俳句日記/高橋正子

俳句雑誌「花冠」代表

3月18日(金)/彼岸入り

2011-03-18 07:09:40 | Weblog
囀りの抜け来る空の半円球   正子
読み手に快い思いを与えてくれるのは、作り手の心が新鮮で、句を楽しんで作っているからであろうと思われます。句が生き生きとしています。(高橋信之)

○今日の俳句
大空はどこまでも青く辛夷咲く/高橋秀之
真っ青な大空に、花びらをひらひらと崩して辛夷が咲いている。大空の青に対して、自然の姿をよくとどめる辛夷の花が印象的な句である。(高橋正子)

○四季の森公園の春
昨日、3月17日信之先生と四季の森公園に出かける。
10時過ぎに出かけ昼過ぎには帰る予定。グリーンラインは、時間帯による運休が三十分程度ずつ2度あるが、平常運転。空は晴れ。放射能が微量含まれる空のようだ。ベランダの黄水仙がテラコッタの鉢に咲く。

北北西の風のゆすれる黄水仙 正子

中山駅から四季の森公園へは、プロムナードを通って十五分ぐらいで着く。歩き始めると、乙女椿や藪椿。辛夷の花がびっしりと蕾を付けた並木があり、一本はかなり咲いている。薄い雲を入れて、写真に撮る。程なく公園に入る。入口からはすっかり葉を落とした雑木林の起伏がきれいに見える。すぐの蓮池には、鴨が三羽と亀。遠目に黄色い花木が見える。何か咲いているだろうと奥へと歩く。黄色い花はさんしゅ。花は満開で十本以上はあるだろう。フランス絵画に出てくるような石の橋があって、その橋を入れてさんしゅうを写真に撮ったりする。橋の反対側に三椏がこれも満開。数本はある。池沿いを菜の花畑のほうへ道を歩く。山桑が芽吹いて、池の水に触れそうに垂れている枝もある。初夏には、この山桑の実が熟れる。菜の花畑に出会う。丈短く咲いているので景色として何枚か撮る。その菜の花畑の端に山水が流れる小川あり、三椏の花がここにも咲いている。流れを入れて三椏を撮る。さらに歩くと菖蒲田があるが、今は井桁に組まれた木道が目だって、田にはようやくはさみのような芽が出ているだけ。菖蒲田の木道を歩き、横の小道に逸れると、枯木の一部が芽吹いたような木がある。クヌギかなにかだろうと近くに寄ると、まんさくの花であった。まんさくの花のよさは、ところどころに汚らしいとも思える枯葉が一二枚残っていことだ。この風情は捨てがたい。5メートルはありそうな木であるので、全体を写す。小さい花を撮りたいと思い地面に目を凝らしながら歩く。ようやく咲き始めたおおいぬのふぐりが、やはりあった。なずなの花も小さい。たんぽぽが子どもの寝起きの髪の毛のようにに花びらをほぐして咲いている。

辛夷、さんしゅう、三椏、まんさくと、早春の花がとりどり見れた。おおいぬのふぐりのあるところに休憩所があり腰を下ろす。春浅い日差しがなんとも言えない。信之先生が言う。「正子が死んだら、ここに来て、あのときは、いぬふぐりが咲いていたなあ、と思うだろう。」私は「あははは。」と笑う。戦中派の信之先生は、私より年上なので、こういうことを言うのだ。ここに言う「なので」は、「だけれど」ではない。戦中派というか、とある個人は「自分が死ぬ」と考えないか、「死んでたまるか」と考えるかであろう。ある癌患者の方が癌とわかり、医者に「それでは、これからどのように暮らしたらよいのでしょうか。」と聞いたら、医者は「癌ではないと思って暮らしてください。」と言われたそうだ。こういう考え方も面白いと思ったことである。これこそが春浅き日の自然の意思とも思えるのである。

帰宅後、写真を見ると、カメラが良くなったせいか、少し、自然の表情が出ているのでは、と思った。

◇生活する花たち「山茱萸(サンシュユ)・三椏(ミツマタ)、満作(マンサク)」(横浜四季の森公園)
コメント (1)
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