7月17日がやってきた。
とっちゃんは配達の出発を後らせ、僕が販売所に到着するのを待っていた。初めてのことだった。すこぶる上機嫌だった。
「グリグリ~~、おはよう。ええ天気やなあ。宵山日和やで~~~」
声がひと際甲高い。
「じゃ、行ってくるわ~~。グリグリも頑張るんやで~~」
自転車の軋む音が勢いよく遠ざかっていく。
「とっちゃん、張り切ってんなあ」
カウンターの陰から顔を上げたおっちゃんの声も明るい。
「楽しみみたいやなあ、宵山」
その声に振り向くと、階段から降りてくる桑原君が微笑んでいる。桑原君の後ろには、大沢さんの姿もある。カズさんと一緒にいち早く配達に出て行かなければならない山下君以外は、みんないつもの朝よりも遅い。
「宵山、楽しみやなあ」
桑原君が肩を叩く。
「ま、気楽に行ってきたらええがな」
おっちゃんは、奥に消えていく。
「行ってきま~す!」
三人ほぼ同時に、販売所を出る。
爽やかな朝だった。空には高く小さな綿雲が一つ、暑い夜になることを約束するように浮かんでいる。
配り始めてしばらくすると、もう汗が吹き出てきた。“オルガンの少女”のメロディが、今朝は聞こえてこない。少女も宵山を心待ちにしているのだろうか。
「グリグリ~~~。お疲れさ~~ん。……まあまあ、お茶でも飲みいな。お菓子、どうや?」
帰ってくると、とっちゃんの声が迎える。陽気さが増している。気前よくお盆を持ち上げ差し出してくる。もちろん、もうキスチョコはない。
お菓子に手を延ばし湯呑に口先を近づける。一瞬の隙を突くように、質問攻撃が始まる。
「何時ごろやろ~?宵山始まんの」
「わし、何着てったらええ?なあ、グリグリ~~~」
「昼飯食ってから行くんか?」
「人いっぱいやろうなあ。電車通ってるんやろか?なあ、グリグリ~~」
「なあなあ、いつ行く~~~?」………。
おっちゃんを目で探す。僕だって、初めての祇園祭宵山。事情など知る由もない。ましてや、服装のアドバイスまで求められても……。
「とっちゃん!何をやいのやいの言うてるんや。一番ええもん着て、人に迷惑かけんようにするこっちゃ」
カウンターから顔を出したおっちゃんが、助け舟を出してくれる。
「夕刊終わったら出発しようか」
「ええでえ」
「ここから行くことにするか?」
「どっかで待たされるの、わし、嫌やで」
「だから、ここから一緒やったらええやろ?」
「ええ、ええ。それやったらええわ」
とっちゃんの声が上ずる。笑顔が顔一杯に広がる。
「栗塚君、頼むで~~」
おっちゃんの言葉が飛んでくる。
乗りかかった船だ。もはや、見事に乗りおおせてみせるしかない。
「ほな、待ってるで~~」
とっちゃんに押し出されるように、販売所を後にする。自転車を飛ばす。途中、植物園の脇で振り向き、とっちゃんの姿が見えないのを確認して、自転車を降りる。
見上げると陽は高く、空はあくまでも青い。綿雲は、もう消えている。賀茂川の堤防を、自転車を押して帰ることにする。一歩毎に、宵山に行きたくなくなる。
下宿に帰り天井の木目を漫然と見つめている間に、眠りに落ちた。空腹に目覚めると、午後3時半を回っている。販売所へ急がねばならない。ジーンズとチェックの半袖シャツを自転車の籠に突っ込み、洗いたてのスニーカーを荷台のゴムに挟んで、自転車を飛ばした。
着替えを販売所に預け夕刊配達に出ると、真夏の日差しが照りつけていた。配達エリアのお屋敷の何軒かでは、お手伝いさんと思しき女性が庭や玄関先に水を打っている。生温かく立ち昇る土埃の匂いの中を走り抜ける。いつもより端正なメロディが洋館の高い窓から流れてくる。足を止め、一瞬耳を澄ませる。
「こんにちは~~。いつも、ご苦労さん~~」
洋館のお手伝いさんの挨拶もいつもとは違う。初めて正面から顔を合わせてみると、意外と若い。僕と同年代か。
「こんにちは~」
荒い息のまま頭を下げる。顎と眉から汗が滴る。
「祇園さん日和やね~~」
お手伝いさんが涼やかに微笑む。汗まみれの自分が気恥ずかしい。打ち水で濡れた道を、走り抜ける。“祇園さん”という言葉が、頭の中で心地よく響き続ける。
