昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

1969年。僕たちの宵山 ―昭和少年漂流記第二章―⑮

2017年02月14日 | 日記

翌日から、販売所の朝は一変した。山下君が帰ってくるまではお菓子が出てこないこともあって、とっちゃんから僕たちに様々な質問が浴びせられるようになった。

質問の中心は山下君だった。山下君の口から出てきた言葉の多くが、とっちゃんにとって未知のものだったからだ。

「しかし、なんやあれ?グリグリ~~~、ほれ!ほれ!あれや。シ、シ、シ‥‥」

「新宿?資本論?」

「その後のほうや。あれ、なんや?ほれ、ヤマ、ヤマ‥‥が言うてたやろう」

とっちゃんは山下君をどう呼ぶか決めかねているらしい。その分、歯切れが悪い。

「本の名前や」

「踏み絵やったんやもんなあ。えげつない話やで」

桑原君が解説を加え、話をややこしくする。

「なんやそれ?フミエって?近所のおばあちゃんにおるで」

「試されたっちゅうことや」

「まあやってみんかい?いうことやな。‥‥おばあちゃんが言うたんか?年寄りの言いそうなことやで。すぐ“まあやってみなはれ?”言うもんなあ。おっちゃんかてそうや」

「踏み絵いうのはなあ‥‥」

きちんとした説明を試みようとする桑原君を大沢さんが止める。

「とっちゃんの言うこと、あながち間違いとも言えへんで、桑原君。大雑把に言うとそういうことやからなあ」

大沢さんの擁護に気をよくしたとっちゃんは、そこで一服しようとする。が、火をつけようとして思い出す。

「本はどないしとんねん?その‥シ、シ、シ‥‥」

そうして話は戻るのだが、説明は困難を極めた。何しろ僕などは、“資本論”を手にしたことさえなかったのだから。

しかし、桑原君は懸命に説明に取り組んだ。

とっちゃんは、「へえ」「そうかあ」などと相槌を打ちながら耳を傾けていたが、「な!そういうことや」と桑原君が念を押すように言うと、決まって「なんで?なんで、そういうことなんや?」と、話を元に戻してしまうのだった。

それでも、いくつかの言葉の説明をなんとなくクリアした桑原君だったが、“踏み絵”の話にはてこずった。

「なんで?踏んだらええやんか。絵やろ?踏んだらええやん」

とっちゃんはそう言い張って聞かず、踏んではならない理由がどうしても伝わらない。

「そうやなあ。踏んだらええんやけどな…‥」

遂には諦め、熱意の冷めた桑原君は二階へと消えていくことになるのだった。

途端にとっちゃんは、ターゲットを僕に切り替え、また踏み絵の話を持ち出す。将棋の定石のように繰り返されるその流れに何度も飲み込まれた挙句、やっと僕は逃れる方法を見つけた。

「そうや、とっちゃん。“おっさん”に訊いてみたらどうや?僕なんかに訊くより、ずっとええんちゃう?」

そう提案したのだ。口にしてみると、実際にその方がいいように思えた。大沢さんも、にっこりと大きく頷いている。

「グリグリ~~~。ええこと言うやないか。そうやで。そうや。そうするわ」

とっちゃんは意外なほどあっさりと同意した。

 

2日後、山下君が配達から帰ってくるのを今か今かと待ち構え、帰って来るや否や勢い込んでとっちゃんは話し始めた。

「ヤバヤバ~~。“おっさん”に聞いてきたで。“踏み絵なんか踏んだらええがな”言うてたで、“おっさん”も」

とっちゃんの山下君を待ちかねている様子に、“おっさん”に何か聞かされてきたな、と僕たちも思ってはいたが、さすがにこのいきなりの展開には泡を食った。

「ただいま~~」と言おうとした口のまま立ちすくむ山下君に声を掛けるタイミングも見つからず、大沢さんと桑原君は立ち上がりかけたまま固まっている。僕は、とっちゃんに“おっさん”に聞いてみるよう促したことを痛いほど悔やんでいた。

そんな僕たちを目にして、しかし、とっちゃんは鼻高々になっていく。

「“おっさん”言うてたで、台風の時、お世話になってるんやてなあ、自衛隊さん」

「ほんでな、自衛隊もアメリカさんの都合なんやてなあ」

「朝鮮で戦争になったからや、言うてたで、“おっさん”」

「わしら、カタナガリされたんやてなあ」

「“とっちゃんも一回でええから、自衛隊入ってきたらええんや”て“おっさん”言うんやけど、ヤバヤバみたいになるのも嫌やしなあ」

ここでやっと、とっちゃんはタバコに火を点けた。

聞き入っていた僕たちもひと息つく。しかし、一服すると、とっちゃんはすぐにまた話し始める。

「“おっさん”言うてたけど、本なんか読まんでええらしいわ」

「うれしい時に泣くのはええことや、言うてたで。わし泣いたことないからわからへんけどな」

「しょうもないとこなんやてなあ、新宿いうとこは」

「逃げるのは悪いことやないんやて。な!ヤバヤバ。ええんやで!」

「無理はせんことや。言うてたで、“おっさん”」

「船いうもんは港持たんとあかんねんて。沈没したらしょうもないしなあ、言うてたで」

「やり直したらええがな。やり直せるうちが花やないか。言うてたで。な、ヤバヤバ。ええんやで」

 “ヤバヤバ”と呼ばれることに決まったらしい山下君に、話題は集中している。山下君が販売所にやって来た経緯は、とっちゃんのみならず“おっさん”の好奇心も大いに刺激したようだ。

「あかん、あかん。おばはん怒ってるわ」

とっちゃんはその朝のために用意しておいた話が終わると、壁の時計に目をやり、僕たち四人には一瞥もせず、大急ぎで帰って行った。

翌朝も“おっさん”の話は続いた。が、僕たちの期待をよそに、ほとんどは前日の繰り返し。中には微妙な変化を見せたものもあったが、それはとっちゃんの記憶が怪しくなっているに過ぎないものだとすぐにわかり、僕たちをがっかりさせただけだった。そんな僕たちの反応を目にして、とっちゃんも話を早めに切り上げた。

心なしか肩を落として帰って行くとっちゃんを見送った直後、

「“おっさん”に会ってみたいなあ」

と桑原君が呟いた。

「そうやねえ。“おっさん”、興味深い人やね」

大沢さんもそう言う。僕と山下君は、大きく頷いた。

「カズさんが言うてたように、“おっさん”はとっちゃんの銭湯友達なんやろか?」

「確かにそう聞いたけど…」

「毎日は会ってへんなあ。三日に一度くらいやろか」

「“おっさん”知りたかったら、とっちゃんと一緒に銭湯行ってみることやね」

僕たち三人は、とっちゃんを誘って銭湯に行くことに決めた。とっちゃんの一方的な話に疲れ切った山下君は、自室に引っ込んでしまい、僕たちの話に参加していなかった。

                   Kakky(柿本洋一)

  *Kakkyのブログは、こちら→Kakky、Kapparと佐助のブログ


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