その日の夕方、配達から帰ってきた販売所には、ただならない空気が漂っていた。
販売所の引き戸を開けると、いつもの場所に陣取ったとっちゃんはタバコも咥えず、カウンターの方を好奇心一杯の表情で見ている。階段下に腰掛けた大沢さんと桑原君の顔つきも、いつもになく険しい。
“ただいま”の言葉を飲み込み、そっと階段下の桑原君の横に座る。
「新入りなんやけど、ちょっとな‥‥」
桑原君が僕に囁く。
「はっきりしいな!」
突然、おっちゃんの声が響く。
おっちゃんの真向かい、カウンターの手前にジャケット姿の若い男が佇んでいる。その右には小さなボストンバッグが置かれている。踵をきれいに合わせた革靴は泥汚れが目立つ。
「家出ちゃうやろな、言うてるんや。わかるか?家出はあかんで。ちょっと事情が、言うんやったら、それを教えといてもらわんとな。何かあったら困るさかいな」
住み込みの配達員にお金を盗まれたことや乱暴を受けたこともあるというおっちゃんの嗅覚は鋭い。この男問題あり、と見ているようだ。
男が振り向く。僕たち4人の好奇の視線を一斉に浴びる。一瞬こわばらせたその表情は、しかし、素朴な青年を思わせるものだった。彼は、意を決したようにおっちゃんに向き直る。
「自衛隊にいました!」
張りのある、大きな声だった。
「なんや。なんで、それ早う言わへんの。立派なもんやないか。なあ」
おっちゃんは安心の声を上げ、僕たちに笑顔を見せる。
「でも‥‥」
後に続いたか細い一声に、おっちゃんの眉が再び曇る。僕たちにも緊張が走る。シュボっとタバコに火を点ける音が頭の上でする。
「なんや。どないした?」
「逃げてきたんです」
「へ??!」
素っ頓狂な声を上げ、おっちゃんは少しのけぞる。
「自衛隊から逃げてきたってかい?」
下から上へ上から下へとねめまわす“おっちゃん”の目に、男は首の後ろで曲がっていたジャケットの襟を直す。
「山下君やて」
桑原君が、耳打ちする。
「何があったんやろうなあ」
大沢さんがポツリと言う。とっちゃんが吹き出すタバコの煙がひと際多い。
「逃げた、というか、まあ、あの~~、正式に除隊したわけじゃなくて……」
山下君の説明は、聞き取れないほど小さくなっていく。
「もっと、ちゃんと言うてくれへんかなあ」
おっちゃんに求められ、山下君はたどたどしく、しかし明瞭に語り始める。経験豊富なおっちゃんの巧みな誘導で、話は身の上にまで遡っていく。
岐阜県出身の山下君は、19歳。高校を出てすぐ、自衛隊に入隊。半年を過ぎる頃には、最初は戸惑っていた厳しい訓練や演習にもついていけるようになった。仲間もできたような気がした。
ところが、天皇パチンコ襲撃事件で明けた翌1969年。東大安田講堂事件が機動隊の学生排除によって終了した頃から、身辺が少しずつ騒々しくなっていく。山下君は、よく訳もわからないまま、日々の小さな議論の渦に巻き込まれるようになった。
5月に入った頃、同期の一人がこっそり耳打ちしてきた。
「今度の休み、新宿西口広場に行ってくる。内緒だぞ」
危険な匂いのする秘密を共有させられた感じだった。嫌なことが起きそうな気がした。
その彼はほどなく除隊し、一旦は胸を撫で下ろすことになるのだが、確実に何かが起きている、しかも、そのことと無縁でいることはできない、と山下君は思い始めていた。
山下君は、自分を巻き込みつつある渦の正体を知りたいと思った。まずはよく耳にする“資本論”という本を読んでみようと思った。“資本論”は隊内の図書館にあった。借り出して一晩横に置いた。何度もページをめくってみた。が、読み進むことはできなかった。誰が何のために読む本なのか、見当もつかなかった。翌日午後、返却した。
次の日の夕方、教官の部屋に呼ばれた。呼び出されるのは初めてだった。高校時代のことをあれこれしつこく訊かれた。友人関係については、細かくメモを取られた。
「“資本論”を読もうと思ったきっかけは?読んでみてどうだった?」
