昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

風に揺れる蛹 ①

2017年05月25日 | 日記

細かな気泡が鼻先から浮き上がっていく。見開いた目に映っていた緑一色の光景はもはや暗転している。

記憶や予感のすべては、頭の中心の一点に吸い込まれ、痺れた意識が温かく全身を浸している。

足の裏が突然、ぬめりとした固形物に触れた。指先に力を込める。落ちる身体の重さに曲がった膝をバネに蹴り上がる。一気に身体は浮上へと向かう。

半開きの口から、一塊の空気が目の前を立ち昇っていく。黒い光景が緑へ、そして青へと色を変えていく。

一点に集約されていた記憶や予感が拡散していき、痺れる心地よさを頭から押し出していく。苦しい。

手足は動きを止めている。が、浮揚のスピードは速まり、上げた目に遠い水面が近づいている。遠く白く強く輝いていた点は円になり、ゆらめき始めている。

胸に残っていた空気をひと息で吐き出す。吐き出された空気の玉を追う。間に合う、と確信する。両手をゆらめく太陽へと伸ばす。手がかりはない。が、

次の瞬間、指先が水面を突き破る。水面を左右に押し広げ、顔を突き出す。解放された顔全体に陽が熱い。肺一杯に空気を取り入れようとする。が、押し広げた水面が閉じる勢いに襲われ、水を飲み込む。

再び身体が落ち始める。だめだ!もう胸には1ccも空気は残っていない……。

 

その朝、水に溺れあえぐ夢から目覚めた。夜明け間もない頃だった。大きく口を開け空気を取り込むと、喉の奥の乾きに火が付いた。生唾が絡みつく。

けだるい身体を起こす。ソファがねとついている。全身汗まみれだ。ジャージも下着もすべて脱ぎ捨てているらしい。

ぬるりとソファから立ち上がり、キッチンへ向かう。バーボンの匂いが鼻を突く。

廊下に音がする。壁の時計を見上げると、午前6時。義母の起床時間か。

シンクの蛇口から水を飲み、頭から水を浴びる。こめかみから頬へ流れる水流が鼻へ、口へと流れ込む。水を止め、頭を振る。水滴が背を流れ、飛び散る。手探りで見つけたタオル掛けからタオルを引き抜き、頭と上半身を拭く。そのまま腿、脛、指先を拭い、濡れた床に手にしたタオルを伸ばす。と、眩暈が襲った。

 

「繁さん。………繁さん!」

遠くから名前を呼ぶ声が近づき、耳元で大音量になる。頭を上げると、人影が小さく飛びのいた。

「大丈夫?」

義母ミツルの声だった。頭を戻す時、全裸の自分の身体が目に入った。くの字になっている。

手にしたままだったタオルで股間を隠し、跳ね起きようとする。しかし、辛うじて上半身を起こしただけで、また倒れこんだ。深酒のせいだ、と思った。

「ひとみ~~~!」

義母の悲鳴が耳を突き刺す。“大丈夫ですから”と言ったつもりだが、言葉になっていない。

「ひとみ~~~。早く~~~!」

義母の甲高い声が頭の奥深く突き刺さる。脳が共鳴し震える。吐き気が襲ってくる。我慢できない。

「繁さん!大丈夫?」

義母の手が頭を支えようと、下になった頬に伸びてくる。まずいぞ、と思った瞬間、その手の上に嘔吐した。止まらない。固形物が混ざっているのが不思議だ。何か食べたっけ?

ひとみが寝室から飛び出す音がする。床から振動が伝わる。一旦止まった吐き気が蘇る。もう躊躇はない。義母の手に頬を押し付け、激しく嘔吐する。掌の容量を超えたゲロに頬が沈み込んでいく。今日は溺れる日なんだ!

