■源義經隠れ塔■
(10th October 2007)
★金峯神社★ 奈良県吉野郡吉野町吉野山1651
世界遺産
・延喜式内社、大和國吉野郡、金峯社、名大、月次相嘗新嘗。
・舊社格は社。
・祭は金山毘古。当社では、金鉱を護持する地主として崇め、また、伊奘冉が悶熱(かれ)悩んで火の軻遇突智を産み、その際の嘔吐物から生まれたであることから「かれなやむ」を「枯れ悩む」の意とし、生物の枯死を防ぎ虫毒を除くをして、古來崇敬される。
・金精明、愛染の宮と呼ばれる。
・創祀年代は不明。林道春の社詳説には、古今皇代図説の記事を引いて「宣化天皇の三年和州金峯山に明出現、安閑天皇の靈と稱す」とあるが、詳かでない。吉野八社明の隨一であり、恐らく創祀は奈良以前にさかのぼると思われる。
・『文實録』仁壽二年(852)十一月九日條に「大和國金峯に特に從三位を加える」、翌三年五月十日條に「大和國金峯を以って名大社に預かる」などの記述が殘る。
・金峯山修験の興隆と佛習合思想の隆昌に伴い、平安時代から鎌倉時代にかけて當社付近に幾多の寺社堂塔が建立され、多くの僧俗の修行場となった。
・明治以前には金峯山寺藏王堂を口の宮、當社を奥の宮と稱したという。
・古代人の抱いた山への秘感などから、この山が黄金の産地に違いないという推測が生まれ、いつの間にか事實のように傳承されることになり、皇圓の『扶桑略記』の「道賢上人冥途記」では金峯山上は金色まばゆい黄金淨土の世界として描かれるにいたった。この地に、金鉱守護のとして金山毘古が祀られた所以という。
・聖武天皇が大佛鑄造のための金を求めたとも言われるが、藏王權現からここの金は彌勒出世のとき述べ敷くためのものだからと斷られ、その代わりに近江國で祈願するように言われ、ついに陸奥國で砂金産出の報を受けたという内容のことが『東大寺要録』に残る。
・吉野山には、金峯社、吉野水分社、勝手社の三つの古社があり、青根ヶ峯(吉野山の奥)に比定される芳野水分峯の神として包攝されていたが、金山毘古、天水分命、大山祇命の三靈として時の推移とともに分化し、それぞれ奉拜に便利な位置に勧請されたと考えられ、金峯社は山の地主との認識から水分峯に最も近い吉野の山の位置に祀られたと考えられている。
・『榮華物語』には藤原道長が詣でたことが記されている。
■修行門(一の鳥居)■
(6th December 2009)
■二の鳥居■
(10th October 2007)
(6th December 2009)
■拜殿■
(10th October 2007)
■本殿■
(10th October 2007)
(6th December 2009)
((コメント))
2007年10月10日
源義經隠れ塔で知られるが、果たしてこれが平安末期から鎌倉時代にかけて立っていた當時の建物とは思わない。それに、もしそうであったらば、國寶か國重要文化財であるはずだからね。まあ、いずれにせよ、鎌倉殿より追討される立場になったときにこの辺りに來たのは、靜御前が中千本でとらわれていることからも確實である。傳承では、義經一行が三日ほどこの近辺に潜んだとの事。
そして、さらに百メートル弱歩くと金峯山寺藏王堂奥の院といわれる金峯社が建つ。ここは、社務所が数年前に放火され全燒したが今は再建している。反對に同時期に全燒させられた勝手社はいまだに再建の目処が未だに立っていない。義經憎しの犯行なのか?
