■祓い場、もしくは、末社蹟■
(16th June 2011)
★覩上社★ 長崎県壱岐市芦辺町湯岳本村触271
・舊社格は村社。
・祭は素盞嗚尊、奇稻田姫命、大己貴命。
・舊平戸藩崇敬十七社の一社。
・舊稱は妙見宮。
・延寶四年(1676)の調査により式外と定められるも、それ以前は、式内角上社と考えられていたという。
・鎭座については諸説ある。當初、山上に出現した神であるが、祭祀の便利のため、麓に社殿を造営、奉遷したという説、覩城築城の時、城域鎭護のため鎭まったと言う説、悪魔除伏、疫癘防禦のため此地に祭鎭という説などがある。
■鳥居■
(16th June 2011)
■拜殿■
(16th June 2011)
■拜殿、本殿■
(16th June 2011)
■水■
(16th June 2011)
((コメント))
2011年6月16日
一説には、覩城の鎭守としての鎭祭ということであるが、覩城の築城は、長田忠致によるとのこと。平治の亂の恩賞ということになると、平治元年(1159)以降のことになるので、今より八百數十年遡った時代の話となる。その鎭守として。新しく創建されたものであれば、延喜式内社でないことは確かであるが、おそらくは、當時から存在していた古社を鎭守にしたのではないか、と思わざるを得ない。長田忠致は尾張にて、自分の主でもある頭殿こと、源義朝と、自らの女婿でもあり、源氏の總大將である義朝の乳母兄弟でもある鎌田政家を騙し討ちにして、平盛にその首を持っていき、壹岐の國司になった人物である。その恩賞に不服であったために、一度は壹岐に行くも、すぐに、尾張に歸ったくらいの人物であり、新たに社を建てるような人物には思われないのである。長田忠致の城の名にもある「ト」であり、實際、當社も「ト」のと呼ばれていたようであり、そう考えると、深江社、角上社とセットのような氣もする。
社自體、橘三喜の査定以前は式内社と考えられていたことからも、古社であることに疑いはなく、境内にもそれなりの氣の格が感じられることは事實である。ただし、式内角上社であるかどうかは疑問である。
しかし、橘三喜だけの責任にはすべきではないが、よくもまあ、ここまで物事を混迷させるような調査をしてくれたものである。だから、江戸時代の國學者は嫌いなのである。
(16th June 2011)
★覩上社★ 長崎県壱岐市芦辺町湯岳本村触271
・舊社格は村社。
・祭は素盞嗚尊、奇稻田姫命、大己貴命。
・舊平戸藩崇敬十七社の一社。
・舊稱は妙見宮。
・延寶四年(1676)の調査により式外と定められるも、それ以前は、式内角上社と考えられていたという。
・鎭座については諸説ある。當初、山上に出現した神であるが、祭祀の便利のため、麓に社殿を造営、奉遷したという説、覩城築城の時、城域鎭護のため鎭まったと言う説、悪魔除伏、疫癘防禦のため此地に祭鎭という説などがある。
■鳥居■
(16th June 2011)
■拜殿■
(16th June 2011)
■拜殿、本殿■
(16th June 2011)
■水■
(16th June 2011)
((コメント))
2011年6月16日
一説には、覩城の鎭守としての鎭祭ということであるが、覩城の築城は、長田忠致によるとのこと。平治の亂の恩賞ということになると、平治元年(1159)以降のことになるので、今より八百數十年遡った時代の話となる。その鎭守として。新しく創建されたものであれば、延喜式内社でないことは確かであるが、おそらくは、當時から存在していた古社を鎭守にしたのではないか、と思わざるを得ない。長田忠致は尾張にて、自分の主でもある頭殿こと、源義朝と、自らの女婿でもあり、源氏の總大將である義朝の乳母兄弟でもある鎌田政家を騙し討ちにして、平盛にその首を持っていき、壹岐の國司になった人物である。その恩賞に不服であったために、一度は壹岐に行くも、すぐに、尾張に歸ったくらいの人物であり、新たに社を建てるような人物には思われないのである。長田忠致の城の名にもある「ト」であり、實際、當社も「ト」のと呼ばれていたようであり、そう考えると、深江社、角上社とセットのような氣もする。
社自體、橘三喜の査定以前は式内社と考えられていたことからも、古社であることに疑いはなく、境内にもそれなりの氣の格が感じられることは事實である。ただし、式内角上社であるかどうかは疑問である。
しかし、橘三喜だけの責任にはすべきではないが、よくもまあ、ここまで物事を混迷させるような調査をしてくれたものである。だから、江戸時代の國學者は嫌いなのである。