昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第一章:親父への旅   親父の元へ、再び。 ④

2010年10月03日 | 日記
駅に着く。同じホテルに電話。覚えてくれていたので、すぐにチェックイン。奇しくも、前回と同じ部屋の鍵を受け取る。
ポーチをベッドに投げ、早い昼食へ。ホテルの隣、前回と同じ店へ。注文したのは、“鍋焼きうどん定食”。あっさり関西風、具だくさんの鍋焼きうどん。煮物、酢の物、お新香、ご飯のセット。注文時には高いかな?と思った1300円も、納得だ。ゆっくりと食べ、お茶のお替わりまでして店を出る。
見上げると曇り空。涼しい風が頬を撫でる。雨が来るのか…。
携帯のバッテリー切れを気遣い、公衆電話から事務所に連絡。プレゼンテーションの準備に不備がなかったかを確認する。
まだ1時半にもなっていない。まだ時間はある。斜め前方のパチンコ屋の看板が目に留まるが、さすがに行こうという気にはならない。
早めに行こうと決め、向かいのバス待合所へ。明朝のために、医師会病院行きのバスの時間を確認。名刺の裏にメモする。
10分ほどでやってきたバスに乗る。すぐに、親父が頭を支配し始める。手術の心配は微塵も浮かばない。むしろ気になるのは、術後の暮らし。身体にメスを入れ、回復に手間取るであろう体力で、一人暮らしは可能なのだろうか。多くの人たちの支えがあるしても、日常を共有できるわけではない。微細な親父の体調の変化に何らかの異変の予兆を感じ取ることまで期待するのは贅沢というものだろう。
しかも親父の矜持の精神は、痛みを伴う異変でさえ口にすることを潔しとしないはず。僕との同居など、言わずもがなである。一体僕は、親父の残りの人生にどう関わっていけばいいのだろう……。どんな関わり方があるのだろう……。
考えるともなく考え、想うばかりの時間は瞬く間に過ぎ、病院に到着。バスを降りると、風が強さを増している。雨になるのを辛うじて踏み留まっている空……。僕は小さく身震いして、病室へと向かった。

「早かったのお」。ベッドで胡坐の親父が、意外そうに微笑む。「今日はパチンコせんかったんかい」
「うん。また一杯出たら大変だからね」
「そりゃ、その方がええけどのお」
「時間に遅れるじゃない」
「まあのお、いつも出るわけじゃないしの」
他愛もない言葉が途切れると、親父が急に声を潜める。「タバコでも吸ってくるか?」。同室者と僕への気遣いか。
「そうしようかなあ。親父も行く?」。とっくに禁煙に成功している親父だが、病室で胡坐を掻いているよりも、と誘ってみる。親父は黙ったままベッドを降りる。
大勢の人が行き交う午後の病院の廊下を、二人で歩く。
「仕事の方は?大丈夫なんかい?」。親父がまっすぐ前を見たまま訊いてくる。
「うん。大丈夫。段取りしてきたから」と応え、こちらからも何かを問いかけようとするが、何も浮かんでこない。
休憩室には、長椅子2脚に数人の老人。静謐な空気が支配する中、離れたテレビの音だけが無機質に響いている。
親父と僕が視界に入った老人たちが、無言のまま2人分の席を空けようとする。僕は片手で固辞の意志表示をしながら、顔で親父に座るように勧め、会釈をしながら灰皿に近づく。
「息子です」。親父が突然、紹介を始める。
点けたばかりのタバコの、最初の煙を天井に向けて吐き出しながら、「息子です。いつも、お世話になっています」と挨拶し、タバコを揉み消す。
「帰って来んちゃったんかね。そりゃあ、よかったねえ」。老人の一人が、僕、親父と順に見ながら、微笑む。全員が、頷く。
“帰って来んちゃった”が意味しているのはひょっとして、一時帰郷ではないのでは?と思う。そう思うからか、“よかったねえ”がチクリと刺さったままだ。

60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと等あれこれ日記)

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