■中門■
(16th June 2011)
★熊野社★ 長崎県壱岐市勝本町立石南触584
・延喜式内社、壹岐嶋壹岐郡、阿多彌社、論社。
・舊社格は村社。
・祭は伊弉册尊、素盞嗚尊、事解男、速玉男。天照大、國常立尊、正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、天津彥彥火瓊瓊杵尊、彥火火出見尊、軻遇突知命、埴山姬命、罔象女、稚產靈、大山祇を配祀。
・立石村の產土。
・『壹岐風土記』によると、當社は紀伊熊野大と同體、すなわち、往昔、本宮和泉守橘貞兼が熊野より迎ヘ齋き奉り勸請とのことである。
・布代城主勸請、また、上川の居立石氏の勸請とも傳えられる。
・天平元年(730)、遣唐使多治比廣成の官命により鎭座とも傳えられる。
・立石村の海邊に溫泉があり、昔の代には地名を「アタミ」と言ったという。これが、式内社阿多彌社の論社たる理由であるという。
■正參道(南)■
(16th June 2011)
■東鳥居■
(16th June 2011)
■拜殿■
(16th June 2011)
■中門、本殿■
(16th June 2011)
■本殿■
(16th June 2011)
■末社■
(16th June 2011)
((コメント))
2011年6月16日
延喜式内社阿多彌社の論社の一つ。近くの阿多彌社よりも、阿多彌社に相應しく思われる社。「あたみ」を熱水と考えると、溫泉と繋がるように思われる。熊野社に今はなっているが、熊野のが祀られているのはおそらく、廢れた社に盛であった熊野のが勸請されたことによるのであろう。おそらくは、遣唐使多治比廣成に關わる鎭座が祭祀の始めであるのではないか、と思う。熊野のを勸請し、この社に深く關わっている橘貞兼は、壹岐の式内社を査定した橘三喜の七代前の人物に當たるようであり、その三喜が當社を阿多彌社に比定しなかったことは、疑問ではある。單に現在の阿多彌社の鎭座地名が「アザミ」から轉じた「アタミ」に拘っただけなのか、熊野社に何か、式内社ではないと判斷し得る社傳があったのか。あの世で橘三喜に會い、聞いてみたいものである。
ところで、社殿に關して、拜殿は壹岐らしいものであるが、本殿は久久に社を見た、という感じであった。正參道は雰圍氣もよく、好感が持てるものであった。
(16th June 2011)
★熊野社★ 長崎県壱岐市勝本町立石南触584
・延喜式内社、壹岐嶋壹岐郡、阿多彌社、論社。
・舊社格は村社。
・祭は伊弉册尊、素盞嗚尊、事解男、速玉男。天照大、國常立尊、正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、天津彥彥火瓊瓊杵尊、彥火火出見尊、軻遇突知命、埴山姬命、罔象女、稚產靈、大山祇を配祀。
・立石村の產土。
・『壹岐風土記』によると、當社は紀伊熊野大と同體、すなわち、往昔、本宮和泉守橘貞兼が熊野より迎ヘ齋き奉り勸請とのことである。
・布代城主勸請、また、上川の居立石氏の勸請とも傳えられる。
・天平元年(730)、遣唐使多治比廣成の官命により鎭座とも傳えられる。
・立石村の海邊に溫泉があり、昔の代には地名を「アタミ」と言ったという。これが、式内社阿多彌社の論社たる理由であるという。
■正參道(南)■
(16th June 2011)
■東鳥居■
(16th June 2011)
■拜殿■
(16th June 2011)
■中門、本殿■
(16th June 2011)
■本殿■
(16th June 2011)
■末社■
(16th June 2011)
((コメント))
2011年6月16日
延喜式内社阿多彌社の論社の一つ。近くの阿多彌社よりも、阿多彌社に相應しく思われる社。「あたみ」を熱水と考えると、溫泉と繋がるように思われる。熊野社に今はなっているが、熊野のが祀られているのはおそらく、廢れた社に盛であった熊野のが勸請されたことによるのであろう。おそらくは、遣唐使多治比廣成に關わる鎭座が祭祀の始めであるのではないか、と思う。熊野のを勸請し、この社に深く關わっている橘貞兼は、壹岐の式内社を査定した橘三喜の七代前の人物に當たるようであり、その三喜が當社を阿多彌社に比定しなかったことは、疑問ではある。單に現在の阿多彌社の鎭座地名が「アザミ」から轉じた「アタミ」に拘っただけなのか、熊野社に何か、式内社ではないと判斷し得る社傳があったのか。あの世で橘三喜に會い、聞いてみたいものである。
ところで、社殿に關して、拜殿は壹岐らしいものであるが、本殿は久久に社を見た、という感じであった。正參道は雰圍氣もよく、好感が持てるものであった。