kakkyのブログは、こちら→Kakky、Kapparと佐助のブログ


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