2009年12月6日
久しぶりの金峯社。相変わらず、奥千本は寒い。いつもは殆んど訪れる人も少ないが、この日は何故か、最初に初老の夫婦、そして、二十代のカップル、最後にはなんと白人の男性二人と遭遇。さすが、世界遺産に含まれるだけあるというべきか。社自體は、あいも変わらず、奥千本の水と自然の香りを境内に漂わせているところである。
(10th October 2007)
★金峯神社★ 奈良県吉野郡吉野町吉野山1651
世界遺産
・延喜式内社、大和國吉野郡、金峯社、名大、月次相嘗新嘗。
・舊社格は社。
・祭は金山毘古。当社では、金鉱を護持する地主として崇め、また、伊奘冉が悶熱(かれ)悩んで火の軻遇突智を産み、その際の嘔吐物から生まれたであることから「かれなやむ」を「枯れ悩む」の意とし、生物の枯死を防ぎ虫毒を除くをして、古來崇敬される。
・金精明、愛染の宮と呼ばれる。
・創祀年代は不明。林道春の社詳説には、古今皇代図説の記事を引いて「宣化天皇の三年和州金峯山に明出現、安閑天皇の靈と稱す」とあるが、詳かでない。吉野八社明の隨一であり、恐らく創祀は奈良以前にさかのぼると思われる。
・『文實録』仁壽二年(852)十一月九日條に「大和國金峯に特に從三位を加える」、翌三年五月十日條に「大和國金峯を以って名大社に預かる」などの記述が殘る。
・金峯山修験の興隆と佛習合思想の隆昌に伴い、平安時代から鎌倉時代にかけて當社付近に幾多の寺社堂塔が建立され、多くの僧俗の修行場となった。
・明治以前には金峯山寺藏王堂を口の宮、當社を奥の宮と稱したという。
・古代人の抱いた山への秘感などから、この山が黄金の産地に違いないという推測が生まれ、いつの間にか事實のように傳承されることになり、皇圓の『扶桑略記』の「道賢上人冥途記」では金峯山上は金色まばゆい黄金淨土の世界として描かれるにいたった。この地に、金鉱守護のとして金山毘古が祀られた所以という。
・聖武天皇が大佛鑄造のための金を求めたとも言われるが、藏王權現からここの金は彌勒出世のとき述べ敷くためのものだからと斷られ、その代わりに近江國で祈願するように言われ、ついに陸奥國で砂金産出の報を受けたという内容のことが『東大寺要録』に残る。
・吉野山には、金峯社、吉野水分社、勝手社の三つの古社があり、青根ヶ峯(吉野山の奥)に比定される芳野水分峯の神として包攝されていたが、金山毘古、天水分命、大山祇命の三靈として時の推移とともに分化し、それぞれ奉拜に便利な位置に勧請されたと考えられ、金峯社は山の地主との認識から水分峯に最も近い吉野の山の位置に祀られたと考えられている。
・『榮華物語』には藤原道長が詣でたことが記されている。
■修行門(一の鳥居)■
(6th December 2009)
■二の鳥居■
(10th October 2007)
(6th December 2009)
■拜殿■
(10th October 2007)
■本殿■
(10th October 2007)
(6th December 2009)
((コメント))
2007年10月10日
源義經隠れ塔で知られるが、果たしてこれが平安末期から鎌倉時代にかけて立っていた當時の建物とは思わない。それに、もしそうであったらば、國寶か國重要文化財であるはずだからね。まあ、いずれにせよ、鎌倉殿より追討される立場になったときにこの辺りに來たのは、靜御前が中千本でとらわれていることからも確實である。傳承では、義經一行が三日ほどこの近辺に潜んだとの事。
そして、さらに百メートル弱歩くと金峯山寺藏王堂奥の院といわれる金峯社が建つ。ここは、社務所が数年前に放火され全燒したが今は再建している。反對に同時期に全燒させられた勝手社はいまだに再建の目処が未だに立っていない。義經憎しの犯行なのか?
2009年12月6日
久しぶりの金峯社。相変わらず、奥千本は寒い。いつもは殆んど訪れる人も少ないが、この日は何故か、最初に初老の夫婦、そして、二十代のカップル、最後にはなんと白人の男性二人と遭遇。さすが、世界遺産に含まれるだけあるというべきか。社自體は、あいも変わらず、奥千本の水と自然の香りを境内に漂わせているところである。