終始笑顔を絶やすことのない教官にそう訊かれ、山下君は突然怖くなった。誰にも気づかれないまま、誰も知らない場所に追い詰められていくような感じがした。
次の日も呼び出された。その瞬間、山下君は決心した。“逃げよう!”。その夜、脱走した。岐阜に戻ろうかとも思ったが、両親のことを思うとできなかった。
そのまま京都まで来てしまった。市の中心部をふらふらと北上し、北山通りまでやって来た……。
聞き終わったおっちゃんは、柔和な顔に戻っていた。
「しかし、このままにはでけへんやろう?住み込みで働いてもらうのはかまへんけど……。わしが、連絡したろうか?お父さん、お母さん元気にしてはるんやろ?」
おっちゃんは、身を乗り出し優しく言った。山下君の肩が突然揺れ始めた。緊張が解けたのか、両親のことを思ってか、泣いているようだ。
その後ろ姿を見て、突然桑原君は怒りを顕わにする。
「“資本論”は思想チェックの踏み絵かいな!酷いことするなあ」
カウンターでは、おっちゃんが山下君から実家の電話番号を聞きだし、連絡を取っている。
僕たちは耳をそばだてたが、電話はあっけなく終わった。既に自衛隊から実家に連絡が入っていて、山下君の両親が自衛隊への謝罪は済ませているようだった。
電話に出るようおっちゃんが勧めたが、山下君は首を横に振るばかり。
「山下君。……あんた、どないする?家に帰るか?お金なら貸したるで。な!それがええんちゃうか?」
電話を切ったおっちゃんが、山下君を覗き込む。山下君はしゃくりあげ始める。
「お母さん、“帰らせてください”言うてはったで」
おっちゃんのその言葉に、山下君は遂に声を上げて泣き始める。
それまで無言で見守っていた大沢さんが溜め息を漏らす。
「帰れんやろなあ。帰られへんわなあ」
僕と桑原君はその言葉に同意する。
「そうですね」「そうやなあ」
すると、
「気い弱そうやしなあ」
と言葉を残し、大沢さんは二階へ上がっていく
おっちゃんはもう一度電話のダイヤルを回している。
「お母ちゃんが“帰ってこい”言うてはるんやったら、帰ったらええがな」
「泣いたらあかんで、男が。情けないなあ。わし、泣いたことないで、ほんまに」
おっちゃんが山下君の実家と電話で話している間中、とっちゃんは、ぼそぼそと不満を漏らし続ける。
「“しばらく責任持って預かるから、安心してください”言うといたけど。ほんま、それでええんやろなあ。自分で決めんとあかんで。帰るか?それとも、新聞配ってみるか?」
おっちゃんは、本人が望めば住み込ませてやろうと決めたようだ。
おっちゃんはこうして、これまでも多くの漂流青年に一時しのぎの職と住まいを提供してきたのだろう。
「お、お願いします‥‥」
山下君の声が、か細く震える。踵はまたきちんと合わされている。
「え!?なんやて?聞こえへんなあ‥‥」
「新聞配達をさせてください!」
震えた声が大きくなる。俯いていた顔も真っ直ぐおっちゃんに向けられている。
「よっしゃ!わかった!ほな、ついといで」
カウンターからさっと出てくると、おっちゃんは階段下の僕たちを押しのける。
「しかし、わしのズボンは無理やろうなあ」
洋服のサイズを測る目で山下君を振り向く。
「そら無理やで。おっちゃん脚短いやんか」
とっちゃんはタバコを消してそう言い、慌てて立ち上がる。
「さ、早うおいで」
おっちゃんに促され、山下君の両足をハンカチで拭く作業が速まる。
「失礼いたします」
足を拭き終わると山下君は、身を屈めて僕たちの間をすり抜けざま敬礼をして、二階へと上がっていった。
こうして山下君は、正式な住み込みの配達員となった。部屋は桑原君の部屋の隣。配達区域としては、負担の増えているカズさん担当エリアの一部を引き継ぐこととなった。
Kakky(柿本洋一)
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