昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第一章:親父への旅   親父の元へ、再び。 ③

2010年10月02日 | 日記
廊下から食器がぶつかる音が聞こえてくる。昼食の準備が始まったようだ。病院の一日は、淡々と規則正しく進んでいく。
僕はふと、方針変更をする。“今夜はホテルに泊まろう”と思う。
端座し腕組みをしている親父に「お昼ごはんの準備が始まったから、そろそろ出かけてくるね」と声を掛ける。
「そうか。チェックインしてくるか」。親父の中に予定変更はない。
「うん。昼飯も食べてくるね」
「そうせえ。それで…」
「4時までには、ね。今度は遅れないから、ね」と、ポーチを手にする。

医師会病院入り口のバス停には、男女6~7名の老人がベンチに腰掛け、バスを待っていた。会話の内容まではわからないが、笑い声が漏れてくる。その距離感に老人たちが知り合いではないことがわかる。が、穏やかで親密な空気がベンチの周りを覆っている。
茶髪の青年が病院から出てくると、その空気のお裾分けが始まる。
「まあ、座りんちゃいや」。おばあちゃんが声を掛けると、「そう、そう」とおじいちゃんが動き、それを機に、すすっと一人分の席が空く。
バス停脇の灰皿の傍らに立ったままタバコを吸っていた僕の方に、青年に声を掛けたおばあちゃんの目が届く。タバコが終わりそうなのを見計らい、「あんたも、ほら」と手招きされる。また、一人分の席が空く。バス停のベンチの上に、肩を寄せ合った老人の塊が出来上がる。
青年と僕は目を合わせ、ほとんど同時に「どうも」と言いながら、ベンチの端ぎりぎりに腰を掛ける。「ちゃんと、ほら。大丈夫じゃけえ」と、老人の塊はまた一つ小さくなる。
僕はタクシー利用を選ばなかったことに満足しつつ、病院の外と内にいる老人を想う。
ここに住むこと。ここで生命に関わる施術を受けること。そしてまた、ここで生きていくこと。それは親父にとって、僕が傍らにいるということよりも、今バスを待っている人たちと関わり続けていくことができるという一点において、はるかに幸せなことなのだろう。
老いるという必然に抗うことはできない。だから、上手に老いていかなくてはならない、と人は言う。しかし、問題なのはむしろ、老いてもなお生き続けていかなくてはならない、ということなのではないか……。
バス到着。譲り合いながら、ゆるゆると老人たちはバスに乗り込んでいく。僕は、最初に「まあまあ」と乗せられた青年を見送り、老人たちの譲り合いから一歩下がり、最後に乗り込む。バスの中には、ベンチを覆っていた空気がそのまま持ち込まれる。穏やかだ。
駅までの道は対向車のほとんどない狭い道。緑と人家の軒先をかすめ、バスは運転手の若さそのままのスピードで駆けていく。老人たちの会話が、少しトーンダウンする。
途中のバス停に人影はない。やがて市街地に入ったあたりから、挨拶を交わしては少しずつ乗客が降りていく。
僕は揺れながら、窓外の景色と車内の老人たちを交互に眺め、10代の僕になる。
懐かしく、悔しい思いに駆られる。戻りたいとは思わないが、残したままのものの多さを今更のように想う。

60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと等あれこれ日記)

コメントを投稿