「お母さん!動かしちゃダメ!脳かもしれないから」

「動かしてないわよ。吐きそうだったからさ。汚さないようにと思ってさ」

「今、救急車呼ぶから!動かしちゃダメだからね」

ひとみの声が大きくなる。

この焦りようだと、ホームテレホンの子機ではなくスマホを手にするだろう。そしてきっと充電器につないでいることを忘れて引っ張り、辺りの物をバラバラと落とすに違いない。

ゲロが呼吸の邪魔になっている。少しでもこぼすまいと微妙に曲げた義母の指先に、鼻まで塞がれそうだ。

幸い、吐き気は小休止状態。脳の震えも収まっている。動けそうだ。

ぶふぅ!胸のなけなしの空気を吹き出し、口元のゲロを飛ばす。

「ふぇ~」

奇怪な声を発し、義母が尻もちを突く。頬の下から抜き出された手から吐瀉物が顔に飛んでくる。

「きゃっ」

叫ぶひとみの声に、

「動いたわよ~~」

と義母の声がかぶさる。

「大丈夫なのかしら?」

「救急車やめておく?」

「この格好で運ばれてくっていうのもねえ」

「いいんじゃないの?恥かくのは本人だし」

「何言ってんの、お母さん。この時間に救急車よ。下の方の方にはサイレン聞こえるし、上の方は……。そう言えば担架で運べるのかしら?」

「そうねえ。……でも、エレベーターに乗るのかしらねえ」

「あ!テレビで見たことある。奥にもう一つドアがあってね、そこを開けて……」

“何を呑気なこと言ってやがるんだ!脳出血や脳梗塞だったらどうする気だ!”と叫んでみたいところだが、おかしくてたまらない。

「上の方の人、まだご出勤じゃないわよね。邪魔になっちゃ悪いもんねえ」

「お母さん、今何時だと思ってんのよ。こんな時間に出かけて行く人なんかいるわけないでしょ!」

ついに笑いがこらえきれなくなる。クックッと口から小さく音が漏れる。義母は気付かない。

息を大きく吸う。喉の奥でヒューと音がする。自分でも驚くほどの大きな音だ。

「何か言ったわよ!」

義母が叫ぶ。半歩飛び退き、また尻を付く。

「大丈夫そうね」

ひとみの声が近づく。

「酔っぱらってるだけなんじゃないの?ほら、お酒の匂いしてるじゃない?」

顔が近づく。薄く開けていた目を、慌てて閉じる。

「お母さん、ほっといて朝ごはんにしようよ」

「そうね。でも、なんで素っ裸なのかしらねえ」

「さあ?この人わかんないわよねえ、やることが」

「でも、よかったじゃない?なんでもなくて」

「コロリと逝ってくれればいいけど、中途半端に助かってくれるのもねえ」

「それはそうだけど」

「そろそろお金の心配もしてくれないとねえ」

「ひとみちゃん、トーストでよかった?」

「うん。あ!弁当どうしよう?」

「冷凍のおかずセットがあるわよ」

「じゃ、それでいいか。紅茶忘れないでね」

「繁さん、珈琲がいいんじゃない?」

「いいの、いいの。いつ起きるかわかんないし」

「何か被せておく?」

「洗濯機にバスタオルが2枚あるから、それ持ってきて」

何度もひとみの足が身体をまたぐ。おそるおそる動いていた爪先が、やがて容赦なく腹に食い込む。くの字のまま、腹筋を固める。吐いたおかげか、胸はすっきりしてきている。

「こんな人じゃなかったのにねえ」

義母のため息交じりの声がする。バスタオルが腰に、胸に、落とされる。

「もう終わってるから。社会人としては」

ひとみの声が冷たい。

「終わってもらっちゃ困るんだけどねえ」

義母のため息は深い。

「せめてローンが終わるまでは頑張って欲しいんだけどさ」

「後どれくらいだった?1年?」

「そんなに残ってたら大変よ。お母さんと私、二人でパートになるわよ」

「半年くらいだったら払っちゃう?」

「なに言ってんの。老後の生活費や医療費、きちんと計算してあるんだから。手は付けられないわよ」

「だったら売っちゃえば?ここ」

「売り時じゃないのよ、今。それに、ほら…………」

突然ひそひそ声に変わる。まったく聞き取れない。

母娘の間では、何やら密約が交わされ、着々と準備が進められているようだ。

「う~~~~ん」

大きく唸ってみる。話し声が止まる。雀の声が耳に届く。12階までやってくるのは珍しい。

身体を反転させる。そっと手を伸ばし、バスタオルを腰に当てる。

ひとみの指先が鼻に当たる。呼気を確かめたようだ。

「さ!朝ごはんにしましょう」

足音が遠ざかる。床につけた耳に、様々な外界の音が聞こえてくる。クルマの音、バイクの音、風の音……。東京はもう着実に動いている。

            Kakky(柿本洋一)

  *Kakkyの個人ブログは、こちら→Kakky、Kapparと佐助のブログ


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