「お!気合入ってるんちゃうか~~。えらい早いやんか」
販売所に帰るやいなや、おっちゃんの陽気な声がした。
階段には、とっちゃんの足先が見える。いつもより上、最上段に座っている。僕が階段に着替えを置いたせいだろう。
「お帰り~~」
とっちゃんの声に見上げると、階段の上に立ち上がったその恰好は、着替えたとは思えないほどいつも通りだ。
「とっちゃん、着替え持ってきた?」
「え?!これやったら、あかんか?」
意外そうに首を傾げる。
「う~~ん」
判定するように足元から胸元まで見上げる。
どうしたものかと考えていると、おばちゃんが顔を出してきた。
「お風呂、入って行き~。用意してあるし。とっちゃんは、もう入ったんやで」
おばちゃんもどこか溌剌として見える。
「ありがとうございます。そうさせてもら……」
お礼を言う間もなく、
「着替え持って行ったげるから、早う行き」
僕の着替えは、さっさとおばちゃんに運ばれていった。
「そこ、通って行き。廊下の突き当り、左やからな」
おっちゃんの指示通り、カウンター脇から事務所へ、事務所から居間へ、居間から廊下へ、と抜けて行く。途中まで一緒に来たおっちゃんが、小声で言う。
「とっちゃんの格好、勘弁したって、な」
「わかりました」
と、風呂場へ向かう。
初めて見るおっちゃんとおばちゃんの居間は、想像していたより狭い。左奥に台所が見える、正面は襖で塞がれている。右に開いたガラス戸を抜けて廊下へ。廊下を左に行くと、よく手入れされた広い庭に向かって開かれた外廊下に出る。すぐ右手に二階へと続く階段。左正面にトイレの入り口が見え、その手前左に浴室の入り口と思しきドアが開いている。
廊下を風呂場へ向かう。途中には開け放たれた障子。吊られたままの蚊帳が見える。蚊帳の中には、寝乱れた布団。おっちゃんとおばちゃんの寝室らしい。
“夜中にトイレ行くの、気い使うでえ”と言っていた桑原君の、苦笑いの意味が分かったような気がする。
蚊帳と布団から目を避け、正面を向いたまま浴室に急ぐ。
「こっちやで」
おばちゃんの声が聞こえ、注いで顔と手が開いたドアの陰から覗く。その手には畳んだタオル。タオルを受け取り、浴室に入るとすぐに脱衣場。その向こう、引き戸の奥が風呂らしい。足元の脱衣籠には、僕のジーンズの上に真っ白なブリーフが置いてある。
「下着、おっちゃんのやけど、使うてな」
もじもじとしている僕にそう言い残し、おばちゃんは出て行く。
「ありがとうございます」
おばちゃんが出て行ったドアを閉める。内側からかける鍵がない。
湯船に入らずお湯をかぶり、急いで身体を洗う。
「石鹸、あったか?」
おばちゃんが声もかけずに引き戸を開ける。
ちょうどお湯を頭から被ったばかり。顔を流れ落ちるお湯の隙間から応えようとするが、声にならない。
絞ったタオルで頭を拭いていると、また引き戸の開く音。
「あんた、カルピス嫌いやない?そうか~。好きか~~。入れといたげるから、な」
長い台詞と好奇に光る眼に、僕は思わずタオルで身体を隠す。
急いで着替え、カルピスを一息に飲み、カウンターまで戻る。と、とっちゃんが待ちかねたように大きな声を上げて立ち上がった。
「さ!行こうか~~~」
雄叫びを上げ、駆け下りてくる。
「まあまあ、焦らんかてええやないか」
二階の奥から声がする。桑原君のようだが……。
「みんなで行こう、ゆうことになってな」
大沢さんを先頭に、桑原君、山下君が階段を下りてくる。
「それもええやないか。なあ、グリグリ。さ、行くで~~」
とっちゃんが先頭になり、僕たちは販売所を出て行く。
「行っといで~~。気いつけてな~~」
おじちゃんの見送りの言葉を後ろに、僕たちは初めての宵山に向かった。
Kakky(柿本洋一)
*Kakkyのブログは、こちら→Kakky、Kapparと佐助のブログ
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