の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

大馬社

2010年08月12日 23時51分01秒 | 近畿(三重、和歌山)
■禊ぎ場■
(20th March 2010)
 


★大馬社★ 三重県熊野市井戸町4333

・舊社格は村社。

・祭は天照大御。天兒屋根命、譽田別命、大山祇命、武天皇、仁天皇を配祀。本來の祭は天日鷲命と思われる。

・古くは、大麻權現といい、延喜式名帳の阿波國大麻比古社、讃岐國大麻社と同であるとおもわれ、忌部(齋部)系の社であったと推測される。實際、地名に殘る「井土(いつち)」は齋の住した地という意味であり、齋部が存在したであろう名殘とされる。

・現在は大馬「おおま」であるが、本來は、大麻「おおあさ」であると考えられ、實際、於保阿佐とすべきところを略稱し、於保佐としたところから、大佐と『紀伊國名帳』には記されている。

・第五十一代平成天皇の御世に、征夷大將軍坂上田村麻呂が鬼ヶ城で討ち取った鬼の首魁の首を地中に埋めてその上に社(熊野三所權現)を建立し、勅許を得て、當時の熊野國總鎭守としたと言われているが、實際には、その時代にはすでに熊野國は紀伊國の一部になっていることより、「熊野國總鎭守」との勅が降りることはなく、現實に、大馬地区だけの氏であり、明治末年に井戸、研屋の八幡社を合祀した為に現在は十二組の氏となっているのみである。

・『南紀社録』は「大同四年(809)田村將軍建立の社というが不明。新宮の末社である」と記している。

・地元の人曰く、田村麻呂創建というが、それ以前より、祭祀はあったといい、忌部系の大麻權現がそれであったと思われる。

・天正三年(1575)、堀内安房守が社領九石を寄進、慶長五年(1600)淺野氏が社領五石を寄進、元和五年(1619)川氏もその五石を踏襲。

・境内に狛犬はなく、七里ガ浜にある獅子巌が大馬社の天然の狛犬というが、實際は不明。おそらく、大馬社が熊野國總鎭守を自稱したがために生まれた説であろう。


■社叢■
(20th March 2010)

 


■參道■
(20th March 2010)
 


■禊ぎ場■
(20th March 2010)

 


■清瀧不動尊、白光大明■
(20th March 2010)
 


■清瀧■
(20th March 2010)
 


■手水舎■
(20th March 2010)
 


■拜殿■
(20th March 2010)



■本殿■
(20th March 2010)
 


■磐座■
(20th March 2010)



■磐座、拜殿■
(20th March 2010)
 


■木■
(20th March 2010)
 


■末社田村社■
(20th March 2010)



■末社白馬社■
(20th March 2010)



((コメント))

2010年3月20日

 坂上田村麻呂創建という噂であったので長い間敬遠していた社である。しかし、どうも、これは、田村麻呂創建ではなく、忌部氏がその祭祀に關わっていたようである。地元に、忌部、齋部の傳承は殘っていないが、井土「いつち」は齋(いつき)の地とされ、齋部の地であることから、紀伊の忌部族が入っていたのであろう。田村麻呂傳承に關しては、田村麻呂ではなく、大和朝廷の誰かが熊野を支配地にするために攻め込んで、ここまでやってきたということを示すのではないか、と思う。あまり、社の縁起は信用はしかねるというものである。

 境内は、すごいところであり、水と土、つまり、自然のが鎭座している社であった。境内の瀧の美しさも特筆すべきことである。一度、行くとよいように思わざるをえない。


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